石崎先生の復員から退職まで

(石崎直治著「古稀の回想」(1982.8.15 非売品)より)

石崎先生   ■ 昭和15.7.15  動員下令野砲第八聯隊に入隊、
             独立輜重兵第十九中隊に編入
         8.1  弘前出発、南支及び中支を転戦す
   □ 昭和16.12.8  太平洋戦争始まる
   □ 昭和20.8.15  天皇、戦争終結の詔書放送
   ■ 昭和21.6.1  召集解除となる

…8月15日、ジャンク船で洞庭湖を航行中、通信の兵隊が、今日終戦の詔勅が出たと教えてくれる。
何か急に気抜けし、ボーツとなって表現し切れない複雑な感情が悩裡を襲う。
口惜しい、情ない、然し俺は生きている。これからどうなる。酒でもあったら、飲んで酔い何も彼も忘れる時間がほしい。
話し合う気力さえなく、皆思い思いの夢に酔っているようである。

終戦から復員まで
部隊は翌16日漢江に到着したが、急転した情勢により、終戦後の貨物廠業務を担当することになり、倉庫の物品整理、員数の確認、補給の実施とあわただしい。
倉庫には山積された慰問袋、砂糖の袋、被服、糧食など、あるところには随分とあるもの。これらが第一線に送られていたら、戦力も、戦意にも影響が多かったろうにと思う。…
整理業務が一通り終り、中国側に引渡しが終ると、段家店という小さい村落の一角に移り、中国将校の監視を受けての抑留生活が始まった。隊の将校は幕舎、下士官以下は暗いジメジメした廟の土間に藁をしいての生活であった。
道路補修作業の要員差出が続く中で、休みに当った兵隊の中には、近くの農家に働きに行くものも居る。働いても、腹一ぱいの食事ができるし、たまには老酒にもありつけるから楽しみであったらしい。…
抑留といっても乗船命令を待つ間の気楽な日々で危険はなく、若い姑娘達も日曜等には南京豆を売りに来たりする和やかさだ。
天気の良い朝は裏の丘の上で点呼があり、終ると「上衣をぬぎ各人シラミ取り始め」の号令がかかる。縫目を開きながらブツリブツリの両手の親指がいそがしく動く。何せ藁の中に寝ているのだから、夜少し暖かくなると、モゾモゾ、モゾモゾで寝つかれないのだから皆一生懸命である。

部隊長からの呼出しで、恐る恐る参上に及ぶと「お前は農業指導の経験があるそうだが、日本は食糧が困窮していて米でも、麦でも、野菜でも作らなければ、食べられないし、生きて行けない。軍の指示があったから、この周辺の各部隊の将兵に、作物栽培の指導をして歩いてもらいたい」と全く予期しない命令である。「ハイ努力してみます」と答えてみたものの、さて指導するとしても手元には何の資料もない。
早速漢江に出張し書店を探し回る。幸い小さな書店で古い日本の農業書が見つかり数冊買求めた。よくこんな専門書があったものと楽しかったし、久方振りの農業の本に愛着を覚えた。これなら大丈夫と大隊単位に巡回旧程表をつくり、巡回講演を始めたが極めて熱心に聞いてくれるので、こちらも熱がかかるというもの、終って部隊長の接待をいただくこともあって恐縮する。

私達の部隊内では英語講座が開かれることになった。それは日本に帰ると多くの米兵が居るので言葉が通じないと困るから少しでも覚えておいた方がよいというので、初級は全く始めて習う初心者向き、中級は旧制中学卒業程度、上級は日本語なしで話し合いできる程度と3コースが設定された。講師は米国の大学出身者であるN軍曹と英国に長く居たというT軍曹が担当した。…

21年4月半ば、遂に乗船命令が出た。半年間のシラミと共存の生活にお別れする日が到来したのだ。
4月21日、泥磯に於てアメリカの輸送船LSTに乗船した。南京で下船し周辺を少し見学して待機し、今度は汽車輸送で上海に行くことになった。
列車といっても無蓋貨車で足の置き場もない窮屈さだ。我慢・我慢と出発を待ち、やがての出発にやれやれと安心した。
夜になり駅らしいところに停車したら、乗務員が降りて行く。多分交替だろうと待つが、誰も来ない。その中住民がワッと押寄せ、兵隊の背嚢や持物を強引に奪い取る。輸送指揮官や将校達は駅に行って交渉に当っているが、何か進物がないと汽車は動かないらしい。将校マントやら何やらで交渉は成立したようで、乗務員が乗って動き出したが、二、三度こんな停車が繰返された。
武器を持たぬ兵隊は弱い。まして敗戦国の兵である。なぐったり、けったりの行為をすれば、中国の軍法会議にかけられるぞとおどされ全く抵抗ができない。日支事変以来、日本軍の犯した罪の報いとあきらめるより外はない。

30日上海に到着、幕舎を張りここで乗船まで待機した。私は命令受領者として毎日乗船司令部に出かけた…
5月22日上海乗船、祖国に向い出帆、25日佐世保に入港したが、伝染病が発生しているため廻航となり、31日博多港に入航、検疫後上陸、米兵の所持品検査やDDTを首からつっこまれたりで追廻された。
次は復員列車で故郷に帰るだけ、博多の駅付近では食物、飲物の屋台店が所せましと立並び賑やかで、兵隊達の姿も入り交っている。電報を打っておこうかと思って聞いてみたら、時間がかかって私の到着よりもおくれるとのことであったから止めにした。
やがて指定された到車に乗る。座席もないし座る場所もない。一本足のカカシのように、みんなにはさまれた形で詰め込まれ、新しいマッチ同様である。小用も窓から出入りして行う外はない。
何もかもがまんしよう、故郷に帰るのだ、生きて帰るのだ。こんな苦労位戦地に骨を埋めた戦友達の事を思うなら何でもないことだ、と一言、一言自分に云い聞かせ立ったまま目をつむり、ウトウトと隣りの兵の肩に顔をよせかけたり、夢のように戦野を画いたり……。
フト窓外に目を走らせると、美しい夕暮れである。広い原っぱの中に大きな枯木が、クッキリと夕映えの空にそびえ、名画にでもなりそうな光景で、それが何本となく続く。ここは何処だろう、誰かが広島だ、原爆の広島だと云っている。…

故郷に近づくにつれ懐しい山容が目に入る。花巻に近い、漸く故郷に帰ることができたのだ。花巻駅に降りて全く様子の変っているのに驚いた。降りたのは私一人だけだった。
リュックを背に、長靴をはいて町を歩く。6年余を経て、一歩一歩町の土をふみしめる。敗残の兵に語り寄る人も無い。朝日橋にかかる、北上川の流れがゆるやかに蛇行している。向うから自転車に乗って来る人がある。妻の父だった。「今帰りました」という私の声にびっくりして、家に知らせるからとすぐに引返す。高木小路の不動尊にお参りをし、昼食をいただいて帰る。親類の人達も途中まで出迎えてくれた。その日は旧の節句だった。

   ■ 昭和21.10.31  矢沢国民学校勤務を命ぜらる
   ■ 昭和22.4.1  矢沢中学校勤務を命ぜらる
   □ 昭和22.9.  カザリン台風により北上川氾濫、大洪水
   □ 昭和23.9.  アイオン台風により北上川氾濫、洪水
   ■ 昭和27.9.1  産業教育に関する内地留学生として
             岩手大学農学部に於て研修(5ヶ月)
再び学校現場に
戦後の教育現場は復員による教職員の過剰で困っていたし、復員者は資格審査も受けなければならなかった。応召前の勤務校である宮野目青年学校でも定員を2名オーバーしていたので、思い悩んだ末就職先を探すことにした。近隣の更木や二子など学校長を訪問して頼みこんでみても、定員の関係からどこでも困っていてどうにもならない。
再教育講習や資格審査が終った頃、当時矢沢国民学校教頭の大内篤先生から、欠員があって採用したいがどうかという話で、早速手続きをしていただき、21年11月から矢沢国民学校に勤務した。

翌年4月、六・三・三制の実施によって新たに矢沢中学校の開校を見、大内先生を教頭に中堅教員が配置換えとなり、学校長に高橋啓介先生が任命され、意欲に溢れた学校経営の展開がなされた。教員の大部分が地域に長く在住した者であり、部落や生徒の実態に通じていたから、頗る好調な歩みが続けられ、非行に走る生徒も全く無いと云ってよく、文化活動の一面では特に活溌な動きがあった。
産業教育の研究指定を受け、水田耕作、家畜の飼育、花壇造成、温室栽培等農業を中心に研究、その成果を発表したが、学習資料の展示、当日の昼食に醗酵パンの製造などのことも思い出される。
こうして12年間、私は地域の中学校に勤務させていただいたが、今は其頃の生徒達はみな、一家の中堅として生業に励み、それぞれの道に活躍している。…

22年と23年、カザリン台風とアイオン台風に見舞われた。22年の9月の台風では、塚根付近から北上川の濁流が溢れ道路を超えて来たので、消防団の出動となり、叺(かます)や俵で土俵を作り応急処置にかかった。この作業中、低地の我が家が浸水していると知らされ急いで帰宅したが、既に床近く水が流れ家族は前の高い所に物を運び出していた。畳や戸障子、襖などを台を作ってあげたり、仏壇や大切な物の搬出をはじめたが、増水が甚だしく、それに水圧のため床板ははがされ、台にしたものも押上げて流されたり、電燈は消えていて作業ははかどらない。3尺、4尺、5尺と水は増してくる。…

技術教育に情熱をそそぐ
六・三・三制の発足以来、教育課程は屡々改定されたが、中でも職業教育、技術教育ではその変革が甚しく、これをめぐっての論争は激しくゆれ動いた。
…教育委員会と教員組合が対立し互いに相手の非を訴えていた。実践現場で生徒と共に技術を学ぶ立場では納得できない問題だらけで、悩みも大きかった。
職業家庭科から技術家庭科に移行、これは既に日本の将来の方向を、農業立国から工業立国に変革する出発点であった。農業の時間は改訂の都度縮少され、工業の分野として、木工、金工、製図、電気、機械が重点的になり、こうした領域で学習した生徒達は、集団就職で都会に集中し、若い労働力を提供し、飛躍的な産業発展と経済成長を招来した原動力となった。

今になって考えると、農村から労働力を吸収した産業の発展が輸出を増大し、また農産物の輸入が強制され、農村生活の圧迫と経営形態の方向を変えさせる結果を招来したと云ったら過言となろうか。
然し一面現在の農村の経済力は充実され、平均化され、文化的施設や生活様式が改善された事実は、工業化の成果であると評価する向きもあろう。
政策の方向を云々する力は持っていない。私達は示された内容を忠実に生徒に定着させねばならなかったから、認定講習も何十回受講したことか、研究会の組織での研修も幾度繰返したことだろう。…

   ■ 昭和34.4.1  宮野目中学校教諭に補せらる
   ■ 昭和35.4.1  花巻中学校教諭に補せられ同校教頭を命ぜらる
   □ 昭和36.10.26  全国中学校一斉学力調査(テスト)実施
石崎先生教頭5
1,500余名の生徒と職員50名の大世帯である花巻中学校に勤務したのは、昭和35年4月からで、市教育委員会が教頭制を設け、各校に任命した時であった。
宮野目中学校の勤務1年というので、PTAの留任運動もあったり、自分自身経験を持たない大規模校勤務に自信の無いことで固辞したが、沢田校長は、よい勉強の機会だ、困難を克服して進むことだと、転勤の決意を促していただき着任にふみきった。
下河原校長の温情と先生方の積極的な協力、教育研究の熱心な実践という得難い環境の中で5年間の歳月を過させていただいた。

教頭は学校経営の「要(かなめ)」と研修の都度聞かされ、どうすれば「要」になるのかと自問自答を繰返した。…
その中で最も苦しかった事は、学力テストの実施問題であった。

昭和36年10月26日全国一斉実施と決定され、これをめぐって、教委、教組、PTAとそれぞれの立場で論議と折捗が重ねられ校内でも、校内全体研究会、分会会議と夜遅くまで、その是非と対策について堂々めぐりの話合いが続いた。
教頭という立場と一方(教組)分会長としてという二足の草鮭をはかされている関係で、両方からの圧力に容易に決断は下せない。実施の前夜まで三晩、十二時頃まで是々非々の論議を繰返し、最終的に分会会議はテスト拒否と決議された。
愈々当日となると、支援団体が押かけ二階図書室に陣取るし、PTA幹部は校長室に居って学校長に実施をせまる。各校からは花中の動向に同調したいが情勢はどうかと電話が来る。職員会議を開いて更に態度決定について協議するといった最悪の事態を迎えてしまった。
教頭は学力テスト補助員に任命されたのだが分会長として受取ることができず、学校長にあずかって置いた。学校長と分会幹事の話合いの間私は校内巡視と不慮の事態発生の防止に当った。学校長は実施の困難を感じたことからであろう。問題用紙の梱包に手をかけずに終った。

私の心に闘争は合わない。人間関係は単に理論的に割切って処理できるものではない。学校生活がほんとうに嫌になった。教育という仕事を離れようと決心して、就職先を数ケ所当ったが、みな不調に終った。理由は、12月地方公務員法29条1項に該当するとして県教委から懲戒処分を受けたことにあった。補助員の任命を受けなかったからである。
教育という中で、文部省と日教組がどうしてこうも意見がちがい、現場教師の苦悩をよそに対決しなければならないものなのか。
同級生の阿部校長の自殺、精神的障害に数年入院のY校長、職場の感情対立、スト戦術と行政処分、裁判……。
教育の理念も信念も抹殺され、互いに苦しめ合って人間教育はどうなるのかと云いたくなる。やがて長い時間を過ぎた後、歴史の一頁として正しい批判がなされる日もあることであろう。…

   ■ 昭和40.4.1  大槌町立赤浜小学校長に任命さる
   ■ 昭和41.4.1  釜石市立大松中学校長に任命さる
   ■ 昭和42.4.1  釜石市立釜石西中学校長に任命さる
   ■昭和44.4.1  花巻市立湯口中学校長に任命さる
海辺の小学校にて
春は海からの強い風が、校舎内に砂をちらし、秋は前庭の柿の木に枝もたわわに黄色い実をつける浜辺の学び舎、大槌町赤浜小学校、ここが校長としての私の初任校である。
戦後教育を中学校だけに過して来た自分には小学校という環境はどうもピッタリしない。
入学式、始業式はどうやら言葉を吟味して格好をつけたものの、毎週の全校朝会でのお話に困ってしまう。…

再び統合中学校に
…続いて湯口中学校長としての転勤の内示があった。
湯口の里は純朴な人柄と、地域の学校に対する熱意と協力を惜しまぬ地であることは、かって花中勤務当時市P連事務局長をしていた頃からの羨望であったから、ここで私の教育職員として最終の勤務をさせていただくことは何と幸福なことと着任の日を待った。
縁は不思議なもの、釜石で大松と大橋の統合で苦労させられたが、湯口に来たら、今度は湯口中と前田中の統合ということである。けれども釜石はリハーサルで今度は本番かという多少自信めいた感じで、心に余裕をもつ。

例によって、湯口中、前田中と隔日出勤をはじめる。教育基盤としての学校教育目標の設定作業から、校章、校歌、制服、校旗の樹立、PTAの一本化、生徒会機構の改善等々型通りの計画表によって順調な進捗振りで抵抗はない。
両校舎の職員親睦、生徒の交流行事も実施され融和の素地が醸成される。
一方校舎建築の構想も、教育委員会が学校側の要望を一つ一つ大切に取扱って下さるので軽はずみな発言は許されない。校舎と校地の配置も十分検討したのだが完成して更に多くの改善点が感じさせられる。
1年有半の両校舎の生活、最終三学期の校舎完成による移転と一体化、2年間はまたたく過ぎ去ったが、最終勤務のためでもあろうか思い出も深い。…

校内体制の確立を期して、校舎建築と競いながら努力を傾注し続けた積りではあったが、統合という二つの学校が一体化する中で、それらの制約で、成果の確認は後日に譲らざるを得ないものが多かったが、ささやかながらも研究の歩みを発表し批判と指導をいただこうと2月26日「学校統合にもとづく経営基盤の確立」を研究主題に経営研究会を開催し大方の参加をいただいた。
午前は「学校教育目標とその具現化について」教務の阿部、葛巻両先生の発表、午後は、「学校経営と教育事務について」私の経営に対する取組みの姿勢と教育事務の手引書編集、そして本年度4月以降の朝会の話材をプリント発表した。

3月末日付、定年退職となる。2年間共に統合校の完成に力を注いだ先生方から、あたたかい心のこもった記念の立派な硯2面を桐箱入りとして頂戴した。今墨を磨る度、墨の香いが滞う時、あの日のしあわせをかみしめて味わい、感謝の合掌をしている。

   ■昭和46.3.31  定年により退職す
   ■昭和46.5.19  矢沢農業協同組合理事に選任さる(~49.5)
勤めを終って
事故なく終った安心感、ホッとする。戦前・戦中・戦後と変動の激しい時代、どうやらこの日までたどり来ることが出来たことは幸福である。59才までの生き方を問われたら何と答えようか。…

好きな百姓の真似でもしてのんびりと楽しみたいと考えていたら、どうせ家に居るだろうから、これからは部落のために働いて貰わねばならないとおだてられ、矢沢農業協同組合理事選挙に立候補させられた。
特に選挙運動をするのでもなく、各地盤割りの家庭訪門をして投票依頼をする。幸い当選し3年間農協理事の勉強をさせていただいたが、経営診断の鍵は何なのか、農協事務の流れ、試算表や財産目録の見方など、容易に自分のものとはならない。
会議は是々非々を明らかにし、勢力争いの片鱗もなく互いに卒直な意見を出し合ったふんいきは楽しく49年5月任期満了で退陣をさせていただいた。…

(2014.12.13掲)

 

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