日本人メキシコ移住120周年: 亮次郎とメキシコを想う

10月8日に東十二丁目の高橋市議のお宅で「照井亮次郎(1)を語る会」がありました。集まったのは高橋氏の外に東京から御出での瀬川氏夫妻、仙台から三浦氏、高木の佐藤氏、そして私の計6名。

瀬川氏がこの集まりの音頭取り、奥様は亮次郎のお孫さん(亮次郎の娘・アウロラ暁子の娘)。三浦氏は亮次郎達が開設したアウロラ小学校で教師をしていた阿保徳哉・良夫妻のお孫さん。高橋氏は亮次郎と縁の深い小田島柳子が嫁いだことのある高橋家の当主。佐藤氏は園芸会社の会長で、間もなく刊行される「矢沢郷土史」の編集委員長。私は旧友S君を通して瀬川氏から誘われました。

瀬川氏によればこの集まりの趣旨は、①亮次郎の人間形成に、生まれ育った東十二丁目の風土がどう影響したか、また②亮次郎を今後もっと世に知らしめるにはどうしたら良いか、の二点について意見交換、情報収集をしたいということであったようです。

亮次郎と郷土の風土
東十二丁目で育った私としては一言二言何か発言せねばと思ったのですが、「東十二丁目の風土」?…特には何も思い浮かびませんでした。

明治時代に東十二丁目から飛び出して活躍した人として、頭に浮んだ古川総本家当主・古川忠直と大工の棟梁・藤原金次郎を簡単に紹介はしてみたものの、これらの人達の行動にこの地の風土が大きく影響したとは私には考え難いです。

亮次郎について言えば、代々御殿医の家系だったという「医者殿」照井家の血と、ブラジルに同行した親友二人を得た宮城農学校の校風の方が、彼の海外雄飛に大きく影響したのではないでしょうか。

亮次郎を世に知らしめるには
これも私にとっては難問です。私の亮次郎に対する関心は全く個人的なもの。同郷の先人にして偉人である亮次郎の生きざまを知りたいと思ったまでです。

世に知らしめる方策を考えるとなると、郷土史・日本史上の彼の評価、日墨関係における位置付けなども知らなければならないでしょうが、私にはそのような知見が不足しています。
亮次郎に関する私のメインテキストは「シエラマドレの熱風」(注2)ですが、他の文献も読んでみなければ…ということで、まず「メキシコ榎本殖民」(注3)を読み直しています。

メヒコの心に生きた移民たち -日本人メキシコ移住120周年記念企画展示-
冒頭に述べた集まりの席で、三浦氏からJICA横浜で開催中のこの企画展示のパンフレットを頂き、早速見学してきました。

パンフレット
パンフレット (画像をクリックして、全体を拡大表示できます)
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展示資料リスト (画像をクリックして、全体を拡大表示できます)


思いのほかこじんまりした展示でしたが、その中で特に私が心を惹かれたのが亮次郎自作の木製トランク。6才の長女・アウロラ暁子がメキシコから日本へ帰国(来日?)する際に持参したものとのこと。シンプルながら丁寧な造りのトランクに感無量。
アウロラ暁子は母・ロムアルダと死別して半年後に、父と別れての帰国、大正5年(1916)、亮次郎42才の時でした。

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[補足]
(注1) 照井亮次郎:亮次郎についてはこのブログで何度か取り上げましたが、こちら↓にその全体をまとめてあります。

(右クリックで、全体をダウンロードできます(8MB))
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(注2)シエラマドレの熱風(かぜ) =日・墨の虹を架けた照井亮次郎の生涯=」:川路賢一郎著、2003.3.24 パスコジャパン発行
(注3)メキシコ榎本殖民」:上野 久著、中公新書 1180、1994.4.25発行

 (2017.10.31掲)

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