猿ヶ石川を遡る -吾輩は鮭である –

(迫舘暇人著「猿ヶ石川遡り記」(2014.8 非売品 花巻市東和図書館蔵)より)

…猿ヶ石川は、北上高地の早池峰連峰薬師岳(1645m)の南斜面(猿ヶ石沢)に源を発して南流し、遠野市街地で西に流路を替えて宮守、東和、北上(臥牛)、花巻の矢沢を流れて北上川に注ぐ延長73㎞の一級河川である。
猿ヶ石とは、源流に”猿だろうか、石であろうか”と見える石が有って、その間から流れ出ているから(民話)とか、アイヌ語に起因する説が有るとされる。中世の頃(13~16世紀)は物資輸送の川舟が往来した事が伝わっている。
又、水が豊富な川で鮭も遡る等淡水魚の宝庫として猿ヶ石川の名が知られ、特にも鮎は南部の殿様への献上品であったそうだ。 続きを読む 猿ヶ石川を遡る -吾輩は鮭である –

高木用水・開田の記憶 – 新聞報道と記念碑から –

[岩手日報 大正四年五月十六日]
〇高木耕地整理通水式
稗貫郡矢沢村高木耕地整理組合通水式
は既報の如く昨十五日盛況裡に無事挙
行したり同日午前七時四十分大津知事
柿沼内務部長藤田勧業課長江越技師陣
警部一行は花巻駅に着するや直ちに馬
車を仕立てゝ 続きを読む 高木用水・開田の記憶 – 新聞報道と記念碑から –

箱庄・箱圭 – 高木耕地整理組合史外伝 –

第四代組合長 箱崎庄吉
菓子種(注1)の製造販売で財を築くと共に、公共事業にも力を尽くした実業家に箱崎庄吉がいる。
庄吉は慶応2年(1866) 花巻城下の鍛冶町の佐藤庄兵衛の四男として生まれた。明治18年(1885) 20歳のとき箱崎家の養子となり、同25年苦心の末、箱崎式選(?ママ)菓種機械を発明、菓子種の製造を始めた。
この商売は、大正3年(1914) 同業者を抜いて頭角を現わし、質の面でも価額の面においても他の追髄を許さなかった。 続きを読む 箱庄・箱圭 – 高木耕地整理組合史外伝 –

高木用水 ー蘇る楢山開田計画ー

(矢沢村誌編纂委員会編「矢沢村誌」(S29.3.31 稗貫郡矢沢村発行)より)

高木野福開田の歴史については、往時楢山氏の計画であったが、農民の反抗にあい中止したこと前述の如くである。(注1)
後明治40年10月佐藤松五郎、佐藤善、柳田大三、佐藤伝治、佐藤鶴蔵、滝田金太郎等相謀り、高木野福畑地を耕地整理施行法により之を遂行せんとして、岩手県農会に出願したが、直ちに八重樫技手、長岡技手を派遣され、その測量設計したけれども、未だ其機至らなかったか、数十人の者共夜に乗じて発起人の家に押寄せ、反抗され又中止せねばならなかつた。  続きを読む 高木用水 ー蘇る楢山開田計画ー

更木の水利-明治以降-

(「更木島東部土地改良区の歩み」(2008.7 同土地改良区)(注1)より)

   旧田地区(注2)
江戸時代中頃の当地区のかんがい用水は更木村金栗の平野仁兵衛氏が区民の協力を得て私財を投じ着工から3ヶ年の歳月をかけて元禄14年(1701)に完成した仁兵衛堰によっていた。
仁兵衛堰は猿ヶ石蓑淵(みのふち)から取水し、猿ヶ石川の左岸を高木村妻上まで北流させ、そこから南流し東十二丁目村を通って更木村久田で北上川に放流するまでの延長4,654間(8,461m)の水路で179町…(178ha)(うち東十二丁目村63町…(63ha)、更木村84町…(84ha))の水田を潤していた。 続きを読む 更木の水利-明治以降-

堰を守る

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

用水堰の補修
土と木材によって出来た用水堰は、洪水による箱倉の破壊や、水路に沈積する土砂、或いは土手の破損などで、速急な修復が必要となり、年々の手入の外屡々(しばしば)補修の工事がなされている。それらの記録をまとめたものはないので、全容を知ることは出来ないが、手元にある古文書によって要約して表示すると次の通りである。

宝永6年(1709)、正徳5年(1715) 水門補修… 続きを読む 堰を守る