東葛探遊⑤ 近世流山在のモザイク村 3郷7村

近世流山の在に複数の村がモザイク状に混在する地域があり、現在でもその痕跡が大字として残っている。
何故このような村が形成されたのか?経緯を辿ってみたい。

(1) 桐ヶ谷北村・小屋村
桐ヶ谷南村の北に位置する。西を江戸川に画され、田地は刺股状に入り込む村北部の低地に広がる。

北村・小屋村

北村(きたむら)  (現)流山市北・小屋・森のロジスティックパークなど
[近世]
寛永2年(1625)の知行宛行(あてがい)状で天野重房に桐ヶ谷村の110石が与えられている。この110石は宛行先からみて当村のうちであったと考えられる。元禄郷帳では高175石余。
元禄13年(1700)頃の下総国各村級分によると旗本天野・岡野(岡部)両氏の相給(あいきゅう)。岡部氏領分はのち小屋村として分村した。分村後の享和3年(1803)の小金町六拾七ヶ村高帳では高110石。小屋村とは東部の台地上で激しく入組んでいる。
水戸徳川家の鷹場に指定されていた。
桐ヶ谷新田内外に新田を開いた。なお旧高旧領取調帳には高128石余とある。
神社は香取社。

[近代]
明治3年(1870)の義倉穀台帳によると、家教31・人数202。
近世には冠称として「桐ヶ谷」を付していたが、明治22年以降「北」を正式の大字名とした。

小屋村(こやむら) (現)流山市北・小屋・森のロジスティックパークなど
[中世]
地名は荒野から起こったとも根小屋から生じたともいう。香取社の板碑(応安2年(1369)銘など)で年代が確認された。

[近世]
旗本天野・岡部両氏の相給村であった桐ケ谷北村から岡部領分が分れて成立した村。このために同村とは村地が錯綜する。
天正19年(1591)の德川家康知行宛行状(写)によると「桐ヶ谷村・八木村百石」が岡部長綱に与えられている。うち桐ヶ谷村分は宛行先からみて、のちの当村にあたると思われる。
旧高旧領取調帳では高94石余の北村小屋村新田がみえ、同新田は高72石余の岡部領と高21石余の幕府領との2筆からなる。これが当村にあたると思われ、幕府領は新田分に相当。

[近代]
明治3年(1870)の義倉穀台帳によると家数23・人数 121(?)。
明治22年新川村の大字となる。

(2) 桐ケ谷村・谷津村・貝塚村

桐ヶ谷村・谷津村・貝塚村


桐ケ谷村
(きりがやむら)  (現)流山市桐ケ谷
下花輪村の北に位置し、西を江戸川に画される。同川に沿って南下する舌状台地の東側に展開する低地を境に大畔村。

[中世]
室町期から見える地名で、「本土寺過去帳」に 「妙田入 応仁二(1468)戊子月 小田八郎 キリカヤ」とある。ほかにも同過去帳にはキリカヤ・桐谷の地名が散見するが、なかに 「キリカイ」「キリカヒ」の表記もみえる。

[近世]
桐ヶ谷の地名は近世初頭まで当村および近隣の谷津村・貝塚村・桐ヶ谷南村・桐ヶ谷北村・小屋村・下花輪村を合せた地域の総称として用いられていたと思われる。これらの村々はのちに桐ケ谷7ヵ村などとよばれた。その後村切が進み、当村および谷津村・貝塚村を合せて桐ヶ谷村とよんでいたが、元禄(1688-1704)頃に谷津貝塚の両村は分村する。
この両村分村後の狭義の桐ヶ谷村が当村にあたるが、両村と当村とは耕地も錯綜していて、地方(じかた)の諸史料においても3ヵ村の村名の用い方に混用がみられた。分村後、この3ヵ村は桐ヶ谷3ヵ村とよばれたが、3ヵ村を合せて単に桐ヶ谷村とよぶ従来の呼称も残っていた。
寛永21年(1644)の桐ケ谷村検地帳写名寄帳によると反別は田5町2反余・ 畑7町8反余、西円寺を含む10名が名請している。

元禄郷帳には高150石余の桐ヶ谷村が載るが、元禄13年頃の下総国各村級分などによるとこの村高150石は旗本筒井領36石・ 同古田領52石余・同松平領57石余・ 西円寺領5石から構成されていて、谷津村分(筒井領)・ 貝塚村分(古田領)を含んでいた。 松平領高57石余が当村にあたる。享保20年(1735)の松平氏改易後は幕府領となった。しかし村名の呼称に混乱がみえる。慶応4年(1868)の御用向控帳では桐ヶ谷3ヵ村の各庄屋が3村は「相給」と表現している。旧高旧領取調帳では高80石余、幕府領とある。
水戸徳川家の鷹場。

[近代以後]
明治3年 (1870)の義倉穀台帳によれば家数13・人数79。
西円寺があり、永正12年 (1515)以前の開山と伝える。昭和28年(1953)下花輪の西福寺と合寺して西栄寺(真言宗豊山派)と改めた。

谷津村(やつむら) (現)流山市谷・桐ケ谷
[近世]
桐ヶ谷村のうち旗本筒井氏の支配地が同村から分れて成立した。以来幕末まで同領。桐ヶ谷村や同じく同村から分村した貝塚村とは耕地が錯綜していた。
天正20年( 1592)の検地では、反別が田合計9町2反余・畑合計6町1反余、屋敷筆数17。延宝5年(1677) の年貢割付帳によると高36石余、反別は上田1反余・中田7反余・下田2町73余、中畑三反余・下畑3町2反余、屋敷1反余。ただしこのときは桐ケ谷村筒井領とあり、分村はこれ以降のことと考えられる。

[近代]
明治3年(1870)の義倉穀台帳によると家数12・人数65。

貝塚村(かいづかむら) (現)流山市上貝塚
[近世]
桐ヶ谷村のうち南東部の旗本古田領分が同村から分村して成立した。幕末まで同領。元禄3年 (1690)の訴状に村名がみえる。享和3年( 1803)の村高帳では高52石。
旧高旧領取調帳には当村と谷津村および当村の桐ヶ谷新田内持添分を合せた高103石の谷津貝塚新田がみえる。

[近代]
明治3年(1870)の義倉穀台帳によれば家数13・人数89。同11年上貝塚村と改称した(郡内に貝塚村が複数あったため)。

(3) 野々下村・長崎村

野々下村・長崎村

野々下村(ののしたむら)  (現)流山市野々下一~四丁目•長崎一~二丁目・駒木
江戸川中流左岸、下総台地上に位置し、市野谷村の南東にある。同村境を布施村(現柏市)と加村を結ぶ往還が通り、この道沿いに集落をなす。また南東部の上野牧境を日光東往還が通る。

[中世]
「本土寺過去帳」の妙祐尼には文明5年(1473)の年紀があり、「野ノ下八郎□□」との注記がみえる。
西部の曹洞宗春山寺には文明7年(1475)などの年紀がある武蔵型板碑が残る。

[近世]
近世初期、当村のうち幕府領分が分村して長崎村となった。このため同村とは村地が入交じっている。
天正20年(1592)3月の検地帳によると反別は上田1町余・中田2町余・下田29町余、上畑5反余・中畑4反余・下畑5町1反余、屋敷 1町余。長崎村分村後の元禄13年(1700)頃の下総国各村級分によると高157石余、旗本松平・後藤・天野の3氏相給。享保20 年(1735)松平氏は改易となったため、松平領は幕府領となり、享和3年(1803)には幕府領40石・旗本天野領47石余・後藤領68石余となっていた。天保郷帳では高220石余と増加。旧高旧領取調帳でも幕府領・天野領・後藤領の相給。

長崎村との関係は深く、元文4年(1739)の長崎村明細帳によれば、当村幕府領分は 「名主之儀先年相談、長崎村ニ而兼帯ニ相勤」めていた。
布施村と加村とを結ぶ往還は江戸への鮮魚の往路として賑わい、道筋には生ウナギ輸送のため魚を水に放つ場である水切場(水替宿、有料)が設けられていたという。
北西端には日蓮宗浄蓮寺がある。

[近代]
明治3年(1870)の義倉穀台帳によると家数44・人数263。

長崎村(ながさきむら) (現)流山市長崎一~二丁目・野々下一~六丁目
[中世]
戦国期にみえる地名。

[近世]
近世初期に野々下村から同村幕府領が分郷して成立。以後同領で幕末に至る。
正保4年(1647)の年貢割付状によると反別は上田2反余・中田2反余・下田4町6反余、上畑2反余・中畑1反余・下畑6反余、屋敷1反余で、年貢高9石余。
野々下村とは入会郷で田地も双方入交じっていた。
元文4年(1739)には高37石余、6町9反余、名主1・百姓3・水呑2・寺1。
耕地は丘陵直下に開けた谷田を主とし、「用水無御座…」と不安定なものであった。
真言宗豊山派金乗院、天形星神社がある。

[近代]
明治22年八木村の大字となる。

現在の流山市北と小屋

[備考]
(
注1) 本稿では次の2書から抜粋引用した。
   「日本歴史地名大系 12 千葉県」 (1996 平凡社)
   「角川日本地名大辞典 12 千葉県」 (1984 角川書店)
  ・小字地図は、「流山市史 近世資料編Ⅰ」から転載した。

(注2) 相給(あいきゅう):村請制(むらうけせい)が確立した近世期における土地領有の一形態。一つの村落に対し複数の領主が割り当てられている状態を指す。村(郷)が分割されたために分郷(ぶんごう)とも言った。

概説
最も代表的なのは、江戸幕府が旗本の支配を確実にするためと彼らの江戸居住(地方在勤者を除く)を義務付けたために、小禄旗本の知行地が集中した関東地方に多く見られる。領主の種類は旗本には限定されず、諸大名、諸寺社、幕府領、そして旗本領などで構成された。
この制度導入の背景には、土地の良し悪しや年貢率による実収のバランス、旗本による知行権行使の抑制、小禄知行取の存在、村を分断して農民たちの団結を防ぐなどが言われている。
もっともこれが却って旗本の知行地支配の不安定を招いて旗本の窮乏化、ひいては旗本の軍事力に支えられた江戸幕府の衰微を促したとする説もある。

村政の運営
名主などの村役人は領主毎に任命されたが、領主間の村役人の兼職を禁止するものではなく、一人の人物が複数の名主職を兼任する場合もある。しかし領主間の利害対立も絡み別々の人物が名主等に任命されることが多く、村政の混乱を招きがちであった。

複数の領主が共同領主として村落を支配したわけではなく、それぞれの領主ごとに支配領域が決定された。
区分けの方法は村を東西や南北などの地理的条件により一律に区切るということはせずに、各田畑の良し悪しなどを考慮して個別に帰属が決定された。したがって相給の村内ではモザイク状に領地が形成された。
このために近隣同士が監視する五人組の組織が機能しなくなる場合があり、領主が自己の知行に基づいて定めた五人組とは別に、居住地域単位による郷五人組が編成されるなど、この点も村政の混乱に拍車をかけた。
…                     (Wikipediaより)                        

(注3) 分村 (北村・小屋村の場合):近世(江戸時代)における分村(ぶんそん)とは、一つの村が二つ以上の独立した行政単位(村)に分かれることを指します。その主な理由や原因は、大きく分けて「支配・行政上の都合」と「村内部の対立や変化」の2つの側面があります。

桐ヶ谷北村において、天野・岡部両氏の相給から岡部氏分が小屋村として分村するに至る時期、理由、分村後現在までの経緯:
1. 相給から分村に至る時期
時期:17世紀中頃(寛永から正保年間、1624年〜1648年頃)
1625年(寛永2年)の時点ではまだ一つの「桐ヶ谷村」として宛行(あてがい)状が出されていましたが、1640年代の『正保国絵図』にはすでに独立した「桐ヶ谷北村」が記載されています。
その後、北村の中でもさらに領主ごとの「村切り」が進み、岡部氏の知行分は小屋(こや)村として分立しました。

2. 分村(小屋村の分立)の理由
支配・徴税の効率化:一つの村を天野氏(北村の主力領主)と岡部氏の2氏で支配する「相給」は、年貢の徴収や公役の負担割合を巡るトラブルが起きやすく、管理が複雑でした。
知行地の明確化:岡部氏(岡部正綱の系統)の知行地を特定の区域(小屋地区)として切り離し、独立した村(小屋村)とすることで、領主による直接的な統治と責任体制を明確にしました。

3. 分村後から現在までの経緯
江戸時代(分立と再編):岡部氏領は「小屋村」として推移しましたが、幕府の帳簿上(郷帳)では「桐ヶ谷北村」の中に含まれて扱われることもありました。
明治〜昭和(合併による統合):
1889年(明治22年): 町村制施行により、桐ヶ谷北村・桐ヶ谷南村・小屋村・大畔村などが合併して新川(しんかわ)村となりました。
1951年(昭和26年): 新川村・八木村・流山町が合併し、現在の市域の基礎となる江戸川町(のちの流山市)が誕生しました。
1968年(昭和43年):住所整理により、北村・南村・小屋などの区分は廃止され、現在は「流山市桐ケ谷」および隣接する「流山市北」「流山市小屋」という地名にその名残を留めています。

北村・小屋村分村に当たって村域・境界の整理がされず、村域がモザイク状のまま放置された理由:
江戸時代特有の「地割(じわり)」の仕組みと、分村が「土地の入れ替え」を伴わない形式的なものであったことが主な理由です。
大きく分けて以下の3つの要因が挙げられます。
1. 「一筆(いっぴつ)支配」の維持
江戸時代の分村(村切り)は、多くの場合、地形や道路で線を引き直すのではなく、「どの田んぼ(筆)がどの領主のものか」という権利関係に基づいて行われました。
相給時代に「この田んぼは天野氏、隣のあぜ道向こうは岡部氏」と細かく決まっていた場合、その所有関係をそのままに「天野分を北村、岡部分を小屋村」と定義しました。
土地を等価交換して境界を直線化する(地出し・地替え)には、農民の利害調整や検地のやり直しなど膨大な労力が必要だったため、現状の土地所有を優先した結果、境界がジグザグのまま固定されました。

2. 農業利水(水利権)の共有
桐ヶ谷付近の低地は、水路やため池を共同で利用していました。
もし明確に境界線を引いて分断してしまうと、水路の上流と下流で管理責任が分かれ、水争いの原因になります。
「水利や入会地(共同山林)は共同管理のまま、年貢の納め先だけを分ける」という解決策をとったため、物理的な村域を整理する必要性が低かった(あるいは整理しない方が農業運営上都合が良かった)という事情があります。

3. 明治以降の地番整理の限界
明治時代の「地租改正」の際にも、本来は境界を整理するチャンスがありましたが、ここでも「実際の所有権」が優先されました。
農民にとっては、村の境界よりも「自分の土地がどこにあるか」が重要であり、先祖代々の土地の形を変えることに抵抗がありました。
その後の昭和の合併や住居表示整理(1968年)でも、大きな区画整理事業が入らなかった場所では、江戸時代の「一筆ごとの支配」の名残がそのまま地番や大字の境界として残ることになりました。
…                     (GoogleAIによる)

((2026.4.12掲)

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