異説「日高見国」拾い読み

(佐治芳彦(注7)著「『東日流(つがる)外三郡(そとさんぐん)誌』の原風景」(1987 新人物往来社)より)

日高見国の登場

「東夷の中、日高見国あり、其の国人、男女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇悍(いさみたけ)し。是をすべて蝦夷と日(い)う。亦(また)土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」
(『日本書紀』景行天皇二十七年二月紀武内宿禰奏言)

これが、いわゆる正史に日高見国(注1)の名が出てくる最初のケースである。

日高見国――髪を椎(つち)のように結(ゆ)い、身体に入墨をした剽悍(ひょうかん)な人々が住む広大で肥沃な国――これこそ、ある意味では、『東日流外三郡誌』(注2)の原風景そのものである。いや、記紀(正史)によって汚染される以前の日本列島史の風景といってよいかもしれない。
本章では、この日高見国について、いろいろ考えてみたいと思う。…

…日高見国の位置を推定するとなると、東国、とくに常陸(ひたち)(ひだみち、日高見国の入り口、あるいはもと日高見国)から以北、すなわち陸奥国ということになる。さらに具体的には、北上川流域の平野ということになる。
すなわち、「北関東から東北にかけて、日高見国という呼称が、律令統国制成立前の古い国呼称として存在していたことは、ほぼ疑いないところだろう」(高橋富雄『古代蝦夷』学生社)という結論になる。

だが、問題が一つ残っている。それは、高橋富雄氏もふれておられるが、例の大祓祝詞(おおはらえのりと)(注3)の「大倭日高見国」である。これを、大倭+日高見国と解するか、あるいは大倭=日高見国と解するか、が問題なのだ。次節で改めて、この問題について考えてみたい。

大倭日高見国の謎
大倭日高見国。これを日本列島の美称と解したのは、江戸時代の国学者であり歌人でもあった賀茂真淵(かものまぶち)であった。彼は『祝詞考』(1768)で日高見之国とは、夜万等(やまと)は、四方の真秀(まほ)なるをほめて、天つ日の、空の真秀に高くあるほどにたとえいえるなり」と述べている。

賀茂真淵の弟子で、国学の大成者である本居宣長(もとおりのりなが)は、師の説を敷衍(ふえん)して、「日高見の国とは、山遠くして打はれて、平らに広き地をいふ也」としている(『大祓祝詞後釈』)。
宣長は、その師の「天つ日の空の真秀に高くある国」と、『日本書紀』の「土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し」という武内宿禰の「奏言」とを踏まえて、日高見国のイメージを、より具体化したのではなかったか。

すなわち、太陽が空にさんさんと輝く豊かな原始日本列島のイメージ。二人のこのイメージにはふしぎに征服・被征服といった殺伐としたかげがない。真淵や宣長は、日高見国を、景行天皇以前からの日本列島の美称であると詩的に直観していたのだろうか。

いずれにしても、この二人が、ともに『日本書紀』の日高見観、すなわち、野蛮な人間が住んでいるが肥沃な広い原野だから「撃ちてとるべし」という侵略の対象としての日高見観を完全に無視している点が注目される。すなわち、真淵は『日本書紀』の景行天皇紀の日高見国や、さらに延喜式神名式(注4)の日高見神社についても、「こは其(そ)の国の秀(ほ)のよしと見ゆ」と述べているだけである。彼(そしてその愛弟子)にとって、日高見国は、あくまで「天つ日の空に真秀に高き国」であったのである。…

一方、現代の蝦夷史研究の大家である高橋富雄博士は、かつての喜田貞吉博士と同じく、大倭日高見国について、大倭=日高見国とする真淵や宣長の説とは反対に、大倭(大和-畿内-西日本)+日高見国という立場をとっている。そして、日高見国を「エミシの国→あずまの国→エビスの国→みちのくの国と展開した東国の汎称」としてとらえる。

ちなみに喜田貞吉は「大倭日高見国」について次のような意見をもっていた。

  • 大倭=日高見国であるという解釈(真淵・宣長ら)も一つの解釈である。
  • 大倭と日高見国は、あくまでも別個な国であり、畿内の大和と蝦夷の本国である日高見の双方を「安国」と平らげて統治するのが天皇の使命であるとする解釈も可能である。
  • 大倭=日高見国とする場合でも、もとは日高見国=蝦夷国だったが、それを平定して、いまの大和国(大倭)を「安国」と定めたという解釈も可能である。

高橋氏は、この喜田の解釈を「歴史的な解釈」とし、その意義を高く評価している。ちなみに、喜田の解釈は、(2)を本命とするものである。…

ここでは(高橋氏の)「もう一つの日本」である日高見国が、それ自体「一つの中央」の自覚に立つものであること、また、この「中央意識」は「民族中心主義(エスノセントリズム)」を意味していたこと、いいかえれば、大和国家に対して「もう一つの日本」の独立を主張するものであったことを氏が指摘している点を強調するにとどめる。
ちなみに、氏の日高見国の「一つの中央」という「自覚」なるものは、文献的にも、ある程度裏付けられている。…

縄文にさかのぼる日高見
古代の「関東」と関
…高橋(富雄)氏のいう「東国」とは、前節で紹介したように近畿以東の地域であり、次いで中部地方の東半(フォッサ・マグナを、だいたいの境界)以東、さらに坂東(現在の関東地方)をさす歴史的呼称である。
次に、その「東国全体」が「第一次日高見国」だという。とすれば、第一次日高見国は近畿以東の広大な地域だったということになる。だが、その日高見国も畿内勢力に押され、次第に東方に移動し、中部地方の東半、つまり、フォッサ・マグナ以東の地域となる。これが、いうなれば第二次日高見国となろうか。

そして、この第二次日高見国は、さらに東方に押され、いわゆる坂東(現・関東地方)以東の地域となる。これが第三次日高見国であろう。しかし、それも常陸国の信太郡と、その以北に移り、第四次日高見国となる。これが、さらに日高路(ひだかぢ)(常陸(ひたち))として第五次日高見国の入り口とされる。この第五次日高見国は、白河関以北の地ということになろう。
だが、日高見国は、さらに北走し、「みちのくエビス国」にいたって「固有日高見国」となるわけだ。その固有日高見国(第六次日高見国)は、北上川流域に比定されている。

こうしてみると、日高見国の移動は、吉田東伍のことばではないが、まさに「蝦夷の北走」そのものということになる。…

だが、次のようにも考えられないだろうか?
すなわち、高橋モデルによれば、日高見国の東方移動は畿内以東から東北地方までであり、したがって、歴史をさかのぼればさかのぼるほど、日高見国の領域は広大となる。この論理から鈴鹿(すずか)・不破(ふわ)・愛発(あらち)の三関をとり払い、いわゆる天孫民族なるものが渡来する以前は、日本列島全体が日高見国であったといえないであろうか?
すなわち、高橋モデルは畿内国家成立以後の日高見国である。だが、日高見国が、畿内国家成立以前には存在していなかったと、はたしていえるだろうか?

賀茂真淵が日高見国を日本の古代の美称の一つと見たことは、畿内国家成立以前から、日高見国が存在していたことに少しも疑問をもたなかったからではなかったか?
また、賀茂真淵も本居宣長も、すでに述べたように、『日本書紀』的な日高見観を完全に無視して、日高見国をイメージした。そのイメージは、いささか抽象的・観念的であったが、その根底にあったのは、日高見国=日本列島の古代の美称、すなわち、「天つ日の空に真秀に高き国」という日本列島讃歌であった。そして、その讃歌は、完全な『日本書紀』不信の叫びでもあった。

彼らの『日本書紀』不信は、宣長の書紀批評にあるように、この史書が「漢意」でもって書かれているからだと、ふつう解されている。だが、その漢意とは、漢文で書かれたという形式的なものではなく、文字通り、中国の史書を模倣して体裁を整えるために、歴史を曲筆し過ぎたことへの批判であった。したがって彼らは、日高見国についても、『日本書紀』の記述は当初から信用しなかった。というよりも、それに(漢意に)拘束されない自由さをもっていたのではなかったか。…

日高見の語源 (1)  (…略…)

日高見の語源 (2)  (…略…)

日高見とヒ一族
「日高見国」についての松岡(静雄)説が含むいくつかの問題について考えてみたい。

  • ヒタ(ヒダ)と同語のヒラだが、古語の接尾語のラは「複数を示す。尊敬を含まず、人を見下げたり、卑下したりする感じで使うことが多い」(『岩波古語辞典』)。したがってヒタ(ヒラ)とはヒ族を示す。
  • …このヒ一族が、後年の蝦夷またはアイヌと称される人々であるという点。ヒ一族がヒナ→田舎(ひな)→夷(えびす)ということから蝦夷説はうなずけるが、それからアイヌ説となると、これはまだ決着がつかない問題である。…
  • キ一族(ヒ一族より後来の種族)について。松岡によれば、キ一族とは紀の国をはじめ『和名紗』にある山城国の紀伊郡紀伊郷、肥前国の基肄(きい)郡木伊郷、あるいは…多くの地名に分布していた渡来種族だという。…出雲族と同系ではないかと松岡は推理している。
    さらに、新羅(志良貴(しらき))、契丹(キタ)もキの国であるらしいから、大陸にキという種族がおり、それが朝鮮半島や日本に移動したのではないかとも彼は考えていたのである。

ただ、ここでは先住民のヒ一族を、東北地方に追い払い、天孫民族が渡来するまで日本列島を支配していた出雲族が、このキ一族系の種族だったという点に留意されたい。
とはいっても、このヒ一族は一方において加害者でもあったらしいのである。というのも、ヒ一族は、キ(紀)族やアマ(海人)族よりも先住者ではあったが、彼らよりも先住のコシ(高志)族(注5)がいたからである。

  • ヒ族の名称の「ヒ」について。ヒといえば、まず、「火」を連想する。…またその「ヒ(火)」とは別に「霊(ヒ)」というのもある。「霊(ヒ)」は「日(ヒ)」と同根で、原始的霊格の一つで、太陽信仰と関連が深いものとされている。とすれば、日高見のイメージにもっともふさわしい「ヒ」であるかもしれない。すなわち、太陽(ヒ)(の霊格)があまねく照らす恵まれたる国としての日高見国であり、それは氷河時代でさえ、気候温暖だった日本列島についての先縄文以来のイメージである。「日(ひ)の本(もと)」は、このイメージの発展ではなかろうか……という推論に私たちを導くものであるから。

日高の訓(よ)  (…略…)

古事記の「日高日子」と日本書紀の「彦彦」
…『日本書紀』が「日高」を「彦」としたのは、当時、敵対状態にあった蝦夷国家である日高見を意識したものであり、…
以上、「日高日子」→「彦彦」について述べてきたが、ここで私が主張したかったことは、万世一系否定論などではなく(これは一つの副産物でしかない)、日高見国が先住民の国であったという事実である。

また、日高系の地名が東国だけでなく、西は九州にまで多く分布していることから、九州もかつては日高見国であり、そこへの侵入者も支配のテクニックとして、自分が日高見国の正統な支配者であるというポーズをとらざるをえなかったこと――それが日向三代(注6)の支配者の名に「日高」が冠された理由だったということである。

[補足]
(注1) 日高見国:「北上川 -日高見とは何か-
もご覧下さい。
(注2) 東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし):古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされていた、いわゆる和田家文書を代表する文献。ただし、学界では偽作説が確実視されており、単に偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いと言われている。(Wikipediaより)
(3) 大祓祝詞:「延喜式」(927年成立)の祝詞の一節に「…かく依さしまつりし四方(よも)の国中に、大倭(おおやまと)日高見の国を、安国(やすくに)と定めまつりて、…」とある。
(4) 延喜式神名式:延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。(Wikipediaより)
(5) コシ(高志):「満州から胡四王山へ!?」もご覧ください。
(6) 日向三代の支配者:天皇家の祖神とされる「日向三代」の神々で、『古事記』と『日本書紀』とでは、神名の表記が若干異なる。
(一) 『古事記』:天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつ・・ひこほのににぎのみこと)
 『日本書紀』:天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
(二) 『古事記』:天津日高日子穂穂手見命(あまつ・・ひこほほでみのみこと)
 『日本書紀』:彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
(三) 『古事記』:天津日高日子波限建鵜草不合命(あまつ・・ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
 『日本書紀』:彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなきさたけうがやふきあえずのみこと)
(7) 佐治芳彦(さじ よしひこ):福島県会津若松市に生れる。1954年東北大学文学部史学科(国史)卒業。編集者を経て、小学館、講談社の百科事典プロジェクトチームに参加、現在古代史家として活躍中。(以上、1987年の記録)
・ 最新作は、「新・世界最終戦争[1-5]」(2009 ぶんか社文庫)
・ 「古史古伝」という用語は、1980年代以降佐治芳彦が言い出したという。

 (2016.12.31掲/17.1.3改)

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