八木英三

教育者/新聞人/政治師・八木英三の戦後

□□□ 昭和20年(1945) 8月15日、天皇、戦争終結の詔書放送
□□□ 昭和21年(1946) 3月、松田浩一、花巻で戦後最初の新聞「岩手大衆新聞」を創刊
□□□ 昭和21年 4月10日、終戦後はじめての総選挙、八木が擁立した高田弥市(注1)は落選

…「戦争を好むちから」の流れが堰止められるや、八木英三は新しいときの流れに乗った。
敗戦後はじめての、昭和21年4月10日施行の総選挙に、高田弥市を立候補させようと動いた。それまでの古い政治とは無縁の人物として、高田弥市に白羽の矢を立てたのである。そんな八木に、金子定一(注2)が、立候補しようとして応援を求めてきた。八木はそれを拒否し、金子と決別する。…八木は古い流れの誰にも遠慮することなく、新しいときの流れのなかで弥市の当選を期して動く。
選挙結果は、八木の痛恨の思いが言わせるところによると、『新岩手日報』(S21.4.10付)の〔『水を呑む』に爆笑〕などの記事が災いして惜しくも落選する。…(「岩手県の郷土紙物語」(注3)より)

□□■ 昭和22年(1947 60才) 1月、「週刊読む岩手」を創刊
□□■ 昭和23年(1948 61才) 4月23日、「週刊読む岩手」を暫時休刊とする
□□■ 昭和23年 5月7日、公職追放確定(注4) (注5)

八木英三が、…『週刊読む岩手』を創刊した。『岩手大衆新聞』につづいて、敗戦後二番目だった。… 花巻町本城58に「読む岩手社」が置かれた。
創刊号に掲載される〔発刊の辞〕を紹介する(冒頭から4分の3ほどまでは要約し、残りはそのまま引用した)。『週刊読む岩手』創刊の意図とともに、八木の考え方が理解できる。

(要約部) 昭和22年の新春を迎えるが、7年前の皇紀二千六百年の栄華は夢のように消え、世界の四等国となりさがった。近代日本は、幸運の連続であったので、世界に覇を称すべき機運が到来したとばかり、途方もない野望を実現しようとした。指導者東条英機を恨むべきではなく、国民の自負心と軽率を反省すべきである。
敗戦後の1年間、国民が茫然自失としているうちに、あらゆる災禍が生みだされた。恐るべき現象である。闇商売の横行、生産の減少と物価の高騰などである。まだある。労働組合運動の名の下に行われるゼネストである。これは人為的減産運動であって、復興の第一歩が増産であるから、国賊的行為である。これに対して、政府の腰は砕け言論界は低調で、傍観者のごとしである。以上の論述に『週刊読む岩手』の発刊の理由がある。
(つづく全文) この考えは一面保守的に見えるかもしれない。我々は労働者に対して資本家のあることを認め、経済機構の上にそれが必然であることを信ずるものである。労資間の問題や貧富懸隔の問題は社会政策の方法論議に於いて解決すべきものであって共産主義や社会主義の純理に対しては賛意を表することが出来ないことを明言する。
百万長者も、千万長者もあってよろしい。ただそれが大きな財閥に増長することだけは制止せねばならぬ。世に敗残者の出来ることも亦止むを得ないであろう。それは救済の方法に依って慰安する外はない。一年中が春であり得ないばかりでなく空気と水とでさえも平等に配分されて居ないのが社会の現状である。そればかりでなく変化と懸隔とは人生に於ける刺激であり妙味であって進歩も改革も発明も皆そこに萌(もや)す事を注意すべきである。
四等国民たることを悲しむ勿れ、貧乏にいじけてはいけない。ただ前途に光明を求めつつ一路邁進しようではないか。…(「岩手県の郷土紙物語」より)

□□□ 昭和23年 9月、アイオン台風により北上川氾濫、洪水
□□□ 昭和23年 11月7日 「週刊読む岩手」等地元3紙が合同し、「花巻新報」が生まれる
□□□ 昭和25年(1950) 釜石線全線開通
□□■ 昭和25年(1950 63才) 「釜石鉄道沿線繁盛記」発行(注6)
□□■ 昭和26年(1951 64才) 4月10日、「稗貫風土記・人物編」発行(注7)
□□■ 昭和26年 8月6日、公職追放解除

稗貫風土記表紙(「稗貫風土記・人物編」) 緒言
(一)本刊行目的
稗貫風土記刊行会が本書の刊行を企画して郡下の各町村に刊行補助申請書を提出したがその冒頭に吹の様な一節がある。
「民主政治の一つの大切な要件は自治体の完成であります。それを成す為には先ずお互の郷土の各般の事情に精通しなければなりません。近時各所に「風土記」「郷土誌」などの声を聞く所以であります。
北上川と早池峯山とに育まれた私共の郷土には人的にも物的にも無数の秘宝が埋藏されてあります。然るに従来これ等の「物」は埋藏のままで千年を経過し、「人」は万代枯葉の如くに飛散して行きました。
この埋藏されてあるものの開拓と、この飛散したる、または飛散せんとするものの蒐集とが本会の企画する目的であり、これを纏めて『稗貫風土記』として編述刊行の予定であります」
実際私共は我が郷土について殆んど何の研究もしておらず注意も払わない。花巻町に居て花巻にどれだけの水田があり、どれだけの米が取れるかを知っている者が專門家の外に何人居るだろうか。花巻町に居て花巻に何軒の商家があり、主なる種類はどんなものであるかを知っているものが専門家の外に何人居るだろうか。…学校では日本の地理、世界の地理は教えてくれるけれ共郷土のそれについては一言半句も言及してくれない。我々は先ず我が足元をよく知らなければならない。これは天下国家を論議する様な痛快な仕事ではないけれ共、米は何万石でもその始めはだだの一粒である様なもので、米は一粒から重要である様にこの種の仕事も亦重要なりと言わなければならない。…

(二)誰がそれをするか
この企画は決して新しいものではない。どこの村でもどこの町でも或は「村誌」或は「郷土誌」などと称して編述に従事され、或は已(すで)に出版されているものもある。けれ共大抵は小学校の先生達が余暇の仕事としてやったもので、一定の貫徹したる精神がない。これ等は参考の資料とはなり得るだろうが風土記そのものとは言へないものが大部分の様に思われる。これが完成には一定の見識と広い常識とを具備した人物が中心となる事を要する。古くは花巻小学校長の伊藤五郎がこれを企画した。近くは湯本村の杉村松之助がその任に当ったが両人共に資料の蒐集だけで終った。…
この故に不肖ながら郡下唯一人の適任者として敢て自ら名乗りを上げたわけだ。
私は多少の歴史を学び多少の地理を学んだ。博学達識の自惚は持たないが、先ずは有資格者の末席を汚すだけの力量のあることを自負する。私は大正の末年頃から昭和23年の春公職の追放を受けるまで断続ながら地方新聞を経営していた。雑文は書き得る。比較的地方の事情に通じているし知己の数もまた多い。私は好んで農村を漫歩する。これは私の一つの趣味であり、健脚は3日と室内に籠居することを許さない。人は御苦労様と言うけれ共、私には一つの楽しみである。この健脚と漫歩癖とがこの企画に対して尤も好箇な資格であり、これ丈けは他の企及を許さないと信じている。私は今年65歳になった。目下甚だ頑健だけれ共百年の長寿は望むべからすとすれば先ずこれ位のところで決心して、今までの経験を活用して後世に残しておくべきだと覚悟した次第である。

(三)伝書鳩
…それでも故郷に対する愛着の念には変りがない。妻は東京の生活にあこがれている。子供等が成長したならば一緒に東京で暮そうと主張するが私は頑として受入れない。平野健藏は私のこの性格を喝破して伝書鳩と言つたのだ。干里を遠しとせず一目散にわが巣を求めて飛んで帰るその牲格を。
この郷土に執着する性格、而も屡々干里を離れて広い世間を見た経験、それが併せて風土記編述に適格性を附与するものと思う。
私は九州に居て太宰府を知らず長崎を見ない。奈良に住んで京都を知らない。朝鮮滞在一ヶ年、京城を知らず金剛山を訪れない。それどころかまだ松島も中尊寺も見たことがないのだ。これ等の名勝を探ることよりも郷土の知己と語り、荒涼たる郷土の風物と対面することの方が私には遥かに愉快である。

(四)風土記とは
…一種の地理書でもあり伝説物語りでもある。要するに郷土のゆかしい姿の描写である。この「ゆかしさ」「なつかしさ」「いじらしさ」等が風土記の特色をなすものであつて、科学のメスの入れられてない地理書と言うことが出来るかも知れない。
然し私共は必ずしも風土記の名称に囚われる必要がない。郷土の真の姿を描写して自らもこれを愛玩し、他地方の人達にも之を観賞して貰うことを目的とする。従って風土記には固定した型などを規律することは要らない。むしろ一種の芸術を創作する気持ちの方が大切である。
私は先ず郷土の人物から点検を始めたが、次には産業の各種目に渉り、政治、教育、宗教などから更生、交通、観光の方面にものび、口碑伝説なども集めて見たい。老骨一人の仕事として有終の業を成し得るやは疑問であるが、その芸術的性格から数人の手にかけるべきものでもない。資料の蒐集は手の多い程便利だが、文筆は一人で運ぶことにしたい。

(五)人物編について
我が郷土は古来幾多の偉人傑士を産み、地方の恩人として記念すべき人物も少くない。けれ共風土記は歴史ではないから歴史的人物は茲では扱わないことにして、今日我々の耳目に直接連絡のある、例えば先の北大総長佐藤昌助や、湯口の篤農家松岡機造位の所から始めて第一篇「先人と先輩」を作った。第二篇は現在の社会の各方面に活躍しつつある人士の列挙である。第三篇は「おらが誇と望」と題した。
誇りとは他郷に出て夫々大役を背負っている人達である。望とは将来に希望のかけられる青少年である。最後に第四編を紳士録として町村の名望家、公職を帯びる人等の一覧表を作製した。それ等の人の選択には一定の標準がなかったし、また有り得べきでもない。従って或は大物を取り落しているかも知れないし、大物と知りつつ資料の不備から描写しかねた向もある。…(「稗貫風土記」より)

□□■ 昭和28年(1953 66才) 「復興への道」(注8)発行
□□■ 昭和28年 「賢治の幼友だち」寄稿(「四次元」第5巻第10号)
□□■ 昭和30年(1955 68才) 「花巻町政史稿」(注9)発行
□□■ 昭和32年(1957 70才) 8月23日、死去

昭和32年8月23日、ときには、あのちからに逆らったとみなされ、またときには迎合したとして、新聞人であることを否定されつづけた一人の人間がこの世から去った。70才だった。『岩手タイムス』と『花釜日の出新聞』と『日刊いわて』と『週刊読む岩手』の [社史」を綴り、また、花巻史談会の郷土史家として郷土花巻の「歴史」も綴って去った。昭和33年版『岩手年鑑』の〔追悼録〕の昭和32年1月から11月までの分に、「八木英三 元盛岡中学校教諭」(花巻) 8・23」とだけある。

それから幾日かをへて、八木の妻がある郷土紙に投稿したという。その内容は次のようなものであった。
「選挙のときあれほどに夫が力を尽くしたにもかかわらず、高田先生は夫の葬儀に顔をだしてくれませんでした。くちおしい思いがします。だだ、「水を呑む」事件の真相ですが、確かに夫が原稿を作りましたが、高田先生は「水を呑む」とは読みませんでした。(「岩手県の郷土紙物語」より)

[補足]
(注1) 高田弥市:M38.10.~S45.1.15、岩手県出身。高弥建設(株)社長、日本建設工業会評議員、岩手県建設業協会長、黒沢尻商工会議所会頭などを歴任。昭和22年衆院議員に初当選。以来通算3回当選。その間第5次吉田内閣の首都建設政務次官を務め、日本自由党政調会電気副委員長、民主自由党水害対策部長などを務める。
(注2) 金子定一前稿参照
(注3) 「岩手県の郷土紙物語 -敗戦後発行の県中南部の郷土紙- :昆 憲治著・発行、1994.3.16発行、非売品
(注4) 公職追放:占領政策の一環として,1945年(昭和20)11月の教職追放に引き続き,46年1月連合国最高司令官の覚え書きに基づいて行われた、軍国主義者・国家主義者の公職からの追放。戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になり、1948年5月までに20万人以上が追放された。52年講和条約発効により廃止。

(注5) 父の記憶:私の父は昭和22年7月にシベリアから復員・復職し、翌23年4月には花巻中学校に転勤しました。その父に10年前に聞いたところでは…
・会ったことはないが、八木さんは新聞記者だった。
・昭和23年か24年頃と思うが、八木さんの養女が花中の一年生で、自分が担任だった。大沢温泉(注5-1)から電車で通学していた。目立つ子だったが、学年途中で転校した。(家に近い湯口中にでも転校か?)
・奥さんには会ったことがある。身なりなど都会風の人だった。
・八木さんの息子と弟(私の叔父)は花巻中学(旧制)で同期だったと思う。
・八木さんは当時「壁新聞」を出していて、それを読むのを楽しみにしていた。内容が興味深く文章も上手で、次号の張り出されるのが待ち遠しかった。

もともとは普通の新聞を発行していたが、公職追放になって新聞発行ができなくなり、やむなく壁新聞をやり出したのではないでしょうか。
八木さん個人のことではありませんが、当時の地方の小新聞の記者に対する父の印象は、あまり良いものではなかったようです。熱心な広告取りのせいもあってか、胡散臭いタカリヤといった感じ。ひょっとすると地元では八木英三もそのような目で見られていた面があるかもしれません。
(注5-1) 大沢温泉:夢拓氏は現地まで足を運び、八木英三が大沢温泉で蕎麦屋を営んでいたことを確かめ、転居の時期を公職追放の後と推測しています。詳しくは[夢拓:前世探訪]をご覧下さい。

(注6) 「釜石鉄道沿線繁昌記:釜石線全通記念出版:伊藤専一編、1950.10.
(注7) 「稗貫風土記 (第1巻) 人物編」:八木英三編・発行、1951.4.発行、B6版 261ページ、定価250円。
「先ず郷土の人物から点検を始めたが、次には産業の各種目に渉り、政治、教育、宗教などから更生、交通、観光の方面にものび、口碑伝説なども集めて見たい」との構想であったが、実際に出版されたのはこの第1巻のみだったようです。
(注8) 「復興への道」:八木英三著、S28.7.10 稗貫風土記刊行会発行
(注9) 「花巻市制施行記念 花巻町政史稿」:八木英三著、1955.1. 花巻郷土史研究会発行

(2015.5.3掲)