東十二丁目付近の河道移動

(「北上川 第6輯」(S52.3.19 東北地方建設局岩手工事事務所)より)
第一部 北上川流域の自然
第四編 河道変遷
第二章 旧河道と変遷
第二節 各論
五、稗貫地方

北上川河道(一)外台地区
花巻市東郊における北上川は、市街地の北方、同市高木蛇子塚において左支猿ヶ石川を合流し、同地先を南流して朝日橋を過ぎ、右支豊沢川を入れ、更に、同市南郊外台(右岸)東岸に沿うて南下し、その南端附近に至り流向を南東に転じ、左岸同市東十二丁目朴田地先に至り、再び、南流となり北上市更木、市ノ川原を経て、同舟渡地先を西より南に迂廻し、更に、同野沢地先で三度南流に転じ北上市立花方面に南下するところである。

外台河道(原始期)
同地区における古河道は、高木地内番屋南方で同地域内に入り、北上山地西辺の八ッ森、以加里、大森、姥猿、金栗等の丘麓に沿うて南流し、更木地内野沢附近に至ったところである。(第54図)

外台河道(古代)その後、洪水等に起因するところであろうか、河道は一転して沖積平野の中央部に異動し、旧河道跡には、後に、蒼前、前平、久保、中島等と称されるに至ったところの低地が形成されるところである。
沖積平野における新河道は、花巻地区(別項)の流末による影響であろう、高木地区久田の西岸より南岸に深く彎入し、更に、前平、小袋等の西岸及び北岸を径て荒屋敷西岸で南流に転ずる蛇行河川を形成するところである。(第55図)

従って、三方河流によって囲繞されるに至ったところの字島長根は右岸下根子地域に接続する所であり、島村と称され外台村等と共に東十二丁目とも称されたところで「邦内郷村志」外台村の条に次の如くある。…
と、いずれも島村は北上川の西、右岸に属する地域としている。…

外台河道(中世)その後、河道は.更に西に移動し、豊沢川合流点附近より外台地内を縦断して南下し、同地内南部横町地先の段丘崖に直突して、獅子鼻淵を形成し、更に、急転して東流となり、古代河川の河道に入り南流するに至ったから、島長根、外台地内の一部等は本川の左岸地となり、旧河道跡は、後世において後川原、古河、新田、鹿鼻、中川原等と称される低地及び前述の照井沼等を残すところである。(第56図)
更に、獅子鼻淵を眼下にする段丘崖には、中世に至り地方武士が居館を設け拠るところである。…

外台河道(近世1)しかるに、その後、更に河道は西方に移動を続け、近世中期末には、さきに南部氏が新領地経営のため築造するところの鳥谷ケ崎城及び二子古城を結ぶ直線道路の下部まで欠け込むところとなり、南部氏によって護岸等の工事が施工されている。(第57図)…

しかし、浸蝕、欠け込等は容易に止るところでなく、遂に、右岸に深く彎入するところと.なり、鳥谷ケ崎、二子の街道は西方に孤状を呈するに至り、外台村は島長根と共に左岸地となり、周囲一帯を入れて東十二丁目村を称するに至ったのであるが、進む地域の変革は村域に影響するところ多く、境界論争に発展すると共に、租穀上納等の円滑を欠くこと甚しく、遂に、南部藩は同地内に新川開削を計画するに至ったのである。(第58図)…
外台河道(近世2)天明元年(1781)開削するところは、豊沢川合流点附近より南に向け外台村の東、島長根との間を掘り、中世代における獅子鼻淵附近に至るところである。…

外台河道(明治)寛政7年(1795)(1787ママ)北上川外台御普請日記手扣等に見られる如く維持修繕等を施工し、河道の変遷を極力防止に務め明治維新に至らしめるところである。(第59図)

維新後は暫く放置され、更に、同中期における北上川低水工事の施工に当っても特に護岸、水制等の施設が行われることなく、近代に及ぶところであるが、河床の低下に因るのであろうか、河身の移動は殆ど見られないところである。(第60図)

外台河道(現況)(2014.5.21 掲)

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