記憶の中の「島」

  自足の郷
私が育った島(東十二丁目)は、当時正式には稗貫郡矢沢村東十二丁目といい、人口は1,300人(270世帯)程度だったようです。今にして思えば、この部落には生活に必要ないろいろなものが揃っていました。

小学校  島小学校、私の家から歩いて10分。私が島小学校に入学したのは昭和23年(1948)、新制小学校発足の年で、矢沢小学校島分教場から島小学校になった時です。 続きを読む 記憶の中の「島」

島の七家、九家、八家

  島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。

島の七家は大要次のようであったと伝えられている。 続きを読む 島の七家、九家、八家

「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

「東十二丁目」と「島」という地名の由来について、これまで二度取上げました。
  ⇒ 「東十二丁目」と「島」という地名
  ⇒ 「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-
その後これら地名の解明にあまり進展はないのですが、得られた若干の知見を紹介します。 続きを読む 「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

「東十二丁目誌」註解覚書(4) -類書「高木村の歴史」-

「東十二丁目誌」はA5判、390頁、ハードカバーの本格的学術書といった趣の労作です。世に郷土史、地域史の書籍はあまたあると思いますが、その多くは市町村等の公共団体かその関連組織によって刊行されたもので、本書のように全くの個人がこのような著書を出版するのは珍しいのではないでしょうか。
…と思っていたのですが、 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(4) -類書「高木村の歴史」-

押切藤左衛門家のルーツ

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東十二丁目の押切総本家・藤左衛門家、その現当主の母・連津(れつ)さんの自叙伝(注1)に「押切姓のルーツ」と題して次のように記されています:-

現在、私達の住んでいる花巻市東十二丁目地区には「押切」の名字の家は約50戸ほどあって、1戸平均4人とすれば総数200人前後になるだろうと思われます(注2)。釜石市や県内各地にある押切の名字の家は、総(すべ)て私達の系統だと思っていたのですが、 続きを読む 押切藤左衛門家のルーツ

「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-

「東十二丁目誌」に「満海坊」が5ヶ所に出てきます。いずれも島の開拓者として登場するのですが、この開拓はどこをいつ頃に行われたものなのか。そして満海坊とは一体どういう人物だったのか? 拙(つたな)い考証を試みます。

東十二丁目誌には次のように述べられています。
(1) 「第3章 古代」の「村の開拓」の中に、「弘仁元年(810)満海坊なるもの、島邑(むら)開拓記念として熊野神社を草創し、新米を供えて旧九月十五日祭典を行ったと由緒が伝えられている。」とあります。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-