稗貫氏家紋

古代・中世の稗貫郡と稗貫氏

(「角川日本地名大辞典 (3) 岩手県」(1985.2.)より)

〔古代〕奥羽山脈の東麓に発して、花巻市西辺において北上川に注ぐ川に豊沢川というのがある。これを「遠胆沢川」の意味に解し、この方面を古代「遠胆沢」というふうに呼んだ名残りと考える説は、江戸期からあった。おそらくこの説は正しいので、古代は、和賀・稗貫方面は、「奥胆沢」の意味で、遠胆沢のように呼ばれていたのではなかったかと推定される。

  (( 延暦13年(794)  平安京遷都
  (( 延暦16年(797)  坂上田村麻呂、征夷大将軍
  (( 延暦20年(801)  田村麻呂、胆沢遠征、閉伊地方まで進攻、凱旋
  (( 延暦21年(802)  胆沢城の造営開始、アテルイ等降伏、処刑される
  (( 延暦22年(803)  志波城の造営開始
  (( 弘仁 2年(811)  和我・稗縫・斯波3郡を置く
  (( 弘仁 3年(812)  志波城を止めて、徳丹城の造営開始

稗貫郡の初見は、「日本後紀」弘仁2年(811)正月11日条で、この時、「和我・稗縫・斯波三郡を置」いたとある。(注1)
「稗縫」とあるところをみると、「ヌキ」は「ヌイ」とも発音されていたのかもしれない。「貫」は「抜」となることもあり、「稗」は「部」ともあったりするからヒエ→へ(hie→he)とも発音されていたのである。
安倍時代・平泉時代にこの郡がどういう役目を果たしていたかは、不明である。(注2)

  (( 正徳 2年(1098)  成島毘沙門堂の十一面観音像完成
  (( 天治元年(1124)  中尊寺金色堂落成
  (( 安元元年(1175)  源義経、平泉に来る
  (( 文治 5年(1189)  源頼朝、奥州征伐出発
  (( 建久 3年(1192)  源頼朝、征夷大将軍(鎌倉幕府)

〔中世〕文治5年(1189)奥州合戦の結果、当郡は鎌倉勢の占領下に置かれた。不作のうえに多勢の逗留が重なって飢えた人々を救うために、源頼朝は種子・農料を出羽国方面から調達、「和賀・部貫両郡」分は秋田郡から運ばせることにした(「吾妻鏡」文治5年11月8日条)。
同じく、「吾妻鏡」文治5年9月23日条には、奥州藤原氏によって伝領された「奥六郡」の内容として、「伊沢・和賀・江刺・稗抜・志和・岩手」の郡名が記されている。「吾妻鏡」に記された、この「部貫」「稗抜」の名称が中世における当郡の初見である。

鎌倉期、当郡の地頭名を明記した史料はない。…

鎌倉中期の建長8年(1256)、幕府より奥大道の夜討・強盗の警固を命じられた道筋の地頭24人のうち、(葛西)壱岐六郎左衛門尉・同七郎左衛門尉・和賀三郎兵衛尉・同五郎兵衛尉と並んで記された出羽四郎左衛門尉とは、中条光宗の異称にほかならない(吾妻鏡康元元年(1256)6月2日条所載の関東御教書…。この中条光宗を稗貫郡の地頭とする明証はないが、その蓋然性は非常に強い。(注3)

  ((元徳 3年(1331)  幕府、光厳天皇をたてる(南方朝時代の始まり)
  (( 建武元年(1334)  南部師行が糠部郡奉行として活躍
  (( 暦応元年(1338)  足利尊氏、征夷大将軍(室町幕府)
  (( 明徳 3年(1392)  南北朝の合一
  (( 応永25年(1418)  南部氏、上洛し、足利義満に馬100疋・金1000両を献上

…「南部文書」建武元年(1334)4月晦日多田貞綱書状に「戸貫出羽前司」、「結城文書」興国2年(1341)後4月20日五辻清顕書状に「稗貫出羽権守」と見える人物は、陸奥国司北畠顕家が北奥支配のために置いた現地奉行の1人、中条出羽前司時長その人であった(遠野南部文書建武元年6月12日北畠顕家御教書、新渡戸文書年欠2月20日安倍祐季書状追伸)。
時長はまた北条氏の遺領、糠部(ぬかのぶ)郡一戸を賜ったことも知られる(遠野南部文書建武元年10月6日陸奥国宣)。稗貫出羽権守=中条時長の北奥における卓越した地位は、稗貫郡の地頭であったことによるとみられる。

鎌倉期の奥大道は葛西氏の磐井・胆沢・江刺方面から、和賀郡を経て、中条氏の稗貫郡にまで及んでいたのである。中条氏は武蔵国横山党小野氏の流れを汲む、同国埼玉郡小野保を本貫とする御家人。初代は中条兼綱、義勝房法橋盛尋ともいう。兼綱の子、家長は八田知家の養子として立身し、関東評定衆・出羽守となった(群書7所収小野氏系図など)。
「尊卑分脈」では家長に続いて、時泰-家平-時家-頼平-景長-時長-長秀と記されている。建武年間北奥現地奉行として活躍した中条出羽前司時長は家長6代の孫にあたることが知られる。鎌倉中期の光宗の名は見えないが、種々の理由から時家はその別称になると考えられる。
隣接の和賀郡地頭職が同じく中条兼綱を始祖として、西念(義秀) -行蓮(義行) -泰義…・と続く中条=和賀氏によって相伝されたことを考え合わせるならば、稗貫郡地頭職もまた、兼綱=盛尋または家長の鎌倉初期まで遡ることになるのではないか…

建武年間(1334~1336)、陸奥国司北畠顕家の麾下に属して現地奉行として活躍した稗貫=中条時長はその後、足利方に与して宮方と戦うこととなった。隣接の和賀=中条氏もまた足利方に属した。「結城文書」興国2年(1341 )閏4月20日五辻清顕書状には、「薭貫出羽権守一族等宗者共数輩討取了」、同じく5月16日法眼宣宗書状にも、栗屋河において「部貫党」と合戦し打ち勝たしむとあり、稗貫氏が宮方の攻略の対象となっていたことが知られる。「遠野南部文書」興国2年12月20日五辻清顕書状にも、「和賀・薭貫辺」に馳せ向かうべしとある。(注4)
また、法眼宣宗書状の「部貫党」という表現は、稗貫氏内部の構成が比較的平等な人間集団、すなわち一揆的な状態となっていたことを物語っている。似内・小山田・八沢(安俵)・亀森・大迫・八重畑・久貫・矢沢・新堀など、稗貫の分流と称される諸家(瀬川稗貫氏系譜)が簇出して、主家と肩を並べるような状態となっていたものと考えられる。奥羽における国人一揆の先駆と称しても過言ではない。

南北朝期を過ぎて室町期に入る頃、奥州探題大崎氏の覇権が確立するや、稗貫氏はその傘下に属した。「余目氏旧記」によれば、大崎に祇候する奥羽両国諸侯のうちで、稗貫氏の着座順は、桃生・登米・深谷・相馬・田村・和賀と同じく、第3位にランクされている。1位の伊達・葛西・南部、2位の留守・白川・蘆名・岩城などには及ばないとしても、奥羽政界における中堅としての地位を、稗貫氏が確保していたことが知られる。(注5)
また、「蜷川家記」天文24年(1555)には、「奥州上洛衆稗貫大和守義時、得御意候、黄金十両進候、鷹御約束申、竹鼻令同道下、稗貫家来、十二町目下野守・万町目・駒牧内膳助・杉田出雲守・湯口大蔵丞、貴殿へ得御意候」とある。はるばる上洛を果たして室町将軍家に拝謁を行った稗貫大和守の狙いが、北奥大名としての地位確立にあったことは明白である。十二町目・万町目・駒牧(板か)・湯口などは「稗貫家来」と記されてはいるが、主家と肩を並べるような地位を保持していたと考えられる。戦国大名権力の確立をめざしつつも、一揆的・党的結合原理をなお脱却し得ないという過渡的状態であった。いずれが主家とも定めがたいこのような一揆的状況は、この時期における稗貫氏の世系が錯綜、混乱している原因ともなっている。
室町・戦国期における稗貫氏の支配領域は「稗貫五十三郷」と称された(「吾妻むかし物語」)。稗貫郡内一円の郷村がその範囲に含まれるとみられる。

稗貫氏主家の居城は花巻鳥谷ケ崎(とやがさき)城。応仁2年(1468)円満寺に梵鐘を寄進した「大檀那稗貫城主藤原千夜叉丸」とは、鳥谷ケ崎城の当主か(「岩手県金石志」)。ただし、享禄年間(1528~32)以前の居城は瀬川の十八(さかり)ケ城(本(もと)館)にあったとも伝える。領内の各郷村にも城館が築かれ、稗貫の一族・家臣が割拠していた。

  (( 天正元年(1573)  織田信長、将軍義昭を追放 (室町幕府の滅亡)
  (( 天正10年(1582)  本能寺の変(信長自殺)
  (( 天正18年(1590)  豊臣秀吉、奥州平定(秀吉の全国統一)
  (( 慶長 3年(1598)  秀吉歿
  (( 慶長 8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる(江戸幕府)

天正18年(1590)8月、小田原陣不参(注6)の咎(とが)をもって、稗貫氏の所領は没収と決まり、豊臣秀吉の代宮浅野弾正長吉が鳥谷ケ崎城に乗り込んで仕置を開始、駐留50余日に及んだ。長吉は山林に逃れた百姓・地下人を還住させ(宝翰類聚天正18年8月20日長吉判物)、寺林光林寺・根子村浄玄寺などに寺領を寄進した(光林寺文書・光徳寺文書)。これを「上(かみ)衆一番下(くだ)り」と称する(石鳥谷町史)。…「天正18年10月浅野の主力が引きあげると、稗貫・和貫・葛西・大崎の旧臣、そして九戸政実らは一斉に蜂起して秀吉に叛旗を翻した。稗貫氏も一揆に与して旧領の回復を図った。天正19年(1591)8月、関白豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置の大軍が襲来、当郡を経て、さらに北方の九戸方面に向かった。当郡には浅野長吉麾下の奉行2名が駐留して、一揆首謀者の諜罰、城館の破却などにあたった(光林寺文書)。これを「上衆二番下り」と称する。同時に稗貫・和賀・斯波の3郡は南部信直の領地とする決定が上方からもたらされた。天正19年9月南部信直は稗貫・和賀両郡の地8,000石を北主馬尉秀愛に、1,500石を江刺兵庫頭重恒に給して、それぞれ鳥谷ケ崎城(北上川西部)、新堀城(東部)の守りとした(宝翰類聚天正19年9月25日南部利直知行判物)。
稗貫・和賀の旧領回復の望みは完全に断たれ、両氏の滅亡は決定的となった。…

[補足]
主に川島茂裕著「稗貫郡と稗貫氏 -権力の狭間とそこに生きた人々-」(H26年度笹間地区郷土史講座資料)に基づき補足します。

(注1) 和賀・稗貫・志波の3郡:もともと一体的な地域が行政単位として3郡に分割された 〈地域の発展と分断支配〉
・3郡分割に明確な地形要因がない 3郡は相互に一体的
・和賀郡と稗貫郡は、連接したまとまりのある地域 〈郡界要因が不明瞭〉
・これが、後世、稗貫氏・和賀氏が分かちがたく結びついて下向してきたことに連なる
・後の時代(室町~戦国時代)でも、中小領主が割拠することにつながり、さらには、秀吉の命令にもかかわらず、参陣しなかったことに連動していく

(注2) 安倍氏~清原氏~奥州藤原氏の時代
1) 安倍氏の時代(11世紀前半)、稗貫郡内には安倍氏の痕跡が見当たらない
・稗貫郡は、南(黒沢尻系安倍氏)と北(厨河系安倍氏)からの草刈り場であったろう
2) 前九年合戦(1056~1062)から後三年合戦(1083~1087)を経て、藤原清衡(1056-1128)が全6郡を領有
3) 奥州藤原氏の時代(稗貫郡は瀬川氏の時代)
・東北地方では、大規模な開発が行われた
・稗貫郡では、側近家臣の瀬川氏によって開発が行われた

(注3) 中条光家(光宗)の地頭職:建長8年(1256)に、和賀三郎兵衛尉(行時)と同五郎右衛門尉(景行)が、和賀と名乗っているので、和賀郡の地頭職を持っていたらしいことは、ほぼ判明する。これから推して、出羽四郎左衛門尉(中条光家)が稗貫郡に地頭職を持っていたらしい、と言えなくもない。
しかし、建長8年すでに、稗貫・和賀郡に入部していた、またはすでに在地していたかはわからない。代官は派遣しただろう。

(注4) 中条系稗貫氏:中条氏が南北朝時代に稗貫郡に入部してきたが、直後に討死し、郡内での痕跡が消えた。
・鎌倉時代、稗貫郡に中条氏が稗貫氏を名のる資料はない
・興国元年(1341)に、北朝の中条系稗貫出羽守時長と一族が、志波・岩手郡周辺で、南朝方に討ち取られた
・稗貫氏は、稗貫郡内の卓越した領主ではなく、中条氏が率いる地縁的な、一揆的な集団によって成り立っていた
・稗貫氏は、中条系の当主時長の討死(1341年)後、稗貫党として登城する
・中条系の稗貫氏は、稗貫郡から消滅し、滅亡した

細井・他著「岩手県の歴史」(1999.8.26 山川出版社)には、
「稗貫郡では鎌倉末に中条時長が武蔵国の中条総領家より分家の稗貫氏に入嗣し、稗貫郡の地頭職を継いだことが明らかにされている。時長は北畠顕家の先駆となって当初より糠部・津軽に派遣され、はなばなしく活動していた」
とある。

(注5) 鎌倉時代~南北朝時代~室町時代初期の稗貫氏の動向(まとめ):
1) 鎌倉時代、おそらくは、文治5年(1189)の奥羽合戦参陣を契機にして、稗貫郡内に、中条氏はなんらかの権益を有した(地頭職)
2) それを根拠に、建長8年(1256)、鎌倉幕府は中条氏に稗貫郡内の奥大道の警備を命じた。ただし、中条氏は、家臣を代官として派遣しただろう。すなわち、中条氏が稗貫郡内に常駐的に住まいを構えたとみることはできない
3) 南北朝時代の1342年、和賀・稗貫郡内で、南北朝両軍の合戦があった。北朝方にたった稗貫出羽一族は、当主が討死するなど、中条系稗貫氏は、稗貫郡内からは、滅んだ。子弟・子孫たちが、稗貫郡内に勢力を残したという形跡はみられない
4) 中条系稗貫氏滅亡直後、「稗貫党」が登場するも、南部氏によって打ち破られた
5) 1353年、稗貫祢子(ねこ)兵庫が、初登場した
6) 後世(江戸時代・南部藩領時代)、稗貫郡内の諸子が、自己の正統性を主張するために、系図を作ったが、当時の確実な史料によって解明できるのは、中条系稗貫氏の断絶後、根子系稗貫氏である。これが稗貫氏の本宗家となったのではないか

(注6) 稗貫氏が秀吉に参陣しなかった理由:一揆が原因。地元を離れたら同僚・領民に寝首をかかれ、参陣してもその地位を保障されるかどうかわからない(留まっても滅亡、参陣しても滅亡、結果は同じ)。
一揆とは:一般的には血統的正統性や圧倒的な武力を持つり一ダーが存在せず、「連判状」に代表される一揆契状に見られるように、局地的には全参加者が平等で民主的な合議制の場合が多い。それ故に迅速で統一的リーダーシップが存在せず、大部分は一時強勢を誇っても内部分裂等で弱体化し、個別に撃破されるケースがほとんどであった。

(2015.11.30掲)

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