「内史畧」と著者・横川良助

(太田俊穂(注2)著「南部藩記 – 『内史畧』の世界」(1975.4.5 大和書房)より)

苦闘と崩壊の記録(ルポルタージュ)
『内史畧』は戦国の末期、北東北の一角に封土を与えられて成立した南部藩が、幕藩体制のなかの一つの単位として、いかに苦悶し、いかに生きつづけるための努力をしてきたか、そして、どのような過程をたどって崩壊へ向って進んでいったかを300年の記録によって実証したものである。舞台はあくまで南部藩であるが、この一つの藩に象徴される当時の苦悩は、すべての藩に共通するものであることは論をまたない。ただそれが、克明に記録されて今日までのこっているかどうかである。

前後巻44巻からなるこの書は戦争、政治、経済、社会、文化、民俗、世相のあらゆる分野にわたり、400字の原稿用紙に書き直すと約5,000枚にもなる。1巻がだいたい100枚以上と見ていい。前巻24巻は近世南部の創設者である大膳太夫信直(二十六世)の時代の詳述にはじまって、歴代藩主の治績を中心に、その法令集、事件等をだいたい年代順に編集している。そして後巻20巻が著者の生きた同時代の記述である。ここには凶作、飢饅、百姓一揆はもちろんのこと、幕末期のお家騒動の真相、対幕工作、藩首脳部の失政と悪政、それにたいする下級武士や、庶民の抵抗、全国的な事件では外国船の来航、安政の大地震など、幕末の諸相のなかで南部藩と関係のあるものは大小にかかわらずほとんど網羅されている。そのほかに、たとえば、藩士乱心切腹、大火、刃傷、人妻の不義といったような社会面的なことまで、とりこぼしなく記録されている。

いまその2、3冊を抜きとって、主な項目を並べて見ると、
諸士番制施行 / 代官所改正 / 仙北町大火 / 村民、無宿浪人を殺す / 旱魃情況
将軍の死により音曲停止 / 火薬工場爆発 / 兵制改革 / 幕府隠密下向
狂人の刃傷 / 毒水流言の事 / 野田通百姓一揆 / 雫石通百姓一揆
五戸百姓一揆 / 大守新政 / 用人木村伊兵衛の処刑 / 盛岡城内に落雷
諸士遊興禁止令 / 異人漂流 / 姦通者、夫を殺す / 盛岡の大火(安永三年)
同心殺傷 / 肴商、武士を軽侮して手討 / 天明三年凶作 / 盛岡の米騒動
諸士博奕処分 / 松前警備地域 / 松前出兵船難破 / 武士刃傷 / 江戸詰番医自刃
亀田家次男狂気殺人 / 武士、本丸に侵入して投書 / 諸士不行跡取締
諸士出奔禁止令 / 諸士遊山禁止令
といったように、文字どおり世情万般に及んでいる。

しかも日常、著者みずからが見聞したことを書きつづった後巻の方が、…簡潔にして要を得、生彩を放っており、迫真力をもっている。ただここで注目しなければならないのは、いかなる事件、いかなる問題の記述にあたっても、いささかも著者の私見を加えていないことである。後世の史家をあやまらしめないための配慮か、それとも万一、藩吏の手に入った場合の用心のためか、その点は不明であるが、あくまで事実だけを書いて、それにたいする意見や批判の片鱗さえも見ることができない。お家騒動の場合も「×月×日、徒士某が謹慎を命ぜられた」ということだけで、余計なことは一言も付していない。もちろん明らさまな批判も見られない。一揆の場合も同様である。

次にかかげるのは弘化4年(1847)の一揆が農民側の勝利に終わり、農民たちがみずからのエネルギーの強烈さに酔い、その反面、武士階級の威信が全く地におちた模様を、えがいたものであるが、その淡々たる筆致が、かえって痛烈な社会批判となっている。
《弘化四年十一月五日、百姓体の者、酒に狂い内加賀野町内(盛岡の屋敷町)を縦横に往来し、このたび三閉伊百姓愁訴(一揆)にて家老横沢兵庫、これにても性根つかざるやなどと、大いに誹謗し、悪言を吐き、大音に罵りてやまず、縦横に数度往来して白昼に罵り歩きしが、折節、廻役谷地忠左衛門行きかかりて揚屋入りにせり。》
この百姓に関しては後日、無罪ということで釈放されたことまで、ちゃんとつけ加えてある。内加賀野といえば、盛岡では高級武士だけが住む屋敷町である。誰かがでてきて無礼討ちにしてもさしたる問題となるまい、と思われる百姓の暴言にたいして、手も足もでなかった武士の無気力さがこの文章によくでている。しかし、著者はいぜんとして一言の批判も加えていない。その用意周到ぶりは実に見事であり、心憎いばかりである。

横川良助と私の血縁
『内史畧』が資料として公的の場に登場したのは、明治36年、のちの、いわゆる「平民宰相」原敬によって編纂された『南部史要』のなかにである。『南部史要』は、南部家の第一世光行から最後の藩主第四十一世利恭にいたるまで、700余年の歴史を要約したものであるが、刊行までに8年間の歳月を要し、その費用はすべて原のポケットマネーでまかなわれた。執筆したのは、原が大阪新報社長時代に編集長として重く用いた、同じ盛岡出身の菊池吾郎である。菊池は原の懇望もだしがたく、帰郷して、この藩史に生涯を捧げた。

「内史畧」原本
「内史畧」原本(自筆本)

14名の編纂委員のなかに、「横川謙吾」という名が見える。あとでわかったが、この人は私の大伯父であった。つまり祖父の兄であり、この当時の『内史畧』の持ち主である。したがって『内史畧』はこの横川謙吾によって引用書目として『史要』の編纂に重要な役割をはたしたのである。『南部史要』は原敬みずからも「…完全なる一大歴史を編纂せんなどとは、余輩の始めより予期せざりしところにて、余輩はただ七百年四十一代間の畧史を編纂せんと欲したるに過ぎず」といっているように、多くの資料を見事に整理して、後世の史家のため編年史を作ったところに大きな意義がある。
しかし、学問の世界に登場したのは森氏(注3)の「旧南部藩に於ける百姓一揆の研究」が最初であろう。
森氏の場合は純粋な社会科学の視点から『内史畧』をとらえている。この研究によって、『内史畧』は学問の証言者としての立場を確保されたのである。

横川良助は本来は数学者である。彼の著わした和算の書十数巻が現在東北大学にあって、日本数学史の重要な資料となっている。彼の記述が、きわめて非情であり、形容詞さえも全くといっていいほど用いていないのも、やはり数学者であったせいではないかと思う。横川の人間像はいまなお謎である。冷徹なリアリストであったことだけは否定できない。しかし、文章は流暢である。いささかの贅肉もなく、むろんロマンチシズムのあやもない。文学的表現のかけらもみいだすことはできない。にもかかわらず、「嘉永元年五月十二日、金山奉行藤島平内、私宅において切腹即死、兼ねて病気にて狂気なりと。検使御使番御従士目付等来って見届、死骸は直ちに菩提所へ葬う。身帯家屋敷は親類へ御預け」といった事実だけの記述に、悽愴の気を感じさせられるのはどういうわけであろうか。私はそこに、文学以上の何かがあるものと思わざるを得ない。…

横川良助の生れた安永3年(1774)は南部領内一帯が凶作に見舞われた年であった。十代将軍家治の治下、老中田沼意次専横の暗い時代である。翌三(ママ)年は、長雨と虫害のためやはり凶作であった。当時はほとんど毎年、または一年おきに冷害に見舞われ、農民は飢餓にさらされた。10歳を迎えた天明3年(1783)は領内餓死者40,850名、疫死23,848名、他領逃亡3,330名(南部藩当局調査)に達した。これが日本四大飢饉の一つである。この凶作飢饉は四年、五年、六年、七年とつづき、米騒動、百姓一揆は相ついで起こった。幕藩体制は、このころから大きく傾斜しはじめたのである。
少年の良助にとって悲惨なできごととして大きな衝撃を与えたのは天明の大飢饉であろう。…彼の『飢饉考』は、当時の状況をとくに詳述している。

しかし、後年、61、2歳で大慈寺に食客として入るまで、藩士としていったいどのような日々を送っていたのか、私の調べた限り全く不明である。何らかの理由で、非職だったのかもしれない。それも謎である。数学の塾を開いていたというがこれは事実であろう。大慈寺へ住むようになったのは、天保6、7年(1835-6)ごろかららしい。ここでも謎とされるのは、なぜ屋敷をでなければならなかったのかである。祖父は「藩からにらまれていたので、寺にかくまってもらったのだ」と、よく語っていたそうであるから、それに近いことがあったのであろう。しかし、良助のいかなる著述にも、自分のことはただの一行もふれていないので、その真相は今後の調査にまたなければならない。それから死ぬまで21、2年間をこの寺で過したのである。

良助が食客になったころの大慈寺の住職は恵観通光和尚といって、反骨と奇行に富んだ豪快な僧であった。一種の法力ともいうべきものをもっていて、鎮守八幡宮の馬場で火渡りの術をやってみせたり、一茎の葦に乗って北上川を渡るといって人を煙にまいたりしたのがたたって、追放されたこともある。このように傑出した僧であるから、良助が、かりに政治的、思想的な事件に連座して禄をはなれたとしても、それを寺にあずかるぐらいのことは意に介さなかったのであろう。
和尚は、良助のために、2室しかない寺の部屋を一つ与えて、心ゆくまで著述に専念させた。『内史畧』44巻、『飢饉考』9巻、『大慈寺事実矩格』20巻、その他多くの著述はここでなされた。
彼の情報蒐集力は全く想像を絶する。大慈寺の一室にこもりっきりで、どのような方法で情報をとったのか。いわゆる「街ダネ」だけだったら、寺に出入する人からきくこともできるが、城中でのできごとまで手にとるようにわかっている。それがのちに藩にあった記録と照し合せて見て、少しもまちかっていないのである。いずれにしても有力な情報網をもっていたことは、彼の記述から推しても明らかである。良助の部屋は一つのデータバンクになっていたといっても過言ではない。

良助の人間像を追求することは、至難の業である。その著書をとおしてうける感じは、きわめて冷静な人物であるということである。どのような大事件を書いても感情を一つもあらわさず、冷然とつきはなして淡々と書いている。それはあたかも有能な新聞記者の書いたものを思わせる。その精神構造をつきつめるとなにか不気味なものがある。そうでないと、あのような尨大な著書を、いさきかも感情をさしはさむことなく一貫して書きとおせるものではない。病床に伏して死期が近づくのを知るや、次のような辞世を用意した。
 時いたりて八十に余る夢果てつ 元の住み家に帰る嬉しさ
 有ってなきなくて有るなり四方の垣
両方ともお世辞にもうまいとはいえない。しかし、良助がのこした唯一の文学作品であった。戒名は「寿算軒考覚仁教鉄翁居士」と「過去帳」にある。

良助と恵観和尚-その謎の周辺
『内史畧』の著者、横川良助の生涯はいまなお多くの謎につつまれている。わかっていることは安永2年(1774)に盛岡に生れ、安政4年(1857)数え年84歳で死んだこと。そして屋敷は盛岡の鷹匠小路という武家小路にあったこと。晩年の21、2年を菩提所の大慈寺で送ったこと。『内史畧』をはじめ『飢饉考』『見聞随筆』『大慈寺事実規格(ママ)』等の歴史に関する著述はほとんどこの寺でおこなわれたこと等である。

いまは亡き盛岡の歴史家であり、『南部叢書』の編纂者である太田孝太郎氏は私も親しかった人であるが「盛岡市史」の人物志のなかで良助に関して「幼名を駒吉、のち良助といった」とし、「川辺気長、魚槌、逍遥舎、釣反成の狂歌名があり、狂歌を好んだこと、そして釣をたしなんだことは数ある狂歌名にても知られる。…」と書いているのは良助の一面を物語っているものといえよう。さらに太田氏は「筭学(さんがく)(注4)を佐久間光豹の師の志賀吉倫に学び、その秘奥を極めた。…」…良助が数学を学んだのは、青年時代、まずこの学者たちの門に入ったものと推察される。
『内史畧』その他、数学書以外の著書に見られる社会諸相の分析と追求に、科学者としての鋭さと冷徹な観察方法を用いているのは、こうした教養が基礎となっていることは否定できない。

太田孝太郎氏も、この人物志のなかで、良助の経歴は明らかでないことを認め、ただ『見聞随筆』に、寛政のころ鹿角、毛馬内(当時は南部領、いまは秋田県)にしばらくとどまっていたと伝えられているから、仕官した様子は見られないといっている。
生涯独身でとおしたのは生来病弱であったからであろう。22、3歳までは外を歩くにも杖にすがらなければならなかったという。藩内のあらゆる名医に診てもらったが効き目がなく、最後は灸によってやっと丈夫になった。それ以来、薬をさけて用いなかったとやはり太田氏は述べている。そして常に「健康の法は己れの貧しきを憂えず、他の富を羨やまず、食と、住とに及ばぬ願いを起こさず、心気を労せぬこと、要は孟子の養心莫善於寡欲にある」ということを生活の信条にしていたという。『見聞随筆』に「四月の頃、桔梗の若葉を茎ともに摘んで湯干しにて食す。もっとも佳品なり」と書いている。…
要するに世間からは全く「脱俗の人」と見られていたということなのであろう。…

ところで、良助にはわからぬことがいっぱいある。まず第一に「過去帳」にでているのに、墓がどうしてもみつからない。横川家の墓所は大慈寺のずっと奥の方の一角にまとまっているが、そこをいくら探しても良助の墓らしいものがないのである。…
私がもっとも知りたいのは、『内史畧』に見られるような冷酷なまでに非情な、叙述の手法、あくまで実証を積み重ねてゆく特異な史眼……こういうものをいかにして学び、そして身につけたのかということである。常に著者自身と書かれる事実とのあいだに一定の距離をおき、事実は事実として書き、いっさいの私見と感情をまじえず、自分を幻のごとくぼかしているのはなぜなのか。これはどの著書にも共通しているが、とくに『内史畧』では見事に貫かれている。
『内史畧』の後巻は著者の生きた時代の叙述であり、その大部分が一揆や、お家騒動をも含めていずれも彼の周辺に起こった事件や問題であるから、おのずから所感、感懐がはいってしかるべきところなのだが、全く口をつぐんで、冷静に事実だけを書いている。明らかに意識的である。そこにも『内史畧』の謎がひそんでいる。

とはいうものの良助といえども人間であるから、自然、書くものに、力のはいっているところと、そうでないところとがでてくる。それが読みなれてくるとよくわかる。しかし「悪政」や「失政」の事実を列挙しても著者としてはこれを「悪」と断定しない。正邪善悪の判断は自分としてはいっさい下さないのである。ときとして他人の口を借りていわしめることもあるがそれもあくまで自分の意見としてではない。
ただ、ここで興味深いのは自分と特別な関係にある者、たとえば甥の横川貢など、そのもっともいい例であるが、彼については、きわめて客観的にではあるが、かなりくわしく述べていることである。だが、この場合でも、たまたま貢が良助の甥であることが、寺の過去帳でわかったから、うなずけるものの、もしそうでなかったら、第三者のことを例によって淡々と書いているとしか思えない。良助は貢が自分の甥であることには全くふれていない。だからつい見落してしまう。こんなところに意外な陥穽が用意されている。しかし、くり返して読んでいるうちに「弘化一揆」の章に「横川貢」が代官として、じつに多く登場してくることに気がつく。しかもさりげなく顔を見せる。やがて「嘉永一揆」にはそれらしい人物が覆面で姿をあらわし、いつのまにか消えてゆく。その貢が、この二つの大一揆の谷間に起こった、もう一つの「岩泉一揆」つまり代官所新設反対運動には、みずから一揆を指導するといった重要な役割をはたす。そして次の「嘉永一揆」には黒幕的な存在として彼の影がふたたび、あらわれてくる。私はその人物が横川貢ではないかとマークするまで約半年もかかった。良助が、ときとして用いる「妖しい話術」に奔弄されたのである。

同じことが、彼が晩年を過ごした、大慈寺の九代目の住職、恵観通光和尚についてもいえる。良助はこの和尚によって寺にひきとられ、一室を与えられて世を去るまで、なにものにもわずらわされることなく、多くの著述に専念できた。
その当時の大慈寺は小さい寺で、本堂のほか二つの部屋しかなかった。その一室を良助のために提供してくれたのだからこの二人が肝胆相照らしていた仲であることはいうまでもない。恵観和尚はなかなかの傑僧で、いまもその奇行が伝説的に語られているが、良助もこの僧については『内史畧』のなかで多くの行数をつかっている。異例のことである。しかし、これも文化6年(1809)12月、天明飢謹の餓死者を供養する施餓鬼をこの寺でおこなったことを述べた記述のなかに恵観が登場するのであって、恵観を主として書いたものではない。新聞記者が、個人的に親しい人を書きたくとも、何か記事になるきっかけとなることがなければなかなかできない。このこととよく似ている。良助はかねて『内史畧』に恵観を書く機会をねらっていたところへ餓死者の供養をやることになったので、それに関連して恵観についてくわしく述べたとしか思えない。良助は近代新聞人の感覚をこの当時すでにもっていたのであろうか。…

卓抜な世相描写
…ここに横川良助の風貌をいささかでもしのぶことのできる一文がある。
戦前、南部家の家令だった人に佐々木正郎という人があった。いまは故人となったが、昭和9年10月発行の「南部史談会報」に「算学者横川良助先生の性行」と題して良助の「実像」をしのばせる一文を寄せている。これによると佐々木氏の祖父にあたる人が、良助から数学の教授を受けたものらしい。「聞き書」ではあるが良助の人となりを証言する文章なので重要なところをそっくり引用したい。

《生涯大慈寺伽藍の一室に独身生活をなし、平生写本を以て無上の快楽とし、つれづれなるときは手網をたずさえ川漁に行き、これを娯楽となす。いつも子弟に習字、読書を教授し、余暇を得れば著述をなせりと。あるとき、予が母の兄、馬場周助、先生に面会を求め数学の教授を受けたき旨を述べしに、しばらく無言、よくその談話をきき、弁舌及び動作を熟視して後、貴下は何れの法門まで研究せられしか、算盤(さんばん)(注5)を習うには少くともその算書の参考となるべきもの葛籠(つづら)で一駄もなければ算盤を置くとはいわれぬ。貴下に参考書の騰写したるもの幾ばくあるかと教誨(きょうかい)するが如く説力し、まだ写せるもの少数なりと答えるや、それでは算盤を置くというべきにあらずと。これあるいは初対面の試験にあたるものなるべく、予が幼年の頃、父よりききし実話なり。》
学問にたいする良助のきびしさをこの一文がよく物語っている。
《父、壮年の頃、予が祖父竿水(号)の先生なるを以て安否を訪えば、いつも喜び迎えて、雑談の後、当時藩老以下諸役人に対する世間の評判等くわしくきき取ること屡次ありしという。》
寺に出入する弟子たちもまた、しらずしらずのうちに情報網にされていたのである。弟子といってもみな城中に勤務する若い侍たちである。佐々木氏の祖父もまた情報をとられた一人だった。
《先生の容貌はあたかも太閤記に描かれたる竹中半兵衛重治に類似し、威あって猛けからざる人傑なりしと。藩においては先生を抜擢して新たに家禄を与えんとの議ありてひそかに内命を伝え、その意志を問われしに固く辞してその命に従わず、終身、大慈寺に住みて没したりと。》
竹中半兵衛重治は豊臣秀吉がその生涯において軍学の師と仰いだただ一人の智謀の士である。…

竹中半兵衛重治像(禅幢寺所蔵)
竹中半兵衛重治像(禅幢寺所蔵)

[補足]
(注1) 冒頭の写真は、岩手県立図書館編「岩手史叢」全10巻(S48.4.~S58.1. 岩手県文化財愛護協会発行)。第1巻から第8巻までが横川良助の著作。写真は島コミュニティセンター図書室「石崎文庫」所蔵のもの。
(注2) 太田 俊穂(おおた としほ):明治42年(1909)12月5日 – 昭和63年(1988)1月15日。岩手県盛岡市出身。昭和期の郷土史家、岩手放送会長、岩手銀行取締役。
学歴〔年〕東京外語蒙古語科〔昭和5年〕中退
主な受賞名〔年〕藍綬褒章〔昭和46年〕、勲三等瑞宝章〔昭和55年〕
経歴 昭和19年岩手日報に入社。編集局長、取締役出版局長を歴任。また、28年岩手放送の設立に参加、常務、社長を経て会長に就任。著書に「南部維新記」など
(注3) 森嘉兵衛(もり かへえ):明治36年(1903)6月15日 – 昭和56年(1981)4月8日。 昭和時代の社会経済学者・歴史学者、岩手大学名誉教授、経済学博士。
岩手師範教諭をへて、昭和25年岩手大教授となる。岩手史学会を結成し、県の政治史、経済史の研究で指導的役割をはたす。盛岡藩における農民一揆の研究で知られた。
(注4) 筭学(さんがく):「」は「算」の異体字。算数の学、数学。
(注5) 算盤(さんばん):和算で、高次方程式を解くのに用いた盤。木または厚紙などで作り、盤面に縦横の線を引いてできた多数の方形区画内に算木を置いて計算をする。

(2016.6.30掲)

「「内史畧」と著者・横川良助」への2件のフィードバック

  1. 『内史畧』の内容を基に、パラオ残照記という小説が、松田十刻氏によって書かれました。
    12の贈り物 東日本大震災支援岩手県在住作家自選短編集 (叢書東北の声)
    著者 道又 力

    史実をもとに脚色されたとは思いますが、大変面白い内容でした。

    1. コメント有難うございます。
      しかし「内史畧」と「パラオ」は私の頭の中では結び付かないのですが?!
      「パラオ残照記」はネットで見つかりません。どんな内容なんでしょうか?

コメントは停止中です。