亮次郎ゆかりの女たち

   母・マス
   妹・スグ
   妻・ロムアルダ
   長女・アウロラ暁子
   次女・ロムアルダコマ
   幼なじみ?・小田島柳子
   後妻・フェリパ

照井マス母・マス
矢沢村矢沢中島家の出身、昭和10(1935)年12月19日死去(96才)。
亮次郎は渡墨に当り、花巻の豪農・松屋の瀬川弥右ェ門の資金援助を受けたが、弥右ェ門の母も中島家の出身だったらしい。

妹・スグ
現・東和町の一ノ倉家に嫁ぐが、娘・秀(シュウ)を連れて実家に戻る。昭和28(1953)年6月3日死去(73才)。
亮次郎の1930年7月31日付け兄宛書簡に「母上のお便りは三、四ヶ月に一度ずつ、おすぐは書いて呉れます。…二度も三度も繰り返して読んで見て楽しみがある。如何にも『故郷の手紙』と云う感じを私に与えます」とある。

スグの娘・秀は台湾で教師をしていたが、終戦前後に帰郷。母親の死後は一人暮らしで、自宅でお花や裁縫を教えていた。一生独身。昭和61(1986)年5月16日死去(80才)。
秀の死をもって、亮次郎の生家、照井家は絶えた。

一ノ倉スグ・照井秀之墓
一ノ倉スグ・照井秀之墓(歓喜寺)

ロムアルダ妻・ロムアルダ
(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
亮次郎の明治34(1901)年12月26日付け両親及び兄宛書簡によると、この年の後半、亮次郎のほか有馬六太郎、山本浅次郎が所帯を持った事が報告されている。結婚には宗教も絡んだようで、手紙によると、法律上の結婚には至っていないが同棲しているとある。亮次郎27歳であった。相手はアカコヤグア村の村長の妹でロムアルダ・クルスである。…

「別に父上及び母上に改めて白状せざるを得ない事があります。我々組合員中妻帯者、即ち墨国婦人を妻女とする者が三人あり、小生もまたその一人であります。…

元来、当地の人間は知識の程度は低いので宗教の祓雇が甚だしく、異教者を人間視しないために困難が多いのです。将来日本人と墨人との間に葛藤が起こることがあれば必ず宗教問題が原因となるでしょう。当国政府は宗教の自由を許し教育を進めようと尽力していますが、宗教は反対の方針に出て、結婚に至っては法律上の結婚は神の意ではないなどと言って国利民福は夢にも省みず、結婚や洗礼で銭を集めようとすることは我が国の本願寺の僧と同一で、一回の説教に十円ずつも貧り我欲を張っています。…
この地の坊主は無学無知識であるくせに日本人を人間ではないなどと言っているようですので、面会次第懲らしめてやろうと考えています。

話は横道にそれますが、小生はかねてしばしば申し上げましたとおり、性質の欠点は常に事に耐えられず、一ヵ所に定住できず、失敗に大いに落胆痛心し夜間不眠等のことがありました…酒は却って非常な悪結果があることを知っているために、菅原氏や高橋氏にも相談して…事業を永遠に期すのであれば小生も妻帯すべしと勧められました。かつ小生も年齢において不足もないのでそれと決心して当村の村長である者の妹を迎い入れ、妾ではなく、妻ではなく、同棲して店を張り、小生は外事にあたっております。色黒く才学などもないですが、忠実に働いております。人種は当地では普通のもので、白人の血液が混じった者であるかどうかははっきりしませんが、容顔はそうまで醜くなく性質も悪い方ではありません。ただ宗教が異なるから、土人は彼是言い、当人もこれには苦心しつつあるようです。とにかくその後は小生の性質も以前のように烈しい変化がなく平穏です。
上述のとおりですので、結婚はしないけれども、まず妻として見るべく、遠地にいて長い月日の間に独棲も難しいので仕方がないものとして黙認ください。…」

明治37(1904)年1月24日  長男・ホセ一郎生れる
明治38(1905)年9月1日  亮次郎と結婚、入籍
明治43(1910)年2月27日  長女・アウロラ暁子生れる
大正2(1913)年1月10日  次男・ロベルト継亮生れる
大正4(1915)年3月12日  次女・ロムアルダコマ生れる
大正4(1915)年12月13日  死去

アウロラ暁子長女・アウロラ暁子
明治43(1910)年2月27日  亮次郎・ロムアルダの長女として生れる
大正4(1915)年12月13日  母・ロムアルダ死去
大正5(1916)年7月初旬  母が亡くなっていたため、7才になるアウロラは日本の伯父・敬三の元に送られることになる。一時帰国する有馬六太郎に従いその娘・パウラ玉(12才)と共に、サリナクルスより離墨、8月初旬 横浜港着

アウロラは伯父に養育され、盛岡で成長。後に西日辞典を編纂した村井二郎の長男・洋(よう)と結婚した。洋は父母と共に1914年に渡墨し、1918年頃帰国している。

次女・ロムアルダコマ
大正4(1915)年12月7日  亮次郎・ロムアルダの次女として生れる
大正4(1915)年12月13日  母・ロムアルダ死去
大正5(1916)年12月  死去

小田島柳子幼なじみ?・小田島柳子
(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
日墨協働会社が解散する前、亮次郎は日本から同郷の小田島柳子という女性を呼び寄せた。…
自分の理想を追い求めた日墨協働会社が、メキシコ革命により多大の物的損害を受け、また、人生四十代半ばにして密かに自分の病気に気づいていたとすれば、独立して自分一人でやっていく気力とエネルギーはもはや残っていなかったと考えるのが自然ではないか。
既に43歳で妻に先立たれ、人生の後半を新しい伴侶と過ごして生きたいと考えるのは自然であり、亮次郎が帰国した際、柳子とめぐり合ったとしても不自然ではない。…
しかし、柳子がなぜ、メキシコへいったのか、いつごろ亮次郎と会ったのかは、推測の域を出ないが、興味あることである(注1)

柳子は、日墨協働会社が解散する前の1918年11月末~12月初め、メキシコへ渡航した(1919年1月タパチュラ着)。1922年2月メキシコを発つ(4月5日横浜港着)まで、亮次郎とメキシコで生活をともにしている。当時女性が単身で外国へ行くというのは、相当思い切ったことであったと思われる。

柳子は1873(明治6)年12月25日、岩手県和賀郡更木村(現、北上市更木)に長女として生まれた。弟・貫一と妹がいた。
明治20年、14歳で島の人、高橋某と結婚。翌年の明治21年12月12日、長男・武夫が生まれる。1902年、柳子29歳の時、夫と死別し、実家に戻る。その後、栃木県在住の三輪唯五と再婚。三輪との間に俊介(離婚後、小田島姓となる)をもうける。しかし、三輪との生活は続かず、1917年、44歳で離婚。東京の京橋区新港町2-3に分家届を出している。

一方、亮次郎は1917年3月離墨し4月中旬頃横浜港着。11月6日、宮城農学校を訪問している。この時、実家にも立ち寄り、兄・敬三にも会っている。

この後亮次郎は帰墨し、これを追って、一年後、柳子が1918年12月初め頃横浜を出港して、メキシコへ渡航している。タパチュラ着は1919年1月頃であろう。亮次郎と柳子は、タパチュラで生活し、1920年5月か6月頃ウィストラで日墨協働会社解散の後、1921年6月17日メキシコシティに着いている(6月19日付け亮次郎から渡辺宛書簡)。その後再びタパチュラに戻っている。二人は正式には結婚してはいないが、事実上夫婦として認知されていた。

柳子は1922年2月20日過ぎ頃、東洋汽船の静洋丸でサリナクルスを経由して離墨している。そして、4月15日横浜に到着した。約50日の航海であった。子供らの出迎えを受けてすぐさま上京、京橋区本港町に、武夫が手配した宿に宿泊する。東京には5月6日まで滞在。…

柳子は、14歳で結婚したので、小学校卒の経歴しか残していないが、晩年は地元で若い人を集めて裁縫を教えていたらしい。1949年(昭和24年)10月14日、75歳で死去した。
柳子には異父の息子が二人(武夫、俊介)いた。

長男の高橋武夫は満州銀行専務取締役や満州興業銀行理事を務めた。戦後、昭和26年10月、岩手県立黒沢尻高等学校(更木分校)講師を務め、晩年、俳句を愛し、俳号を雲梯夕郎という。昭和45年12月28日死去(83歳)。…

[参考]
(注1) 小田島柳子は亮次郎の幼なじみか?
(及川 昭著「榎本武揚と照井亮次郎」(H16.3.31 花巻史談第29号)より)
…照井は大正8年12月初め、小田島柳子を東京から呼び寄せた。柳子は明治6年隣村の更木村に生れた。照井と1才違いである。14才で1キロ北の隣村、東十二丁目に嫁いだ。照井の生家はその1キロ先である。長男武夫等をもうけたが、29才の時、夫と死別し実家に戻っている。その後、事業家の三輪唯五郎と再婚。44才で離婚。東京、京橋区新港町に住んでいた。

照井と柳子とのめぐり合いについて、「メキシコに五稜郭の夢を見た」の伊藤純や画家の利根山光人等は「幼なじみ」としているがそれは当らない。2キロとはいえ、厳然たる隣村であり、小学校も違う。照井生家の東十二丁目村に嫁いだ時は照井はすでに家を離れ兄と共に秋田県横手町に住んでいる。
柳子は再婚以降、東京に住んでいるし、照井はしばしば帰国し、東京をかけ巡っているから、その頃のめぐり合い以外考えられない。

女性が単身で外国に行くなど考えられない時代に一人で海を渡ったのである。柳子は大正11年2月まで照井とタパチュラやメキシコシティで生活を共にしている。

離墨の理由は不明だが、東京帝国大学を卒業し朝鮮銀行に勤めていた長男武夫の懸命の説得や三輪との間の子のことが気がかりだったのかも知れない。照井はその後も懸命に再婚をせまる書簡を送り、柳子も返信したらしく、名文・達筆の手紙が照井の長男ホセ・一郎宅に残されていた由である。

別れに際し照井が鴉鵡のつがいを贈り「私と思ってくれ」といった逸話が残されているが、川路賢一郎は、これは友人からもらったもの、はじめ三羽だったと断定している。その鶉鵡の一羽は更木の千田家に譲られ、今は剥製となって残っている。柳子は晩年更木に帰り、昭和24年波瀾に富んだ75才の生涯をとじた。

後妻・フェリパ
(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
1929年1月18日  亮次郎、マティアス・ロメロに滞在。フェリパと再婚

1930年9月24日付け兄宛の手紙が最後となった。死期を悟った内容となっている。
「…右様の次第故前途も余り無きものとして萬事其の覺悟にて働き居り候。結婚は、来たりし家内には気の毒なるも私に取っては実に幸福にて、店、薬局、炊事など仕事の大部分はやって呉れ居る故大に助かる次第に候。……」

亮次郎死去の計報は、昭和5(1930)年10月22日付けの書簡で、渡辺忠二から敬三に届いた。
「…埋葬を拾六日迄待居る様電報にて知らせおき候へ共如何にしても村役場にて許さざりしため拾五日午后七時に埋葬致たる由に候
ロドリゲス・クララ村に移られて未だ日も浅き事ながら沢山の友人も之有凡てが友人等によって取計られたる由に候へ共御内室唯一人にて一人の日本人の見送りもなく淋しく亡かれた事は一層深く忘れ難き悲みに候…
病気が病気なれば今回の如き不幸の突発を想像せざりしには之無候へしも、昨今の健康状体より見ても是程迄に急に変化あるとは自他共に想像もせざりし事なれば別段遺言とても之無く候に付き生前に時々話されし御希望により未亡人や均君、一郎、高橋さん等と相談して処置致さんより外致方なきと考へ居り候
一郎は三四ヶ月前よりミナチトラン石油会社の電気部に日給五円五拾銭にて就職致居り候へは照井さんも一郎の事に就ては充分安心して居られ候 今回は拾日間の許可を得て来り、之迄の貯金なりとて五拾円程未亡人に渡され候 拾円なりとも御親父さんの生前に送っておきたかったと残念がり居り候 之が一郎が自分の腕にて働き出たる最初の金に候 之を見られたら照井さんの喜びは何れ程なりしか其喜びをも分け得ず今は淋しく墓前に手向ける人々の悲み涙より外に申上げる事も之無候…」

(2014.7.30掲)

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