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照井長者と照井沼 -北上川の変流?-

前回「照井沼を何故『照井沼』と呼ぶのでしょうか?」と疑問を呈しましたが、灯台下暗し、手持ちの本にありました。若宮四郎著「観光と花巻物語」(注1)の中の「怪談照井沼(照井長者の巻)」。16ページとかなり長い物語になっていますが、要約すると:-

      (一)
(1) 昔々十二丁目(注2)に照井宗兵衛という郷士がおりました。郷士とは俗に地侍とも言い、正式の武士の家柄ではなく、殿様から名字帯刀を許された地方で勢力のある豪農、豪商のことです。 (2) 宗兵衛は百町歩に近い農地を持っていて、その七割が田圃でした。毎年田植には何百人という男女を集め、幾日もかかってしまいます。彼は何とかして一日で田植えを終えたいものだと考えていました。
(3) そしてある年、七十町歩の田植を一日で完了することを殿様に約束してしまいました。
(4) 千人程の人数を集めて田植を始めたのですが、午後四時半ごろになって、日のあるうちに終りそうにないことがはっきりしてきました。田植の人々を叱咤激励しますがどうにもなりません。
(5) 宗兵衛は「竜神様、私の願いを聞き届けて下さいましたら、黄金の鳥居を建てて差上げます」と、祈りを捧げながら、西に沈みかけた太陽を団扇であおぐと、夕日は静々と東の空に戻っていきます。そして広大な田圃の田植もドンドンはかどり、日の暮れないうちに終りました。
(6) このことを知った殿様は大変お喜びになり、宗兵衛に沢山の御褒美を下され、国中の人々は彼の名を「朝日長者様」と呼ぶようになりました。その頃の宗兵衛は得意の絶頂にあって、竜神様との約束もケロリと忘れてしまいました。
(7) 彼の持っていた土地というのは、おそらく現在の南城から十二丁目、成田に及び、さらに東方の川向う、島や更木に伸びていたと思われ、彼の豪壮な邸宅が十二丁目の北上川河畔にあったのです。
(8) 腹を立てた竜神様は彼の夢枕に立って、約束の実行をせまりましたが、宗兵衛はそんな事など全く気に留めませんでした。
(9) その年も秋となり、人々は今年も豊作だと喜んで、秋祭やお祝いやらの大騒ぎで夜を明かします。宗兵衛も酒や肴を大量に出して、人々に振る舞いました。
(10) その夜の事です。今まで月が煌々と照り輝いていた空が突然曇ってきて、雷鳴が轟き渡り、大豪雨が降り出したのです。やがて北上川の水がごうごうと響き、見る見るうちに水量を増し、アッと言う間に宗兵衛の豪壮を誇った大邸宅も水底に沈んでしまいました。逃げる暇もなく彼を始め家族一同、邸内に住んでいた作男や下男下女に至るまで、悉く流れの藻屑と消えていきました。
(11) 豪雨は三日三晩降り続き、邸宅跡を中心に大きな沼が出来ました。そして夜ともなればその沼底から悲痛な呻き声が聞こえてくるので、薄気味が悪いから、夜は沼の畔を誰も歩きません。村人達は竜神様の怒りに触れたのだと言い、水底の呻き声は宗兵衛がその責めに苦しむ声なのだと噂しました。
(12) いつの間にかこの沼に田螺が繁殖するようになりました。村人は「あの田螺は照井家の怨霊だから、食べたらその者は必ず死ぬ」と子孫に伝えました。ところが後に物好きな人が取ってきて食ってみたところ、これが天下の珍味だったのです。 (13) 一代の豪農朝日長者照井宗兵衛は、大体において康生(1455~)のあたりの人と思われます。この年代の推定は、後述の円万寺の釣鐘に刻まれている文面等を参考に割り出したものです。

     (二)
(1) 沼には奇怪なことばかり起こりました。沼底から悲しい呻き声が聞こえるだけでなく、青い火の玉や骨と皮ばかりの亡霊がゲラゲラ笑っているのを見た人もいます。宗兵衛の祟りだということになり、お寺を建てて霊魂を慰めることになりました。そこで生前宗兵衛が関係のあった村々から寄進を受けることになったのです。照井家は手広く交際もあり、沢山の浄財があつまりましたが、中でも江刺からは多額の金品が贈られました。それは江刺で過去に大山火事や大飢饉の時、宗兵衛が大量の食糧や金品を与えてやったからです。
(2) そんなこんなで、お寺は立派に建造され、寺の名は円万寺(注3)と名付けられました。そして供養も盛大に行われましたが、沼底からの呻き声はやみません。 そこで今度は、寺に鐘がないからだということになり、釣鐘を作って奉納することになりました。この話が領主の耳に入り、稗貫城主自らが寄進することになりました。この時の城主は稗貫千夜叉丸(注4)であったことが、この寺鐘に刻み込まれています。
(3) 初代円万寺住職は徳も高い立派な人でしたが、二代目を継いだ住職はだらしない性格で、飲む、打つ、買うの三拍子そろった手も足もつけられない男でした。江刺の檀家総代の弥次郎がやって来て和尚と話をしているうちに、寺が経済的に困っているから何とか金を融通してくれるように頼まれ、とうとう引き受けてしまいました。
(4) 弥次郎は江刺に帰って来てから、村中を歩き廻って金集めに狂奔します。そして五十両という大金がまとまり寺に持って行きました。和尚が弥次郎の求めに応じて渡した証文の中に、「もし期限内に返済しない場合は、釣鐘を持って行かれても異存はない」という一箇条が書かれていました。

     (三)
(1) その年も暮れて翌年となり、六ヶ月の期間は足早に過ぎていきましたが、寺からは何の音沙汰もありません。そしてとうとう一年が過ぎました。もう江刺の人々も我慢ができなくなり、弥次郎を頭に大勢で押しかけます。和尚の方は博打仲間を集めて立ち向かいましたが、多勢に無勢、江刺側の勝利に終りました。江刺勢は釣鐘を土車に積んで意気揚々と引き上げていきました。
(2) 江刺村では、鐘のない寺があったので、その寺に吊るし鐘を打ってみましたが、ガシャッとかグシャッという汚らしい音をたてるだけで、円万寺の時のようにゴオウンと美しい音色で鳴らないのです。 またこの鐘を吊るしてから、村中に疫病や火災、その他不幸なことばかりが起るので、村人たちは薄気味悪くなりました。
(3) 「鐘の祟りだ、寺に鐘を返せばこのような災難はなくなるだろう。一時も早く元に戻さなくては」、このような噂が高まったので、力持ちの若者四、五人で鐘を土車に乗せ、運んで行きました。ところが沼の坂道(注5)を半分ばかり登ったところで、車が進まなくなりました。若者たちが疲れて一休みしていたところ、どうした弾みか、土車がコロコロと坂を独りで下り始め、横に曲がり土手を走って沼に突っ込んでいきました。
(4) 村から梵鐘を運び去ってからは、江刺に不幸なことは起きなくなりました。しかし沼の方では、夜ともなれば沼の底から怪しく響く鐘の音がして、青い火の玉が飛び、亡霊が現れ、美男美女に化けた亡霊に誘われた若い男女幾十人が命を落としたと伝えられています。  (後略)

鐘が沼に沈んでから後の物語は東十二丁目誌にも載っていますので、今は省略します。
私がこの物語で注目したのが、照井氏のことは勿論として、「北上川の変流」(注2)と「江刺」です。
「北上川の変流」については、東十二丁目誌の第1章で述べられており、中世から近世にかけて河道が大きく移動したことが示されていますが、その時期についての言及はありません。この物語に依れば、15世紀半ばということになります。そしてこの河道移動が照井氏に大きな影響を与えたらしい。
「江刺」も興味深いです。この物語では照井宗兵衛が多くの作男を江刺から得ていたというのですが、何故稗貫内や和賀ではなく江刺だったのか。「島の悪左衛門」のもう一人の悪左衛門も江刺の人でした。
東十二丁目と江刺には特別の何かがあったのでしょうか。

照井宗兵衛(に相当する人)が照井氏系譜の中でどこに位置付けられるのか、現在のところ全く不明です。照井氏の東十二丁目進出に北上川の河道移動がどう影響したのか、興味深いのですが、今のところ参考になりそうな資料を知りません。

この物語の照井沼創成譚は「東十二丁目誌」には載っていません。「観光と花巻物語」の刊行が昭和50年、「東十二丁目誌」のそれが平成2年ですので、石崎先生が知らなかったはずはないと思うのですが、どうしたことでしょうか。出典が全く示されていないこの物語を「史料的価値なし」と判断されたものか、どうか…?

[補足]
(注1) 「観光と花巻物語」:若宮四郎著、S50.10.10 花巻歴史研究会発行
・若宮四郎は本名・赤坂英吉、1914年生れ、和賀郡東和町北成島の人
・他に「東和の夜ばなし」、「怨霊毘沙門堂物語」などの著作があります。
・この物語の最後に「照井沼に関しては、まだまだ書きたいことばかり一杯ありますが…」と書かれていますが、他に刊行されたものはないようです。

(注2) 十二丁目:現在照井沼跡の周辺は東十二丁目です。そこが当時十二丁目であったいうことは、北上川がその東側を流れていたことになり、照井沼ができた大洪水によって北上川が現在の河道に近い西側に変流したと想定してみました。しかし「十二丁目」と「東十二丁目」をこのように峻別してあれこれ考えることは意味のないことかもしれません。
北上川の変流については「東十二丁目付近の河道移動」もご覧下さい。ここには「いずれも島村(東十二丁目)は北上川の西、右岸に属する地域としている」とあり、これによれば私の想定は成り立たなくなります。

(注3) 円万寺:著者は「今日地名に残っている湯口の円万寺ではない」と断言しています。それではこの円万寺はどこにあったのか?「鐘を円万寺に返しに江刺(南)から来た若者達が沼の坂道を登り」とありますから、沼の北側の崖の先ということになるでしょうか。 円万(満)寺という寺が別の物語「小袋の地名」にも出てきて、一部似た話になっています。改めて検討するつもりです。

(注4) 稗貫千夜叉丸:瀬川稗貫氏系譜によれば、応仁2年(1468)没。父・広信は寛政3年(1462)沖津で討死

(注5) 沼の坂道:沼の東側を南北に通る、現在の県道28号線の東十二丁目と高木の境あたりか。

(2016.3.6掲/3.12改)

“照井長者と照井沼 -北上川の変流?-” への1件のフィードバック

  1. 「北上川の変流」の根拠が曖昧になりましたので、加筆修正しました。

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