東歌・防人歌 -犬養孝を聴く-

私は4-50年前に東京から大阪に転勤になり、かの地で2年余りを過ごしました。仕事場は大阪の淀屋橋でしたが、住いは奈良・学園前の公団住宅。
奈良で聴いたせいもあってか、ラジオで放送された犬養孝(注1)が詠い、語る万葉集に夢中になったものです。犬養孝独特の詠唱と語り口が何とも言えませんでした。今改めて聞いてみるとそれ程でもないのですが。

残念ながら万葉集に北東北は出てこないようです。万葉集に現れる最北の地は今の宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(東北本線小牛田駅東方)だとか。
それは東歌(あづまうた)ではなく、大伴家持(おおとものやかもち)の詠ったもので…
 天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる
 陸奥山(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲く
しかも現地で詠われたものではなく、初めての金産出を喜ぶ天皇の詔書を寿(ことほ)いで、越中国守であった大伴家持が任地で詠んだものだと言います。

犬養孝が詠う筑波

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「筑波の歌声」 東国農村のうた
(犬養孝解説・朗唱「万葉の心 -風土とともに-」(S46.12.21 テイチク)より)

 歌 抄
 
筑波嶺(つくはね)に 雪かも降らる 否(いな)をかも
 愛(かな)しき児ろが 布(にの)乾さるかも
            (東歌、巻14-3351)
〔歌意〕筑波山に雪が降ってるのかなあ。いやそうではないのかなあ。かわいいあの娘(こ)が布を乾してるのかなあ。
〔語意〕「筑波嶺」は、茨城県の筑波山。男体女体二峰からなる東国の名山。ここでカガヒ(歌垣)が行なわれ、古代農村生活との関係が深い。『万葉の旅』抄参照。「降らる」は、「降れる」の訛。「否をかも」の「を」は、感動の助詞。「愛(かな)しき児ろ」は、たまらなくかわいいあの娘。「ろ」は愛称の接尾語。「布(にの)」は、原文「尓努」で、ヌノの東国方言。「乾さる」は、「乾せる」の訛。

 小筑波(をつくは)の 繁き木(こ)の間(ま)よ 立つ鳥の
 目ゆか汝(な)を見む さ寝(ね)ざらなくに
            (東歌、巻14-3396)
〔歌意〕筑波山の茂った木の間を通して飛び立つ鳥のように、ちらっとお前さんを、目だけで見ていなければならないのかよ。寝ない仲でもないのに、さ。
〔語意〕「小筑波(をつくは)」の「小」は、愛称の接頭語。「木(こ)の間(ま)よ」は、木の間から、木の間を通して。「立つ鳥の」は、ここまで序詞。「目ゆ」は、目だけで、「ゆ」は「より」の意。

 多摩川に さらす手作(てづくり) さらさらに
 何(なに)ぞこの児(こ)の ここだ愛(かな)しき
            (東歌、巻14-3373)
〔歌意〕多摩川でさらす手作りの布のように、さらさらに、どうしてこの娘が、たまらなくかわいいのかなあ。
〔語意〕「多摩川」は、こんにち東京都にある多摩川。「手作(てづくり)」は、手織の布。「さらさらに」は、さらにさらに。二句目までは同音くりかえしのための序。「ここだ」は、甚しく。

 甲斐が嶺(ね)に 白きは雪かや いなをさの
 甲斐の褻衣(けごろも)や 晒(さら)す手作(てづくり)晒す手作
            (風俗歌)
〔歌意〕甲斐の山に白いのは雪かな。いやいや(?)、甲斐のふだん着だよ。さらす手づくりだよ、さらす手づくりだよ。
〔語意〕「いなをさの」は、万葉の「いなをかも」が、訛って後代に伝えられたものだろう。したがってここでは意味がはっきりしなくなっている。音調的効果にかわっているのかもしれない。「褻衣(けごろも)」は、ふだん着。「風俗(ふぞく)歌」は、平安時代の地方民謡。

 筑波嶺(つくはね)の さ百合(ゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも
 愛(かな)しけ妹ぞ 晝も愛(かな)しけ

 霰(あられ)(ふ)り 鹿島(かしま)の神を 祈りつつ
 皇御軍(すめらみくさ)に われは来にしを
 右の二首は、那賀(なか)郡の上丁(かみつよぼろ)大舎人部(おほとねりべの)千文(ちふみ)
            (防人歌、巻20-4369、4370)
〔歌意〕筑波山の百合の花のように、夜の寝床でもかわいかったあの子(妻)は、晝もかわいくてかわいくてたまらない。

鹿島の神を祈りながら、天皇の軍隊として、私はやって来たのだ。
〔語意〕「さ百合(ゆる)」は、原文「佐由流」、サユリの訛。「夜床(ゆとこ)」は、原文「由等許」、ヨトコの訛。二句目までは、音調の上からは、ユの音を引きおこす序になっているが、たんに序にとどまらない。
「愛(かな)しけ」は、カナシキの訛。いとしい、かわいい。
「霰降(あられふ)り」は、霰が降ってかしましい意から「鹿島」にかける枕詞。
「鹿島の神」は、茨城県鹿島郡鹿島町の鹿島神宮。武甕槌(たけみかつち)の神をまつる。
「皇御軍(すめらみくさ)」は、天皇の軍隊、ミクサはミイクサ。「吾(われ)は来(き)にしを」の「を」は、深い感動の助詞。
「那賀(なかの)郡」は、茨城県那珂郡。「上丁 (かみつよぼろ)」は、防人の身分、諸国からたてまつる壮丁、正丁のことであろう。続日本紀に「二十ニ已上成二正丁一」と見える。「大舎人部千文」は、伝未詳。一人で、二首の作をとどめるところが三箇所ある。この作者は、次の歌の作者とともに、天平勝宝7年(755)のときの防人。

 橘の 下吹く風の 香(か)ぐはしき
 筑波の山を 恋ひずあらめかも
 右の一首は、助丁(すけのよぼろ)占部広方(うらべのひろかた)                                    (防人歌、巻20-4371)
〔歌意〕橘の花の下を吹く風の香ぐわしい筑波の山を、恋いこがれないでいられようか。
〔語意〕「橘」は、地名説もあるが、実景であろう。いまも山麓は筑波蜜柑を産する。「めか」は、「めや」とあるのが普通だが、東歌・防人歌に見える用法。「めや」と同じく反語。
「助丁(すけのよぼろ)」は、上丁を助けるものであろう。「占部廣方」は、伝未詳。

[補足]
(注1) 犬養孝(いぬかい たかし):1907年 東京に生れる、1932年 東京大学文学部卒業
大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授、文学博士、文化功労者
1988年 死去
《著書》『万葉の風土』(正・続・続々)、『万葉の旅』(全3巻)、『万葉の心』(上・下、カセット・レコード・CD)、他

(2016.7.27掲)