亮次郎の迷走

-メキシコ上陸から三奥組合結成まで-

1897(明治30)  亮次郎 23才
5月10 サンベニト港に上陸。亮次郎は監督者草鹿砥に同道して旅宿選定のため午後1時頃馬でタパチュラに向け先発。午後7時頃タパチュラ着。英国殖民会社支配人の厩を殖民団一行の宿舎に借り、食物は中国人料理店から取寄せ、一行の到着を待つ。一行は午後2時ごろ徒歩で出発。11日午前4時過ぎにタパチュラ着。亜熱帯性気候の暑さで大きな苦痛を味わい、早くも前途への不安と不満が芽生える。サンベニトからタパチュラまで約30km。
5月16 携行した食料品の到着を待って、タパチュラに5日間滞在。日中の高温を避けるため、午前2時に出発。午後1時頃に予定の宿泊場所、ウエビタンに到着。食事は自炊。
5月17 午前3時に出発し、ウィストラに到着。
5月18 午後2時頃、亮次郎等は遂に目的地のエスクイントラに到着。タパチュラからエスクイントラまで75km。
5月19 病人が出たため遅れていた3名が午後9時に到着。横浜港出港以来、実に57日目。この日を「殖民地創始の記念日」と定め、毎年祝うことにする。
住居未完成のため、メキシコ人の小屋2軒にひとまず落ちつく。
 2日間の休息後、農地の開墾に着手。5日後「武揚村」の日本家屋に移動。奥行11m、長さ27mの出入口には戸もない掘立小屋であった。
○ 自由移民5名は、早速土地を購入して開墾に着手する計画であったが、榎本殖民団(日墨拓殖会社)の要請を受けて、暫時殖民団を支援することになった。監督者草鹿砥は言う「独立移住者は、監督者と労働者の間に立って、ある時は監督者を補佐し、ある時は労働者を激励鼓舞してくれた。」
6月初旬頃から 亮次郎は日墨拓殖会社の雇員としてコーヒー栽培を担当し、コーヒー適地を求めて殖民地内の山野を探検する。
 亮次郎等6名が出資して「丁酉(ていゆう)会社」を設立。殖民地附近にコーヒー園5町歩、牧場5畝、畑3町歩、家屋3棟を会社名義で購入。「太郎村」と命名。
7月中旬 丁酉会社は日墨拓殖会社からコーヒー園4町歩、カカオ園1町歩、その他未開地220町歩を買入れる契約をし、第1回払込を終えた。その他に家3棟、牧場2町歩を買入れ、更に300町歩あまりの土地を買う計画で殖民地内の適地を探検した。また将来の商業営業を想定し、熊太郎をタパチュラのドイツ人豪商のもとに商業見習として派遣した。
11月末 亮次郎は殖民地農場支配人代理・榎本龍吉の依頼を受け、殖民地事情を報告するため離墨した。

1898(明治31)年  亮次郎 24才
1月7日 横浜着
 殖民地の事情報告だけでなく、丁酉会社の資金手当てに奔走し、日本殖民株式会社と組むことを決断する。
 榎本武揚と度々面談するも、失望するのみ。
1月27 横浜港出港
3月6 サンベニト港に再上陸。殖民地に帰る。
 亮次郎の手紙に「殖民地一同は無事に暮らしておりますが、内一人は死に瀕した労働者もいます。その他はなすこともなく毎日遊び暮らしている者達だけです。我々丁酉会社の者はそれとは異なり一同勉強事に従い、タバコ、綿、米も若干の収穫があり前途有望であります。しかし、榎本氏の会社(日墨拓殖会社)の方針により採る手段の変化は未だ分らないので…」とある。
6 榎本殖民地には会社から資金の送金がなく、殖民地経営は苦しい。
 丁酉会社は日本殖民会社と合併。
10 亮次郎の手紙「…榎本子爵の日墨拓殖会社の様子は日増しに良くありません。遠からず破滅のことと存じます。元より本国からは資金を送らず、労働者には不平のみが多く、監督者はその当を得ません。…我々奥州人の会社は互いに睦まじく支えあい、協力一致して事業に従事しつつあります。…」

1899(明治32)  亮次郎 25才
1月初め 日本殖民会社倒産。
 丁酉会社も解散。亮次郎の手紙に「…組合員のうち一人を留めて事業(製糖)を継続せしめ、他は各自思うところに行き、見込み次第衣食する事と議を決しました。…」とある。
2月22 亮次郎、墨府(メキシコシティ)に向けエスクイントラを出発。
「明日よりはいづこの里の草枕露の志とねに袖しぼるらん」
3月28 墨府に入る。(エスクイントラ→タパチュラ→サンベニト…>サリナクルス⇒テワンテペック⇒コアツァコアルコス…>ベラクルス⇒オリサバ⇒墨府)
4 ディアス大統領夫人経営の慈善学校で養蚕を引受ける。(第三眠~上簇)
6 サンミゲル・デ・アジェンデ(墨府の北西270km)にある農場の管理人となる。
10 墨府に戻る。

1900(明治33)  亮次郎 26才
4月6 墨府を出発。
4月25 エスクイントラに帰着。
 多福岡(タフコ)農場で再起のための準備に取りかかる。

1901(明治34)  亮次郎 27才
3月4 三奥組合が設立された。
亮次郎起草の「組合創立の趣意」に言う:
「回顧すれば、我々が殖民者として母国を辞してから春秋既に五回歳月が過ぎ去り、実に夢のようである。ああ、我々が明治30年5月11日、第一歩を墨国の陸に印してから今日に至るまで、楓風落雨よく艱難を忍んで貧苦と戦闘を継続し得たのを思えば、信に思い半ばに過ぎて、いつの日かこの強敵を征服して以て窮境を脱し殖民の基礎をなす事ができようか。
況や首唱者である榎本武揚氏は未だ敵を見ないうちに既に早くも鞭を上げて逃れ、怯兵弱卒は皆塁を捨てて走り去ってしまった。ああ、どうして我が同胞は平和の戦争に意気地がなく臆病なのか、怯儒であることの甚だしいことか。
我々は僅かに数人でこの孤城を死守し、しかも外からの援軍を期待することはない。…思うに、殖民が今日未だこの悲境を脱することができない理由は、この土地における言語、知識、経験が足らないのと、資本が続かないにもかかわらず、人々が皆各所に独立して協同一致、緩急ともに助け合う方法を採らないことに原因がないのか。…
ここに同志を多福岡(タフコ)農場に会し、盟約を締結し、隊伍を整え、輜重(しちょう)を備え、生存競争堺裏に一決戦を試みて、以て運命をトせんと欲する。成否は元より天にある。ただ至誠を以て一貫することができれば斃れるもまた男子たるを失わんか。…」

設立時の組合員は、自由移民から照井亮次郎、高橋熊太郎、清野三郎、契約移民から有馬六太郎、山本浅次郎、鈴木若の6名であった。

(2014.6.19掲)