あづま海道・再考

(阿部和夫著「『あずまかいどう・あづま海道・東海道』を探る」(H22.6.26/6.28/6.30/7.3/7.17 胆江日日新聞)(注1)より)

(1) 古代の官道
古代における官道、すなわち律令時代の官道、今で言う国道としては、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道が挙げられる。
官道の特徴の一つは、30里(約16キロ)ごとに駅家(うまや)が置かれたことである。駅家には駅長や駅子(えきし)が配置され、人と物の輸送にあたっていた。
みちのくの「東山道」は、白河から東北の内陸を北上し、多賀城に達している。このあと北上川の西岸を北に向かい、現在の岩手県内に入っている。岩手県内の駅家は、南から北に磐井・白鳥・胆沢・盤基(ばんき)と並んでいる。
駅家の正確な位置とコースは今のところ、よくわかっていない。ただ一つ、はっきりしているのは、北上市江釣子の「盤基」である。この駅家は板橋源先生によって新平(にっぺい)遺跡として発掘され、土塁・堀・建物跡・鍛冶場が認められた。鍛冶場は荷の輸送にあたる馬の蹄鉄場だったという。
磐井・白鳥・胆沢の場所については、ここではないかという説が、それぞれ二つ、三つある。問題は、その位置を確定することなく、コースの線引きをしていることである。点と点(駅家と駅家)が不確定なままの線引きは、うっかりするといい加減なものになる。

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さて、東海道というとき、私たちが思い出すのは、江戸と京を結ぶ道である。東北にはこれと異なるもう一つの東海道があった。「みちのくの東海道」である。この道は、いったいどこを通り、どこに向かっていたのだろうか。
図1を見ていただきたい。「みちのくの東海道」は、内陸の東山道と並行するように、磐城(いわき)海岸を北上して玉前に向かっている。この道には、平安時代初期までの一世紀間、10の駅家が置かれていた。
まぎらわしいものがもう一つある。それは高橋富雄先生が取りあげている「みちのくの北の東海道」というべきものである。コースは、北上高地南の「牡鹿‐桃生‐本吉」から、沿岸の「磐井の計仙麻(けせま)」を経て、気仙郡に向かっている。
この道は駅家こそないが、その役割から見て事実上の官道であったという。

(2) あずまかいどう
北上川の東岸、北上高地の西端に古道と伝えられる道がある。この道筋は少し前まで草木に覆われ、道の体をなしていなかった。しかしその中に立ち入ると、各所に杉や松の並木が残され、確かにそれと思わせるものがあった。
道は北上川の洪水に災いされることなく、また行き来する人や馬の飲料水となる湧き水の得やすいところであった。
原始時代の道は、人が草や藪を踏み倒してつくった踏み分け道が普通であった。道は名を付けられることもなく、そのままで人々のために役立った。
北上高地の西端を南北に走る道も、始めは踏み分け道として開かれたと思われる。それが「あずまかいどう」と呼ばれるようになったのは、この地方が中央政府の支配下に入ってからである。その名が歴史の記録の上に顔を出すのは、安永2年(1773)の『安永風土記』が最初である。
『風土記』のなかの「あずまかいどう」は、二子町村、片岡村、倉沢村、上門岡村(いずれも現・奥州市江刺区内)の項に「海道・あづま海道・東海道」の名で出ている。
この道が、村と村、集落と集落をつなぐ南北の一本の道であったことは、この道に交わる何本もの東西の道に、海道の名が見られないことでも明らかである。ただ一つの例外が、寛政3年(1801)の「五輪峠海道」である。

「あずまかいどう」のもう一つの記録に、文政年間(1818~30)のものがある。
「江刺郡の内、餅田村、土谷村、石山村、右三ヶ村に往古東海道と申往還有之、只今は人馬共に通用無之、荒地に相成」
この記録は「あずまかいどう」が、江戸後期には、地元民から利用されることなく、荒地になっていることを示している。
時代は新しくなるが、大正14年の『江刺郡志』には「郡内に東街道と称する古道あり」とある。
この道は奥州平泉時代の大道で、「束稲山麓→黒石村→高清水村→羽田村黒田助→田原村石山→豊田館→岩谷堂→稲瀬村柏原」のコースをたどったあと、稲瀬の渡しによって北上川を渡り(注2)、南から延びてくる官道(東山道)と一緒になっている。
「あずまかいどう」で問題とすべきは、それの南方のコースである。佐島直三郎先生らによる『あづま海道―清衡道とその風土』では、月館・箱石付近で北上川を渡り、衣川区十日市場に至るとしている。
近年における「あずまかいどう」の研究に注目すると、北上川を渡って衣川方面に向かうという説明が、果たして妥当なものか再検討の必要がありそうである。
この検討は「あずまかいどう」の成立した時代が、いつ頃なのかを探ることにもなる。

(3) 「あづま」と「街道」の問題
「あずまかいどう」を広く世に紹介した司東真雄先生(注3)は、この道を「あづま海道」と記している。
司東先生の「あづま」は、『安永風土記』の「あづま」に習ったものである。これは「東」の古訓で、それ自体、誤りというものではない。
しかし「あづま」を今風に書くときは、「あずま」ということになる。文字に親しみ始めた小学生諸君のことを考えると、この表記こそ望ましいことになる。
一方、海道という表記はどうだろうか。もともとこれは、「海沿いの道」「海沿いの地方に通ずる道」という意味で用いられてきた。古い記録を見ると、海に直接つながらない甲州海道、日光海道という表記があるように、その使い方はきわめておおらかなものであった。
では街道という表記はどうだろうか。これの本来の使い方は、都市と都市、町と町、さらには宿場と宿場を結ぶものであった。(注4) わが「あずまかいどう」は、成立の経過から都市や宿場を結ぶものではなく、街道ではなかった。古代から近世に至るまで「海道」の文字が当てられてきたのも意味のあることである。

『江刺郡志』は、明治2年(1869)の岩谷堂を起点とする七つの「海道」を取りあげている。
①気仙への海道、②上口内への海道、③下門岡への海道、④人首町野手崎への海道、⑤水沢町への海道、⑥黒石町への海道、⑦「阿津満海道と申伝候古道」(「阿津満」は「東」をさす)
胆江地方の歴史書、古文書に目を通すと、明治2年まで「街道」と書かれることはなかった。
「街道」という表記が登場するのは、明治30年代から大正初期に、道路の改修が行なわれてから後のことである。
大正8年、県は江刺郡内の里道を選んで郡道に指定している。猿沢街道、興田街道、口内街道、立花街道、黒澤尻街道などがそれである。
「街道」の表記がいいのか、それとも「海道」の表記がいいのか――私たちはその判断をしなければならない。
問題の決着は歴史を重視して行うべきであろう。そうなると、近代になってやっと登場した「街道」よりも、歴史のはるかに古い「海道」の方が適切ということになる。…
海道は、奈良~平安時代前期に成立したお寺や神社を結ぶ道として、また道寺(どうじ)や川寺(かんでら)(注5)を結ぶ道としてさかんに利用されてきた。
海道は、歴史を重視した、他に変えることのできない表記である。

(4) 「あずまかいどう」の成り立ち
わが岩手県の古道は、内陸の東山道と北上高地西端の東海道の二つからなっている。
azuma_rd_fig3すでに見てきたように、北上高地の西端を南北に走る東海道は、里人から「あずまかいどう」と呼ばれてきた。
図3は「あずまかいどう」の概略を示したものである。この「あずまかいどう」の成立は、いったいいつごろなのだろうか。
注意したいのは、古代、すなわち奈良から平安前期の道筋に、成島毘沙門堂・極楽寺・石手堰神社・黒石寺があることである。これらはいずれも、当地方の信仰の拠点となるものである。
寺や神社を信仰する人々の範囲は思いのほか広く、「あずまかいどう」は、寺と神社と里人を結ぶ道として盛んに利用されてきた。
もう一度、図を見ていただきたい。「あずまかいどう」の道すじに、道寺(どうじ)や川寺(かんでら)と称される寺が認められる。道寺・川寺は、極楽寺で修行した僧が交通の難所につくった無料宿泊所である。
道寺に泊まった旅人は、ここで旅の疲れを癒し、旅装を整えて朝立ちして行った。その一つ、北上市更木の道寺洞は、遠野や成島毘沙門堂に向かうところにあり、「はたご山」の名が残されている。
川寺は、川の氾濫のために足止めされた旅人が、渡し舟の航行を待って宿泊したところである。稲瀬の「金附」は、舟出の合図を行なった川寺の付属施設による地名である。
北上川右岸に点在する川寺は、左岸の「あずまかいどう」と、まったく無関係のように見える。しかしここにある無料宿泊所は、北上川を渡って左岸に向かう里人のためのものである。
黒沢尻・跡呂井・姉体の川寺は、左岸の「あずまかいどう」に向かう人々にとって大切な施設であった。
古代の「あずまかいどう」は、里人の信仰と、人々の交流に支えられて成立したものである。

(5)「あづま海道」の問題
佐島直三郎先生らの『あづま海道――清衡道とその風土』は、「あずまかいどう」が、北上高地西端のどこを通っていたかを探る貴重な研究書である。
しかし東北における古道の研究は、佐島先生らが「あづまかいどう」を取り上げたときに比べて、かなり進展している。このため同書によって解決済みだった問題も、再度検討しなければならない事態を迎えている。
その一つは、副題になっている「清衡道とその風土」でわかるように、「海道」の成立、あるいは利用の時期を奥州平泉の藤原清衡時代としていることである。
二つは、「あずまかいどう」の南端を、平泉町月館付近で北上川を渡り、衣川の十日市場付近に向かっているとしていることである。

佐島先生らが『あづま海道』を、あえて「清衡道」としたのは、奥州平泉の初代藤原清衡が、嘉保年間(1094~96)に、江刺郡豊田館(城)から平泉に移り、二つの政治の拠点を結ぶ道としてさかんに利用したことによるものである。
「あずまかいどう」が、奈良~平安前期に成立したと見る立場からすると、この時期は藤原氏の台頭や奥州平泉が成立する前にあたり、人々が北上川を渡って衣川十日市場に向かう必要はなかったのである。
北上高地の西端を南に向かう「あずまかいどう」は、江刺郡から(磐井郡の)母体村・赤生津村に入っている。この先で北上川を渡らないとすれば、道はどこに向かっていたのだろうか。

問題を解くカギは、母体村・赤生津村が属した磐井郡東山(とうざん)にありそうである。この地は、北上川沿いの内陸と三陸の沿岸を結ぶ農産物と水産物の取り引きの拠点として発達してきたところである。そのため、古くから人と馬がさかんに往き来してきた。人馬の往来は、内陸と沿岸を結ぶ古道の成立と発達をうながしたのである。
それでは磐井郡東山の古道の成立は、いつごろだったのだろうか。私は「あずまかいどう」と同じ奈良~平安前期と見ている。
そう考える根拠の一つは、磐井郡東山の古道ぞいに「あずまかいどう」と同じ、道寺・川寺が数多く認められることである。一関市川崎町薄衣の法道寺・童子、同市大東町の大洞寺・小洞寺・道寺・童子などその例である。その先には、気仙沼市八日町の極楽寺延命地蔵尊がある。
この道と道寺・川寺については、現在、一関市東山町の畠山喜一先生と研究を進めているところである。

最後にふれておきたいことは、磐井都東山の古道は、北上高地の西端を南北に走る「あずまかいどう」の延長上の道であり、牡鹿→桃生→本吉から計仙麻・気仙郡に至る「東海道」の延長上の道であるということである。
「あずまかいどう→磐井郡の東山の古道→東海道」と連なるこの道は、磐城海岸筋の「みちのくの東海道」と異なる、もう一つの「みちのくの北の東海道」の延長上の道である。

古道を探ることは、この地に生を受け、命をまっとうしていった、有名・無名の人々の密(ひそ)かな足跡を訪ねることになる。近年、この道すじの人々が、関係古道の研究・探査を行っていることは大変うれしいことである。(注6)

[補足]
(注1) 本記事は、私が読んだ「あづま海道」に関する資料で最新のものです。
(注2) 北上川を渡り:ということは、稲瀬村以北の東街道は北上川の東側を通っていなかった(?)。
なお、細井計・他著「岩手県の歴史」(2002.9.20 山川出版社)の「アテルイの世界」の節には「胆沢は海道と山道が合流する北奥のエミシの地として認識されていた」とあります。
(注3) 司東真雄(しとうしんゆう):明治39年(1906)10月15日生れ、 昭和期の真言宗僧侶。安楽寺、国見山極楽寺住職、奥州大学教授
(注4) 街道:「街道」という表記が頻繁に使われるようになったのは幕末近くなってからのことのようであり、それ以前は「海道」と表記するのが一般的であった…ようです。
(注5) 道寺・川寺(4)で詳述

(注6) 幻想か 3郡内の「あづま海道」:「あづま海道」という名称が江刺郡やその南方各所に見られることは、文献や口碑の存在から明らかなようですが、江刺郡の北方、和賀・稗貫・紫波3郡についてはどうでしょうか。古道が北上山地の西麓を極楽寺から蓮華寺まで通じていたことは確かとして、3郡内でこの道を「あづま海道」と認識していたことを示す文献・口碑の類はないようです。ないことの証明は不可能でしょうが、このような道を「あずま海道」と呼んで良いものやら、…。

(注7) 白水阿弥陀堂:福島県いわき市内郷白水町所在。豪族岩城則通の妻徳姫が亡夫の冥福を祈るため、永暦元年(1160)に建立したと伝える。徳姫は藤原清衡の娘。
東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3ヶ所のみである。
当堂の構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることも手伝って、毛越寺や無量光院といった平泉の寺院の構造に影響を受けている。実際に「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けたもので、岩城氏の本拠地であった平という地名の由来も平泉の「平」を取ったものだという説がある。

(2015.9.22 掲)