1. 江戸川の肖像:人工的に造られた大河
江戸川は、関宿(千葉県野田市)で利根川から分かれ、東京湾へと注ぐ全長約60kmの河川です。しかし、その姿は自然が作ったものではなく、徳川幕府による「利根川の東遷」という巨大プロジェクトの産物です。
かつて「太日川(ふとひがわ)」と呼ばれた旧流路を改修し、江戸を水害から守る「放水路」として、また東北・北関東と江戸を結ぶ「物流の幹線(舟運)」として整備されました。この歴史的背景が、後の「渡し」のあり方に大きく影響を与えることになります。
2. なぜ橋は架けられなかったのか
明治時代以前、江戸川にはほとんど橋が架けられませんでした。それには明確な2つの理由があります。
・軍事・防衛上の理由:
幕府は江戸への敵襲を防ぐため、主要河川への架橋を厳しく制限しました。江戸川は江戸の東の守りの要(天然の外堀)であり、軍隊が容易に渡河できないよう、あえて「渡し」による不便な交通を強いたのです。
・物流(舟運)の優先:
江戸川は、幕府を支える年貢米や物資を運ぶ高瀬舟が絶え間なく行き交う「水の高速道路」でした。当時の技術では、大きな舟の航行を妨げないほどの高い橋脚を立てることが困難だったため、舟運の邪魔にならない「渡し」が選ばれました。
3. 多彩な「渡し」:その種別と成立の背景
渡し
├ 公儀渡船:幕府直営
├ 仕切渡船:幕府→民間請負 ← 矢切はここに出世
├ 郡村持渡船
│ ├ 作場(さくば)渡し:農作業用 ← 矢切の元々の姿
│ ├ 枝郷渡し:本村・枝村の連絡用
│ └ 年貢米渡し:年貢運搬専用
├ 私渡船:寺社・個人営業
└ 助郷(すけごう)渡船:宿場運営
4. 水面に描かれた道:渡しの概観
橋が禁じられた時代、江戸川は人々の交流を阻む「境界」であると同時に、数十箇所の渡しが点在する「結節点」でもありました。
上流の関宿から河口の今井まで、これほど多くの渡しが必要だった背景には、江戸防衛という政治的な事情と、川によって村を切り裂かれた農民たちの生活上の切実な必要性という、二つの異なる歴史が重なっています。
[付_1] 回想:天谷の渡し
(一色勝正著「流山の渡し」(「流山研究におどり」(S57.5 流山市郷土資料館友の会発行)より)
平方村新田の渡しは、天谷(あまや)の渡しと云った方が土地っ子には親しい。村の地積図ではここに上天谷 ・下天谷の地名が載 っている。中ノ久木のバス停から新川小学校の裏を通って愛宕神社の前の坂をおりると屋根屋の宮崎洪三さんの家の前に出る。この家も民家として貴重な建物だ。 この脇のダラダラ坂を北におりて田圃道を西に越え、今上落しを横切ればよい。今でも数軒家はあるが、 水運が盛んな頃は少くとも両岸に二十軒は下らない集落だった。…
このうち二、 三の家を紹介しよう。…
もう 一軒、成田屋の海老原市郎さん宅も七代前からの船宿で、昭和五年に運河駅前に移った。成田屋というのは成田詣のお客がいつも沢山泊ったので屋号になったという。
海老原さんの話によると、天谷の渡しの最後の船頭さんは 「ゆうや」の岡田さんで、ゆうやというのは江戸川を上下する船が、 風待ちや出水、渴水或は日程などで尼谷に船泊りするとき船頭達に入浴させる 「湯屋」のことだ。
渡し賃は大正の中頃大人1人2銭で、 村の人はただだった。そのかわり米や麦の出来秋には船頭さんが天秤棒をかついで、米なら2、3升、麦なら5升くらい集めてまわり賃銭のかわりとした。
渡しが渡れるか渡れないかは、 船頭の腕と判断によった。減水期は間題ないが増水の時はその腕が物をいった。しかし船頭が最も恐れたのは風で、1年を通じて午前中は比較的穏かだが、午後は概して風がでるので注意しなければならなかった。殊に秋風の立つ頃から天候の急変による突風や冬の西北風はいちばんきらわれた。
天谷は岸がゆるい傾斜をしていたので、 減水期には船着場を順次川中へ移してゆき、更に「ええび」という渡し板を渡って船に乗った。ええびは歩(あゆ)べのなまりであろう。昭和7、8年項の渡し賃は5銭くらいであった。当時田植の手間賃は食事付で1日50銭で、埼玉側は流山側より時期が少し早いので娘達は何日も泊り込みで「日雇(ひよう)取り」に行った。仕事が一段落し、湯に入って夕飯を食ベると船付場へは10時頃になり、対岸からホ-イ・ホ-イと呼んだ。船頭さんはねむい眼をこすり ながら船を出してくれた。
その頃の渡し場は呑気なもので、乗る人があるからすぐ船を出すものではなく、船頭の都合で1時間位待たされることも珍しくはなかった。また、船が川中まで行かぬうちなら遅れた人のため漕ぎ戻ることもあった。
天谷の向う岸は広い河原になっていて、乾いた砂地には茅(かや)が、水際には葭(よし)や河端やなぎのような灌木が人の背丈より高く生い茂っていた。また、細い流れもいくつかあって、そこには丸太を列べたり小さな木橋もあった。土地の人はこうした河原を「やっから」と言った。藪になっている河原の意であろう。
ゆうやの岡田さんが亡くなると天谷の渡しもなくなった。昭和37年ころという。(注1)
[付_2] 名所:矢切の渡し
「矢切の渡し」が作場渡しから始まり、実質的な「仕切渡船(公認の旅客営業)」へとその性質を変えていった経緯は、江戸川周辺の農村の暮らしと幕府の交通政策が交差する、非常に興味深い歴史を持っています。
結論から言えば、「農民の利便性」という建前を維持しつつ、実際には街道のバイパス機能を担う重要な渡しへと発展していったのが矢切の渡しの特徴です。
始まりは「作場渡し(農民渡船)」
江戸時代初期、幕府は江戸防衛のために主要河川への架橋を厳しく制限しました。しかし、対岸に耕作地(入り作)を持つ農民にとって、川を渡れないことは死活問題です。
・特例としての設置: 1616年(元和2年)、幕府は江戸川などの主要河川に15〜16ヶ所の「定船場(公式な渡し場)」を指定し、それ以外の通行を禁じました。
・農民のための例外: 矢切の渡しは、この定船場の一つとして「下矢切(松戸)」と「柴又(葛飾)」を結ぶ位置に置かれました。当時の主目的はあくまで「農民が自分の田畑へ通うため」の作場渡しでした。
なぜ「仕切渡船」のような存在に昇格したのか
通常、作場渡しは一般旅人を乗せることはできません。しかし、矢切の渡しは次第に旅客を運ぶ「仕切渡船」に近い性格を帯びていきます。これには以下の要因がありました。
・街道の混雑と「近道」としての需要:
本来、江戸から千葉方面へ向かうには「金町・松戸の関所」を通るのが正式なルート(水戸街道)でした。しかし、矢切の渡しは柴又帝釈天への参詣客や、松戸宿を経由せずにショートカットしたい旅人にとって非常に便利な場所にありました。
・「内証渡」から「黙認」へ:
農民を渡すついでに旅人を乗せる「内証渡(こっそり渡す行為)」が常態化しました。当初は取り締まりの対象でしたが、柴又帝釈天の隆盛や周辺の物流の増加に伴い、幕府も地域経済や利便性を考慮して、これを「公認に近い形」で黙認・推奨するようになっていきました。
・杉浦家による独占的な運営:
明治以降の形態に近いですが、江戸時代から特定の家系(現在は杉浦家)が船頭として定着し、管理・運営を一手に引き受けるようになりました。これにより、村の共同管理というよりは、特定の運営者が責任を持つ「仕切」に近い体制が整っていきました。
歴史的な変遷のポイント
・初期 (作場渡し)
幕府が地元農民のために設置。旅人の通行は原則禁止。
・中期〜後期 (公認の農民渡船)
柴又帝釈天への参詣客など、一般の利用者が激増。事実上の旅客営業。
・明治〜現代 (民営の渡し)
1900年代(明治末期)に「野菊の墓」で描かれ、現在は観光・生活の両面で「江戸川唯一の渡し」として存続。(注2)
[補足]
(注1) 最後の渡し:この辺でいちばん後まで残っていた渡しが今上の渡しで、昭和43年までやっていました。
(注2) なぜ「矢切」だけが残ったのか:江戸川にはかつて多くの「作場渡し」がありましたが、橋の建設とともにその多くは消滅しました。矢切の渡しが残ったのは、小説『野菊の墓』や歌謡曲の舞台となった文化的な価値に加え、流山や松戸周辺の他の渡し場が「橋」へと置き換わっていく中で、あえて橋が架からなかった絶妙な位置関係にあったことも要因の一つと言えるでしょう。
(2026.5.15掲)

