巌鷲山

組合立花巻中学校の創立 -八木英三の成功と無念-

(八木英三著「花巻市制施行記念 花巻町政史稿」(S30.1.20 花巻郷土史研究会発行)より)

組合立花巻中学校(注1)の創立(注2)
…私が盛岡中学校から花巻高等女学校に転任して来たのは大正14年の9月であったが、花巻町には明治時代からすでに高等女学校があったけれども、男子の中等学校というものが何もなく、郡立の花巻農学校がやっと二三年前に県立に昇格したばかりであった。それ故に町内有志の聞に「花巻中学校」の声が夙(つと)に挙り、大正3年には前町長松川他次郎等の主唱で私立中学校が纒(まと)まりかけたが中絶のままになっていた。
私が明治末年に東京の夜聞中学校に就職していたことがあり、その組織や認可が甚だ簡単であることを知っていたので箱崎圭助や宮沢恒治やに相談したところ積極的に賛意を表してくれ、先代箱崎庄吉が卒先して創立者となってくれ、寄附金の初筆五百円を出資したので話がトントン拍子に進んだ。
大正14年の11月には花巻両町の連合青年会が創立され、…この連合青年会には不思議に営沢賢治も賛成で俗世間に顔を出したことのない彼が進んで幹事の一人に参加し、左の5人が理事となって仕事を統制することになった。
  宮沢恒治  箱崎圭助  八木英三  佐藤光太郎  瀬川貞蔵
…そして夜間中学の方は寄附金も簡単に纏まり、瀬川弥右エ門、宮沢善治、箱崎庄吉の三人を創立者として文部省との交渉もきまり、花巻高等女学校長の高日義海を学長、八木英三を学監、花城小学校長の三田憲を書記長として大正15年の正月には早くも生徒募集と言うことになった。校舎は花城小学校を借用したが生徒の応募するものが100名を越え盛況であった。それが組合立中学校の創立まで継続されるのである。

昭和4年の春にいよいよ花巻両町が合併されることとなったが、合併条件の一項に「現在の花巻小学校舎に中等学校を建設すること。」ということがあるので、合併がきまり新町会議員も出来たので、その夏から花巻連合青年会の理事幹事が活動を始め、中学校の創立運動を起して町当局に迫った。9月の始めに花巻町会が開かれた時、宮沢、箱崎、八木の三理事から町会議員に対して「御願いたし度議有之議事終了後暫時御留席下され度」という陳情書が提出されたが、議員連中が之を無視して大沢温泉の慰労会に出かけて了った ので、三理事と若干の幹事とが自動車で追撃、強談判と出た。すると町会議員の佐藤金太郎は早くも大勢を了解して「宗教と教育とには誰も反対すべきわけがない。諸君の熱意で必す中学校を創立して貰いたい。」と賛成演説を述べ町長梅津善次郎も異議がなかったので青年会側は直ちに創立運動に着手することになった。

組織は当初私立ということであったが、宮沢恒治がどこかで町村組合立という形式のあることをきいて来て「広く各町村の力を借りる方が力が強くなるから」と主張してその方にきめることになり助役の伊藤弥太郎を研究調査のために出張させた。このような事務には伊藤助役は天才的な手腕を持っていたので仕事がどんどんはかどり組合参加を承諾した町村は稗貫和賀を含めて3町18ヶ村に及んだ。…
創立費用は役場に予算がなかったので個人寄附に依立することとし、この仕事は大体において私が引受け約5千円の寄附金が集った。物価の安い頃のこととて経常費は授業料の外に1万円あれば間に合い、花巻町は経常費の半額を支出し他の20ヶ町村で半額を出すこととなり各町村の分担金分について甲論乙駁中々結論が出なかったが、…

学校長の選定  …梅津町長のハラは…佐藤北大総長(注3)に推薦を依頼し様という事であった。…佐藤男爵はその人選方を北大の二三の教授に言付けたが、その教授連は一致して男爵自身の甥であるところの佐藤昌を推薦したのである。当時佐藤昌は秋田県の将軍野中学校の校長であった。
かくて昭和6年の4月佐藤昌校長の下に花巻中学校が開校されることとなった。

昭和6年という年は満洲事変の突発する直前であるが余程不景気な年であったと見えて、花巻中学校が創立されることが明らかになると教員の希望者が非常に多く梅津町長の手元には履歴書の山が築かれるようであった。東京帝大卒業の経歴ある者の中からでさえ拾い切れない。或は中学校々長の経歴を持つ人もある位だった。
このようにして花巻中学校が花々しく開校され、開校後の会計は即日から花巻町役場の当然の責任となり、組合町村との連絡関係も総て我々の手を離れたが、創立運動中の寄附金の始末は私の責任として残された。…その際佐藤金太郎の心配(こころくばり)により私と幹事の金沢秀次とに対し中学校創立の功労者として金壱千円也の功労金を町長から下されたのであった。…
当時私は花巻電鉄支店長の社宅に住んでいたが無織であった。(梅善町長は私を教員として採用してくれなかった。私は政党屋扱にされていたらしい。)
その日の生活にも困っていた所だからこの金で米と木炭とを買うことにしたが、なんと米が10俵と木炭が30俵買えたのである。昭和6年には白米4斗俵が1俵6円、木炭は1俵40銭であった。…

花巻中学校の不振
佐藤昌を校長にいただき、帝大出の若手揃の教員団を集めて開校された花巻中学校は2学級100名の募集に対して応募者の数は相当に超過していた。蓋し当然のことであろう。然るに…第4年の9年には30名とガタ落ちである。…折角期待をかけて開校されたのに案外の結果で町民の失望は甚だしいものであった。
この不結果の原因(注4)は色々あったろうが、一つは組合立中学校という組織に対する地方人の無理解からであったようである。それは「県立」よりは一段と下級なもので学力の程度も劣等であるものと考えたからである。…
けれども第三の原因として特に大きく挙げられなければならないのは校長の教育方針であった。校長は秋田県の将軍野中学校から転任して来たのだが、この学校も年々応募者が減少していたと言われる。佐藤昌という教育者は極端な自由主義者で、むしろ放任教育をやった人であった。生徒の自覚のない所に教育の効果がないとして概ね生徒任せであった。…
この状態が7年続きその間梅津町長も現職を退いたので、佐藤校長も優退することとなり(注5)、昭和12年に岩手師範学校の主事であった樋渡卯左エ門が二代目校長として就任した。樋渡校長は校風改善に努力すると共に学校も県立として劣等感が失われることとなった。我々が組合立として「地方人の合力に依って自治的な特色を持つ地方学校」を創ろうとした理想は一片の空想として終りをつげ結局普通一般の中等学校となった。
けれども黒沢尻中学校などと比べるならば、その創立費用は何分ノ一で間に合ったことであろう。(注6)

[補足]
(注1) 旧制花巻中学校:現・岩手県立花巻北高等学校

(注2) 花巻中学校創立運動前史:当時の岩手県には、盛岡中学校・一関中学校・福岡中学校・遠野中学校・黒沢尻中学校の5校の県立中学校と、私立の岩手中学校があった。…
明治32(1899)年6月の臨時県会は、福岡・遠野中学校設置建議を議決した。…花巻地方においては、稗貫郡会が議長名で「尋常中学校増設に関する意見書」(同年10月21日付)を県知事に提出した。記録に残る最初の花巻への中学校設立運動だと言えるが、この要請は受け入れられなかった。
続いて明治34(1901)年、「花巻に中学校設置の件」の意見書が3月31日付で県会議長から県知事に提出された。この意見書は県会全員一致の議決によるものであったが、直前の1月県会で福岡・遠野中学校の4月開校を決めたばかりであり、県下の中学進学率と中学校の配置状況から勘案して、時期尚早とされた。加えて凶作や風水害による財政難と日露戦争直前の緊迫した社会情勢などが重なって、意見書は目的を果たさずに終わった。
大正に入ると中学校への入学志願者が徐々に増え、特に後半はその傾向が著しくなって、花巻に限らず県南の東北本線沿線筋や沿岸方面でも中学校設立を望む声が高まった。だが、県当局は中学校の増設をせず、既存の…4校の募集定員を増やすことで対応した。時代の要請により、商業・工業・農業などの実業学校や実科女学校が相次いで設立された時期でもあった。…
そうしたなか、急速に台頭してきたのが黒沢尻町の中学校新設運動であり、必要な敷地を県に寄付するという破格の条件が決め手となって、大正13(1924)年4月、黒沢尻中学校が開校した。早くから運動を行なってきた花巻が、黒沢尻の積極的運動の前に屈したと言っても過言ではなかった。…(創立八十周年記念誌編集員会編「桜雲台八十年」(H24.3.1 花巻北高等学校発行)より)

(注3) 佐藤昌介:安政3年(1856)~昭和14年(1939)、岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)出身、男爵、札幌農学校校長(明治24年(1891)~)、北海道帝国大学初代総長(大正7年(1918)~昭和5年(1930))、日本初の農学博士の一人
(注4) 生徒募集難の原因:当時は昭和恐慌、大凶作、三陸大津波と災難が続き、生活の苦しい時代であった。県立中学校でも生徒の募集に難儀し、遠野中学校では定員100名に対して昭和6年度の応募者は32名だったという。
(注5) 佐藤校長の勇退:「桜雲台八十年」に「佐藤校長更迭問題は、昭和8年8月の職員退職問題に端を発し、昭和10年7月には組合内部から排斥の狼煙があがるなど表面化していた」とあり、八木はこれに一枚噛んでいたのかもしれない。

(注6) 旧制花巻中学校~花巻北高等学校の正史とも言うべき「桜雲台八十年」歴史編に「八木英三」の名はない。

(2015.5.15掲/5.23改)