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満州から胡四王山へ!?

[プロローグ] 6-7年前、生前の父との会話 :-
父 「お前が中学生の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
私 「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。大体「矢沢」は知っていても、「幸田」なんて知らなかったのでは。ところで何故?」
父 「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったんだ。」
私 「終戦後の満蒙開拓団の引揚げのことかな?」
父 「いや違う。ずっと大昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。ちょっと待って…この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
私 「…そんなことは書いてないなあ。平泉の藤原氏が源頼朝に滅ばされたとき、その一族の一人が幸田に落ちのびて来たとあるけど…この冊子の前の記事によれば、満洲の原住民というのはツングース系民族のことで、飛鳥時代より前に日本に渡来したという説があるらしい。幸田ではなく、胡四王山(1)の方の話だね。二つの記事を混同したのでは…」
父 「越(こし)国…新潟の方が本拠だったのか。どうりで田中角栄はどこか普通の日本人とは違って、大陸的だったなあ。」

(「ふるさとの由来」(「季刊タウンやさわ第29号」 矢沢観光開発協議会 2009)より(筆者:内舘勝人)):

…花巻市矢沢地区は、北上川の左岸にある地域で、三郎堤、胡四王山、大森山があり、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、花巻市博物館、東北新幹線新花巻駅などの建物もあり、文化・観光の拠点地域となっている。…

○古志(こし)族とは
花巻市史に古志族について次のような記述がある。
「藤原相之助氏(2)は「古四王神考」(東亜古俗考(3))に於て、我々の祖先は祖神を祭ってそれを中心として集落をつくり都邑を形成していくものであるということを前提として、(胡四王神社は)古四族-満州附近に住んでいたツングース系民族-の祖神たる高志(越)王神であるとし、この神社のあるところ古志族の分布した名残の場所と考えた。(古四王神社は岩手、宮城、秋田、山形、新潟などにわたって約40位あるようである。)」(注4)

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また、古志族についての文献がホームページにあったので紹介する。
「(略)日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。
この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえずれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。
「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。」
(出典:ホームページ(「満洲族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁 」)「渡海して日本に建国した北方ツングース族-粛慎、靺鞨、狄」)

[補足]
mt_koshioh_world(1) 胡四王山:胡四王山についての一般的・公式(?)な説明の例として、「第7回企画展 胡四王山の世界」(H20.7.24 花巻市博物館)から「ごあいさつ」と「プロローグ」の一部を転載します。

《…胡四王山は、矢沢地区の南西部に位置する低起伏の丘陵です。山頂からは、緩やかに蛇行しながら南流する北上川を始め周囲の平野部が一望でき、周辺の開発が進んだ今日でも、心和む里山風景の趣を残しています。
山の基盤は、新第三紀中新世の稲瀬火山岩からなり、北斜面には露頭や崩落した巨岩・奇岩が見られます。山腹一帯に生息する動植物も豊富で、特にもカタクリの群落やヒメギフチョウの繁殖地としても知られています。
頂上には、坂上田村麻呂伝説を持つ胡四王神社が北(北東)に面して鎮座し、神仏像や伽藍彫刻、奉納額や神楽などの貴重な文化財が多く伝えられています。また、宮沢賢治は「経埋ムベキ山」の一つに挙げていて、周辺地域にとって宗教性格が強い場所でもあります。
さらに、一帯は平安時代の集落跡と中世の館跡とが複合する遺跡でもあり、昭和32年に東京大学東洋文化研究所により、花巻における考古学調査の嚆矢となる発掘調査が行われました。
このように胡四王山の周辺は、地域の歴史や文化を研究する上でも重要な地区であります。…

…胡四王山の「こしおう」は、不思議なひびきを持った地名です。
秋田、山形、新潟の北陸から出羽地方を中心に「古四王」「古志王」「巨子王」「越王」「小四王」「小姓」等の字が当てられ、「コシオウ」「コショウ」等と呼ばれる神社やお堂が数多く分布しています。これらの神社やお堂に共通している特徴は、社殿のほとんどが北を向いて建てられていることです。
この不思議な名前(地名)と北向きの社殿の特徴を持つコシオウ神社は、早くから多くの研究者に注目され、様々な見解が発表されてきました。
古四王神社の本社とされる秋田市古四王神社の社伝は、『日本書紀』や『古事記』に登場し、四道将軍の一人として北陸を平定した大彦命(おおひこのみこと)(大毘古命)が創始し、斉明天皇4年(658)に北陸地方から大水軍を率いて齶田浦(あぎたのうら)に至った阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、阿倍一族の祖先神として大彦命を合祀し「越王(古四王)」と称して祀ったと伝えています。
また、古代東北地方の住民である「蝦夷(えみし)」に対する政策及び北方の鎮護(ちんご)を目的とした、四天王や毘沙門天との結び付きを指摘する研究者もあります。さらに、当胡四王神社と同様に、古代東北に関わりが深い、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の伝説を持つ神社も少なからず存在します。
いずれの場合も、蝦夷とこれを体制に組み込もうとする大和朝廷との関連が見え隠れします。古四王神社は、東北地方の古代史の大きなうねりの中に成立したことだけは確かなようです。しかしこの背景でどのような動きがあったのか、明確な答えは見出されていません。…》

なお、この図録の「エピローグ」は次のように締めくくっています。

《…古くから指摘されてきた「胡四王」の名前の由来や意味等については、十分検証できるところまでは至りませんでした。今後も胡四王山の重要性を追求していくために、いくつかの間題提起をしてエピローグとしたいと思います。
まず胡四王神社が、薬師如来を本尊とすることの意味を更に追求する必要があると思われます。他の胡四王神社にも薬師如来が祀られているということも重要ですが、北上川東岸に分布する薬師如来の意味も併せて考えていく必要があります。
貞観(じょうかん)4年(862)の銘のある奥州市黒石寺の薬師如来をはじめとして、東北地方北部の薬師如来は、蝦夷(えみし)政策との関連で論じられてもおります。また、黒石寺も胡四王神社も蘇民祭が行われており、薬師如来の真言(しんごん)は、「蘇民将来(そみんしょうらい)」と似た性質を持つと指摘する人もいます。
また、胡四王神社と北上の黒岩白山神社は、地形的によく似ていると指摘されています。白山神社の麓にある白山廃寺には、巨大な礎石が残されております。そこには薬師如来の丈六仏(じょうろくぶつ)が安置されていたともいわれていますし、平泉文化との関連も指摘されています。
一方、胡四王山の麓にも白山神社があります。白山信仰は、北陸を起源とする山の信仰から始まるとされていますが、鍛冶工人などの神として祀られていたこともあり、オシラサマと関連するともいわれ、さまざまな側面を見せる信仰です。関山中尊寺の鎮守は白山社でありますし、平泉町の中心部である志羅山(しらやま)という地名も白山信仰に関ると指摘する人もいます。
「胡四王」は、「越王(こしおう)」と「四天王」とを併せた意味を持つと考えられますが、北向きの社殿を持つことや、毘沙門天との関連、東北地方北部での薬師如来の分布、さらには、「白山信仰」、「平泉文化」等々いくつかの視点で「胡四王山」を捉え直す必要があると考えられます。》

(2) 藤原相之助(ふじわら あいのすけ):1867年12月15日、秋田県仙北郡生保内村相内端刑部屋敷に生まれる。1887年宮城医学校中退,東北新聞社入社。政治記者として活躍し「非想」と号す。『西に福本日南あり,東に藤原非想あり』と称された。1908年より1年間東北新聞に『仙台戊辰史』を連載。1913年河北新報社主筆。1936年喉頭癌で入院手術。1948年死去。

相之助の孫・作弥の著書に次のように記されています。
藤原三代  ”戦争の世紀”の三代
維新前夜の慶応3年(1867年)に生を享けた祖父・藤原相之助(非想庵〉は幼少の頃から漢学に秀でていたが、西洋近代医学を学ぶべく、秋田県仙北郡田沢湖町生保内から仙台に出て、同地に創設された宮城医学校(現・東北大医学部}に入学した。しかし、学費が続かず、文章の素養をいかして新聞記者に。そして歴史学者に。
20世紀は”戦争の世紀”といわれるが、祖父・相之助と戦争の係わりは〈戊辰戦争〉。倒幕運動-版籍奉還-明治新政府の樹立の動きの中で主導権を握ったのは薩摩・長州だが、相之助は明治44年に刊行した『仙台戊辰史』の中で、薩長土肥が藩閥政治を正当化するために奥州諸藩を”賊軍”に仕立て、挑発行為に出たのが東北戊辰戦争であることを検証した。
「自河以北一山百文」と蔑視されていた東北人は大いに溜飲を下げたが、この本が出版されると対抗して、末松謙澄が『防長回天史』を書くなど全国各地で新たな戊辰史見直しの論議が捲き起こった。
祖父は内藤湖南と共に『東北の二大健筆』と並び称され、柳田国男、大槻文彦、徳富蘇峰らと交遊があった。『仙台戊辰史』のほか『日本先住民族史』『東亜古俗史』『奥州古史考證』『藤原三代・平泉情史』などの著書がある。

明治32年(1899年)生まれの父・勉も祖父の薫陶を受けて民俗学研究の道に進んだ。駒沢大学で金澤庄二郎博士に言語学を学んだ父は「ウラル・アルタイ語のシャーマニズム」という研究テーマに関心を持ち、旧制中学の教師をしながら、恐山や出羽三山のイタコ(巫女)や山伏の呪文・教典など日本のシャーマン言語の研究に携わった。そして、それに一段落がつくとアルタイ語系民族の言語を話す朝鮮半島や内モンゴルにまでフィールド・ワークの足を伸ばした。…》

(3) 東亜古俗考:藤原相之助著、昭和18年(1943) 春陽堂書店発行
・本書の紹介・要約が、「東北民俗学からアジア民俗学へ:藤原相之助論(1)」にあります。全文は国立国会図書館デジタルコレクションから読むことができます。
・本書の中で「コシオウ」について述べているのは、「美人国祖神記」と「古四王神考」の2節です。

(注4) 胡四王神社:「花巻市史」には胡四王神社について、藤原相之助の「高志(越)王神」説の他に、及川儀右衛門の「四天王」説や小原無学の「四天王+古志族」説も紹介しています。

(2016.8.5掲)

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