メキシコ南部

亮次郎の晩年そして死

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)

日墨協働会社が解散する前、亮次郎は日本から同郷の小田島柳子(注1)という女性を呼び寄せた。「日墨交流史」には、画家・利根山光人氏が「照井を愛した日本人女性」と題して、柳子と亮次郎のロマンという話を寄せている。…

兄・敬三の書いた『照井亮次郎事蹟』によると、亮次郎は1917年帰朝の際自分の下脚の水腫を敬三に示して、また、首府(メキシコ・シティ)において某博士より狭心症の診断をされたという。1917年の頃既に自分の病気に気づいていたものと推察される。この時、亮次郎44歳であった。
自分の理想を追い求めた日墨協働会社が、メキシコ革命により多大の物的損害を受け、また、人生四十代半ばにして密かに自分の病気に気づいていたとすれば、独立して自分一人でやっていく気力とエネルギーはもはや残っていなかったと考えるのが自然ではないか。
既に43歳で妻に先立たれ、人生の後半を新しい伴侶と過ごして生きたいと考えるのは自然であり、亮次郎が帰国した際、柳子とめぐり合ったとしても不自然ではない。…

1921年頃、メキシコで亮次郎は眼を患っていた。白内障か。6月19日付けで亮次郎が渡辺忠二(注2)宛てに出した葉書にそのことが読み取れる。

渡辺君
私共無事十七日当地着御安心下サイ 気候ハ老妻ノ気ニ入ッタソーダガ変化ノタメニ気分ハ余リ良クナイラシイ 僕ノ目ハ全部ハギトル事ハ不可能ニテ永久ニ白雲ヲ残スベシトノ事大ニ失望 併シ視力ノ幾分ヲ快復シ得ベシトノ事

 1922年2月末に柳子が日本に帰った後、亮次郎はオアハカ州リンコン・アントニオに居を移した。この頃には、フェリパという女性と結婚しており、渡辺忠二一家と生活をともにした。このリンコン・アントニオは1929年初めにはマティアス・ロメロと改名されている。

亮次郎は1928年10月には狭心症の発作を起した。そして、一年後の1929年12月28日ベラクルス州コルドバに転居し、1930年1月まで同地に滞在した。そして、同年3月ベラクルス州ロドリゲス・クララに移り、薬店を開業した。

 唯一軒の店で渡辺君夫妻は子供八人下女二人という大家族と私共夫婦に子供均(注3)との経費を支え得る事は難しいと思って、自分で別に新天地を三度開拓のつもりで、昨年秋より用意して十二月二十七日に林根(リンコン・アントニオ)を発ち、二十八日にコルドバに到着して、種々の困難と闘いつつ今年の正月の十二日にやっと店を開けました。
私は同地に到着早々周囲の形勢は甚だしく不利だと見て、荷物を解かない前に他に方向を転じるつもりで、その話をしたら、御存じの高橋熊太郎氏は是非一応店を開けてみよ、もし駄目であったら自分が手伝いして移転をやらせようなどと言って励ますので、開店はして見たものの、やはり周囲の薬店との競争に勝ちを占める事は困難で、収支は合わないと見たので、当地まで退却し、一ヵ月を費やして昨月十六日より当地に開店致しました。
三月末から開店まで約一ヵ月一郎(注4)を手伝わせて、やっと一通り準備が出来たので、一郎は林根に帰りました。
この間私は思い切って自ら肉体の労働もやったが、思いのほか働ける。狭心症も一昨年十月以来来襲しない。もっとも、少し働きすぎると胸に圧迫を感じるが、一寸休めばすぐに良くなりますから、たいした事もないのです。………

 1930年9月24日付け兄宛の手紙が最後となった。死期を悟った内容となっている。

私の動脈硬化は幾分進行と感ぜられ候。狭心症は久敷来らざるも此の頃は指、手首、肘等の関節に筋肉労働后の如き痛みを感じ漸次に全身に及びそうな感じ候。足の両小指も少しく麻痺の感あり蹠(あしうら)部の正中神経は時々引きずる様の痛みを感じ少しの登り坂にも心臓部に壓迫を感ずる有様に候。
右様の次第故前途も余り無きものとして萬事其の覺悟にて働き居り候。結婚は来たりし家内には気の毒なるも私に取っては実に幸福にて、店、薬局、炊事など仕事の大部分はやって呉れ居る故大に助かる次第に候。……
一郎は英國の石油会祉電気部に働き居り候。ロベルト(注5)は速記とタイプライターの學校にて勉強中。
兎に角私の息ある内に萬事を形付け置き度と存候。

 1930年10月14日午後7時30分、亮次郎はベラクルス州の寒村、ロドリゲス・クララで狭心症のため死去した。享年56歳であった。
遺体は15日午後7時、ロドリゲス・クララの墓地に埋葬された。葬儀には妻であったフィリパが立ち会ったが、リンコン・アントニオにいた均、ロベルトや、ミナチトランにいた一郎は葬儀に間に合わなかった。

亮次郎死去の計報は、昭和5(1930)年10月22日付けの書簡で、渡辺忠二から敬三に届いた。…
メキシコに渡航して33年後、亮次郎は異国の土となった。

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亮次郎の墓
Juan Rodoriguez Clara
ロドリゲス・クララ(中心部)近況

[参考]
(注1) 小田島柳子:別稿で紹介の予定
(注2) 渡辺忠二:宮城農学校卒、日墨協働会社社員(1907年入社)
(注3) 照井 均:(1894~1965) 兄・敬三の長男、昭和40年3月11日墨国メキシコ州チャルコ郡テナンゴデル・アイレ村サン・ルイス農場にて死去、行年72才
(注4) ホセ一郎:亮次郎の長男
(注5) ロベルト継亮:亮次郎の次男

(2014.7.25掲)