飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-

今回も「新川佐藤家文書」(注1)の中にある文書を見ていきます。この文書は天保の大飢饉(天保3年(1832)~9年)さなかの天保5年正月に「川口町 小屋頭 万兵衛」から「東十二丁目村 御役所、老名(おとな)(注2)衆中」へ出された願書です。

全文は次のとおりです。

小屋頭願上書
(右クリックで拡大表示できます)

全体を要約すると:-

   恐れ乍ら書付を以て願上げる事
・去る天保4年は不作につき、御村方は格別に難渋されました。
・年明け早々より盗賊、強盗、悪党、物貰い、或は倒者が田畑の作物を盗み取り、また諸浪人が他所から数人入り込んでいることは、承知しています。
・又此の度御公儀より、疑わしい者を見かけ次第取り押さえて吟味するように、と厳しく仰せ付けられました。
・私の巡回場所が御村なので、私と手下の者が御村に付添い、昼夜時々刻々怠慢なく見回り、不審な者を見つけ次第尋問し、御用を勤めるつもりであります。
・殊に倒者等があった場合は、私共が早速取片付け、少しも御村にご迷惑をかけないようにします。
・この御村の巡回は、毎日のことでもあり全ての家は廻り兼ねるので、中位以上の家と老名様方へ廻ることとします。なお朝に訪ねたときは朝食、昼時なら昼飯、夕方なら夕飯を提供して頂きたい。
・嵐がひどい時などは旦那様方に御泊め頂きたい。
・去年の不作により我らの家内は如何ともし難く、これまでの御手当では凌ぐことができないので、月々御村の家一軒あたり一合ずつを下さるようお願いしたい。
・右の通りお聞き届け下されば、必ずご奉公します。
・御町方からも月々御救い米を頂戴していますが、家内の人数が多く如何ともし難いので、御村の旦那様方にもお願いする次第です。
・近々の内に御村の老名御一同で相談の上、御願いのとおり御決め下されば、誠に有難く存じます。恐れ乍ら願書を以てお願い申し上げます。  以上
天保5年正月            川口町  小屋頭 万兵衛
東十二丁目村  御役所様、老名御一同様

新川佐藤家文書にはこの文書の原文コピーと石崎先生の解読文が入っています。(以下これを「佐藤文書」と略記) 一方「近世社会経済史料集成 第4巻 飢渇もの(下巻)」(注3)には、ほぼ同じ内容の文書の翻刻文が「小屋頭万兵衛願出候事」と題して集録されています。そしてその解題(注4)に、この文書は多田丑太郎が孫左衛門家から譲受けたものと記されています(注5)。(以下これを「多田文書」と略記)
佐藤文書には万兵衛の印影が認められること、多田文書は「天保五年午年之事」の中の一文書であることから、前者が本書、後者はその写しと考えられます。
多田文書の文末には、この一件の顛末が大略次のように付記されています。

前書のとおり願書があったので、肝入・老名が吟味した結果、中位までの家は粟・稗いずれか1合ずつ、小家は1銭か2銭を出すことにした。手下の与助という者が高木・島村両村を付添い巡回するので、物貰いなども来ない。与助に衣装袷(あわせ)1枚を進呈した。高木では単物(ひとえもの)と股引を進呈したとのこと。天保5年10月頃より例年通りに復した。

■ 願人:川口町 小屋頭 万兵衛
「小屋頭」の「小屋」とは一体何なのか?私に思い当るのは「非人小屋」と「御救小屋」ぐらいのものですが…

① 非人小屋
「江戸時代、幕府や諸藩で設けた非人・乞食・貧民などの収容・授産施設。幕府の非人寄場、加賀藩の非人小屋などが知られる。江戸では浅草、品川などに非人小屋が建てられ、非人頭がその支配にあたった。小屋は掘建て小屋で、天井を張ることは禁じられていた。」 (「ブリタニカ国際大百科事典」より)

② 御救小屋
「救小屋(すくいごや)とは、江戸時代、地震や火災・洪水・飢饉などの天災の際に、被害にあった人々を救助するために、幕府や藩などが立てた公的な救済施設(小屋)のことである。御救小屋(おすくいこや)ともいう。…
江戸市中では治安の維持を目的に町奉行所が管理していた。これら施設では宿泊施設のほか、米の支給や職の斡旋が行なわれた。」 (「Wikipedia」より)

この説明を見ると二者の違いが分かるような気もするのですが…
「飢渇もの」の中の「天保五年午年之事」には次のようにあります。

非人小屋の事
一、盛岡にては先年の御振合いを以て、御立て成られ候。是へ又報恩寺様、御上様と御手当御独持の外にお手伝い成られ候に付、以前とは違い、格別飢渇仕り候者も之無く候由。

花巻同断の事
一、花巻にても御立て成らるべき思召し入りにて、御役人中御見分までこれあり候得共、三町より渇命願出候に付、三町渇命願人七十軒これあり候。右の家内へ一人に付一日一合積り、家内五人の者へは一日五合ずつ下し置かれ候。左候得ば、此の五合の御米へ、山粮等加え候得ば、返って御小屋へ入り候より勝手に罷り成り候由、右の御訳合を以て、非人小屋御控え遊ばされ候由。

こちらの盛岡と花巻の「非人小屋」は前の説明の「② 御救小屋」に近いように思われます。そして花巻には設置されなかったようです。
いずれにしても「非人小屋」の「非人」にあまり囚われない方が良いようです。単に「疲人」のことかもしれません。

また、「花巻城代日誌 第25巻」(注6)にこんな記録がありました。

天保四年十月十四日
瑞光寺坂
瑞興寺坂中に年の頃四十五六歳の男倒れ死に致し候趣(おもむき)、吹張小頭勇作訴え出る。…吟味の上川原小屋の者へ申付け、取片付けさせ候旨…尤も倒者は秋田領の者の由、女房、子供一人これ有るに付き、川原小屋へ一夜逗留致させ、送り返し候由…

この川原小屋は、正しく上記①の意味での「非人小屋」であったように思われます。そして万兵衛はその小屋頭だったのではないでしょうか。またフト思ったのですが、万兵衛一家は「やくざ一家」のようなものだったのではないか…しかし、これらを深掘りしていくと被差別部落民の歴史というようなジャングルに迷い込みそうなので、ここいら辺で止めておきます。

■ 願先:東十二丁目村 御役所様、老名衆中様
この願先が「東十二丁目村 肝入様、老名衆中様」であれば、何の疑問も起きないのですが、「御役所様」とは何なのか?
ググってみると、「○○村御役所」という用例は散見されますが、その意味は?…「村役一同」のことならば「老名衆中様」と付ける必要はないので、「肝入」だけを指す用語なのでしょうか。

東十二丁目誌」(注7)によれば、当時の東十二丁目村の肝入は孫左ェ門でした(天保元年(1830)から8年まで)が、彼について「解題」は次のように記しています。しかしその中に「肝入」の2字がありません。

盛岡藩御代官手廻、御代官宿であり、且つ大百姓の孫左衛門(俗名幸助、弘化元年(1844)10月3日歿、年63)

「御代官手廻」とは何か? 御代官手廻だったから「御役所」なのか?

[補足]
(注1) 新川佐藤家文書:⇨「「東十二丁目誌」註解覚書:北上川新川に苦しむ」の[補足]参照

(注2) 村肝入役と老名役:近世の村の支配として、村肝入(きもいり)役、書留(かきとめ)役、老名(おとな)役があり、郷村の三役といわれた。然し書留役は村肝入が兼ねたようで、当村にはその名は出てこない。…
東十二丁目の場合、村肝入の名が出ているのは天和2年(1682)が始めで、…村の行政上の責任者であることは勿論で、…
老名は、肝入の補佐役で、重要事項についての協議に参加し、いわば助役と村会議員を兼ねたようなものであり、人数は4、5名の時もあり、多い時は7、8名で一定しておらず、… (「東十二丁目誌」より)

(注3) 「近世社会経済史料集成 第5飢渇もの 下巻:高橋梵仙編著、S52.2.28 大東文化大学東洋研究所発行
(注4) 「解題」:高橋梵仙編著「近世社会経済史料集成 第4巻 飢渇もの 上巻」(S52.2.28 大東文化大学東洋研究所発行) 所収

(注5) 多田家文書:石崎先生が昭和5-60年代に調査して纏められたと思われる「東十二丁目古文書目録」には、24件の多田家文書が載っています。

(注6) 花巻市史・資料編 (花巻城代日誌・七 第25巻~第26巻):H1.3.25 花巻市教育委員会発行
(注7) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H.2.28 同人発行

(2018.7.14掲 / 7.26改)

「飢饉と非人小屋 -天保5年 東十二丁目村の一件-」への1件のフィードバック

  1. 「川原小屋」の部分を一部書替えました。

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