記憶の中の「島」

  自足の郷
私が育った島(東十二丁目)は、当時正式には稗貫郡矢沢村東十二丁目といい、人口は1,300人(270世帯)程度だったようです。今にして思えば、この部落には生活に必要ないろいろなものが揃っていました。

小学校  島小学校、私の家から歩いて10分。私が島小学校に入学したのは昭和23年(1948)、新制小学校発足の年で、矢沢小学校島分教場から島小学校になった時です。
1学年1学級、同級生は44人でした。初めは二部授業(午前と午後で違う学年の授業を同じ教室で行う)だったのですが、間もなく全日制になりました。その頃は教職員が10人たらず、3人は島の人で、その内2人は農学校(農業高校)出の先生でした。
時折夕方から校庭で野外映画会が開かれたり、講堂で青年会や婦人会主催の演芸会等が開かれたりと、部落の文化センターといった趣がありました。
島出身の古川先生は青年会活動にも熱心でした。先生が演芸会の時に、塩水の入ったガラス鉢に差入れた電極2本の間隔を調節して、舞台のライトの調光をしていたのを、面白がって見ていたものです。
この小学校も昭和47年度末(1973)には閉校となってしまいました。

駐在所  我家の道を挟んだ西隣にありました。官舎付の24時間勤務。小学校閉校より大分前に廃止されたようです。
その隣に消防団の屯所があり、手押式の消火ポンプが置いてありました。火の見櫓には半鐘がぶら下がっていましたが、後に手動のサイレンになりました。消火ポンプの置場がここ以外にも数ヶ所あったようです。

醤油屋  今でもショウヤと呼んでいますが、「庄屋」ではありません。我家から2~3分のところにあり、ごく近い親類です。味噌・醤油を作っていました。当時我家では醤油は完成品を買っていましたが、味噌は自家製の豆をショウヤに持込み、仕込んでもらったものを家に持帰り、保存・熟成させて使っていました。
ショウヤの工場は子供達の遊び場でもありました。ヒンヤリして醤油の匂いが満ちた土蔵、蒸し暑く甘い香りのする麹室…
今は丸一食品工業㈱として、醤油のほか味噌漬け等の加工食品の製造・販売を行っています。

酢屋  家から10分強。子供の頃に行った記憶はありません。今も営業しています。

酒屋  「白雲」という清酒を造っていましたが、数年前に当主が急逝し、酒造りの歴史を閉じたようです。
個人宅でどぶろく(濁酒)造りも行われていました。当時も違法(密造酒)だったのでしょう、目立たない畑の片隅などに置いてあったような気がします。それをコッソリ子供の私が飲んで、顔を赤くして、親に叱られたり…

魚屋  家から5~6分南のところに魚屋がありましたが、随分昔に廃業しました。
当時は魚を担いだ行商もよく回ってきたものです。行商の魚で忘れられないのが油が乗って塩のきいた鰹のハラス、これの塩焼きが何とも言えません。今でもスーパーで時たま見かけるとツイ買ってしまいます。

桶屋  何かのツテがあって一時島で暮らしていた引揚者だったと思います。我家の本家のヨサバ(養蚕場、蚕を飼う小屋、といってもかなり広い建物でした)を住いにし、ショウヤの工場の片隅を借りて桶屋を営んでいました。鉋(かんな)や鉈(なた)にいろいろな種類があるのを感心して見ていたものでした。

精米所  我家の前に精米所がありました。モーターと精米用の機械が何台かあり、モーターの動力は幅広のベルト~天井の[プーリー(車輪)-車軸-別のプーリー]~ベルト経由で機械に伝わる仕組みになっていました。「精米用の機械」と書きましたが、実際は籾摺機、精米機、製粉機などいろいろな機械があったのだと思います。
この家は「クルマ」と呼ばれ、こちらも我家の親類ですが、大人のたまり場みたいなところでした。

素麺屋  家から3~4分。同級生O君の父親はいろいろな事業をする人で、素麺や菓子種の製造をしていました。藤原金次郎()が建てたという母屋の座敷を、畳を片付けて素麺の乾燥場にしていたのを憶えています。

屠殺屋  実際は何と呼んでいたか定かではありませんが、「屠殺出張サービス」とでもいった商売をしている人がいました。我家でも豚とか山羊をツブス(殺す)時はこの人に頼んで、我家の小屋の中でやっていたようです。ツブシた後は勿論家族で食べました。しかし冷蔵庫の無かった時代に全部を自家消費はできなかったと思うのですが、どうしていたのか?多分屠殺屋さんが引取ってくれたのでしょう。
このように家畜を処分することは、現在では密殺として違法行為でしょうが、当時はどうだったのか?多分当時でも禁じられていたのではないか。この種の仕事と被差別部落との関係を本などでよく見聞きしましたが、被差別部落のことを島で聞いた記憶はありません。
私の祖父はいろいろなことをやる人で、鶏や兎をツブスのは自分でやっていました。血抜きをするために頭を切落した鶏を庭先に吊るし…下の地上の雪が赤く染まっていたり…その鶏の首や未熟卵の入った鶏鍋をウマイウマイと食べたものです。私は首の周りの肉が好物でした。

製材所  島の旧家・押切家では製材所を営んでおり、住民が山で伐採した木を持込み、製材してもらうことができました。製材所から出るシキリ(? おが屑)やサッパ(残材)はストーブの燃料になりました。
移動式の製材所(?)もあり、家を建てる人の屋敷内に製材設備を備え付け、山から切り出した木を製材し、建築材料にする…などということもありました。

馬喰(ばくろう)  「馬喰」の意味を辞書では「牛馬の売買・仲介を業とする人」としていますが、当地では、馬を飼い、馬を使って荷物の運搬などをする人のことを馬喰と言っていたように思います。私の母の実家では義兄が馬喰をやっており、馬を1頭飼い、自家用に使うだけでなく、他所から頼まれて、山から木を運び出したり、田を起こしたり、荷物を運んだりしていました。
馬喰は腹当て、股引(ももひき)、半纏(はんてん)という独特の出立ちをしていました。そして馬だけでなく、四輪の荷馬車も持っていて、さらに冬の作業用に馬橇(ばそり)もありました。
中学生の時の冬だったと思いますが、馬喰の子供だったのか、一人の上級生が馬橇で学校に行くのに便乗したことがありました。道など気にせず、堅雪(かたゆき)になった畑や田圃の上を一直線に走るのが気持ちよかったです。堅雪というのは、積もった雪の表面が日中の太陽の熱で融けた後、夜の寒さで堅く凍った状態を言います。次の日の朝はその上を歩くことができ、通学の時はよく堅雪の上を通ったものです。しかし所々雪が固まっていないところがあり、足がズブッと雪の中に潜ったり…

(はた)  我家にも母の実家にも機(はた、布を織る道具)がありました。我家の機は蔵の片隅に放置されていましたが、母の実家では母屋の屋根裏部屋に置いてあって、祖母が使っていました。どんな布を織っていたのか憶えていませんが、物不足の時代ですので、普段着にする布を織っていたのだと思います。当時は我家でも麻を栽培し、麻糸を作ったりしましたし、適地とは思えないですが、綿を栽培している家もありました。毛糸を得るため綿羊を飼ったりもしました。

医者  我家から南に10数分。こちらも引揚者だったと思いますが、民家を借りて畳敷きの和室で診療所を開業していました。今高木にある藤巻胃腸科内科クリニックがその後裔だと思います。

お寺  我家から東に10分。円通山歓喜寺、昔から島にあるお寺です。私が子供の頃はお寺の前庭の一角が焼き場になっていました。具体像は思い浮かばないのですが、非常に簡易な設備だったという印象が残っています。当時は火葬にせず、土葬も行われていました。

神社  大きい神社として熊野神社と神明社があり、元朝詣り(初詣)や秋祭は部落の主要行事として今に続いています。

発電所  更木との境近く、北上山地西麓に有り、発電能力 3,000kw。山を越えた東側の猿ヶ石川から取水し、トンネルで発電所まで送水されています。現在も稼働していますが、発電された電力を直接島で消費しているわけではありません。

  半ズボンと紙の靴
私が島小学校の低学年生だった頃、何か改まった行事があると、紺の上下の洋服に靴という格好をさせられました。ズボンは半ズボン。同級生のたいがいは長ズボンに下駄、着物を着た子もいたはずです。
服はお下がりだったと思いますが、私には兄がいませんので、叔父が着たものだったのでしょう。靴の方はといえば、主材料は厚手の紙!、甲はエナメルか何かが塗ってありました。底は何かで補強してあったと思いますが、憶えていません。

  音
瀬音  私が子供のころの寝室は二階でした。二階で寝ていると、一階では聞こえない川の瀬音が間近に聞こえることがありました。風向きのせいなのか、湿度の関係なのか…
我家の西5~600mのところを北上川が流れているのですが、そこから1キロばかり下ったところに浅瀬があって、そこの音が聞こえたのだと思います。
60年以上前のこんな何でもないことが頭に残っています。
郭公(かっこう)  こちらも二階からよく聞こえたのですが、今頃の季節になると郭公の鳴き声が聞こえてきて、季節の移り変わりを感じたものです。当時はあちこちから聞こえてきましたが、その後次第に減り、最近ではたまに微かに聞こえてくるだけです。

梟の鳴き声
梟の鳴き声

(ふくろう)  「ノースケノッホー」というのが梟の鳴き声として頭にあるのですが、これが私だけのものか、島で共通に言われていた擬音語かは不明。
我家の近くの木の上で鳴く梟の声をよく聞きました。夜が多かったと思います。姿を見た事はなかったようです。

  部落児童会
今でいう「子供会」のようなもの。島には上、長根、小袋、中道、荒屋敷、二ツ屋、穂貫田、下という小部落があり、それぞれに部落児童会があったのだと思います。私は荒屋敷の部落児童会に属していました。
学校行事としての春の運動会の外に、秋には部落対抗運動会があり、これが部落児童会の大きな行事でしたが、荒屋敷部落児童会には柴箒(しばほうき)作りとつぶ(田螺(たにし))採りというイベントもありました。
柴箒  山に下草や木の葉が生い茂っていない早春のことだったと思いますが、「お爺さんが山に柴刈に」ではなく、子供たちが柴を採りに山に入り、持帰った柴で庭箒を作り、部落の家々に売りに行きました。その売上げで肉などを買い、最後は食事会。メインはカレーライスでした。
つぶ  「つぶ」と呼んでいましたが、共通語では「田螺(たにし)」ということを知ったのは、大分後のこと。こちらは晩秋に稲刈りの終った田圃に採りに行きました。生のまま売ったのか、茹でてむき身にして売ったのか憶えていませんが、こちらも売上げを元手に食事会をやったんだと思います。
つぶを採ったのは荒屋敷の北側、崖を下った先の田圃でした。この辺りをマンケェ(満海)と言ってましたが、中世以前の北上川の河道跡、照井沼のあったところだと知ったのはごく最近の事です。曾ては大粒で味の良いつぶが採れ、名産として有名だったようです。

  堰
我家の北側にある坂を下って少し行くと堰(農業用水路)があります。現在では両岸がコンクリートブロックで補強され、木も生えておらず殺風景ですが、当時の両岸は土手で所々に灌木が生えていました。そして水辺まで降りて行けるところがあり、そこで野菜を洗ったり農機具の後片付けをしたり、また子供たちの水遊びの場でもありました。
凍大根(しみだいこん)  冬寒くなると凍大根を作っていました。切り餅のように切った大根を茹で、藁で編んだものを堰の流水に数日間(?)晒し、その後軒下に吊るして凍結、乾燥させた保存食材です。高野豆腐・凍豆腐の大根版です。我家ではみそ汁の具になっていたのは憶えていますが、その他どんな料理に使ったのか?
(ほたる)  当時は蛍が結構いました。堰の水辺は蛍が多いので、暗くなってから蛍狩りに行ったものです。水辺の木の枝に蛍が密集していると思い、両手で捕まえて見ると、発光性の毛虫だったりして…

(2016.6.12掲)