演歌から台湾を考える

タイトルの「演歌」は丁寧に記すと「台湾で台湾人によって演奏される日本の演歌」という意味です。
日本が台湾にコロナワクチンを贈ったことなどから、最近日台関係が注目されているようですが、私は昨年から「台湾で台湾人によって演奏される日本の演歌」にはまっています。昨年は主にサックスなどの演奏をよく聞いていたのですが、今年に入ってからは台湾人が歌う日本演歌を聞くことが多くなりました。。

去年よく聞いたのがこちら↓、Sax Rubyのサックス。毎日の家事のBGMに聞いていました。

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韓国のJo A Ramのエレキ・バイオリンも時々聞きましたが、こちらは何かあざといというか、わざとらしく、しょっちゅう聞く気にはなれません!

今年になって、多くの台湾人歌手が日本の演歌を歌っていることを知りました。
  「宗右衛門町ブルース」、「昔の名前で出ています」、
  「長崎は今日も雨だった」、「別れの波止場」、などなど
聞いてみると、何の違和感もなく、心地いい! 「素直なド演歌」風の歌いっぷりが気に入っています。

(クリックして動画を再生できます)

私のお気に入りの歌手は沈文程、洪栄宏、蔡小虎、女性では江蕙。

しかしそれにしても、何故に多くの台湾人歌手が台湾で日本の演歌を歌い、それが日本人である私にも違和感なく聞くことができるのか?!

▪ 海洋民族
日本人と台湾人に何か共通するものがあるのだろうか?そこで思い当ったのが「海洋民族」!
最近の日中韓をめぐる議論の中で海洋民族、大陸民族、半島民族の違いが言われたりしますが、日本人と台湾人に共通するのは「海洋民族」ではないか?!

しかしこれは結構複雑な問題のようです。
現在の台湾の人口構成はざっと以下の通りとされています。
  本省人 85% (客家系13%、残りは福建系) 、外省人13%、原住民 2%
本省人(第2次世界大戦以前に大陸から台湾に移住した人とその子孫)と外省人(戦後に大陸から台湾に移住した人とその子孫)を合わせた大陸系の人口が98%を占め、台湾人を「海洋民族」とは言えないように見えます。

一方で伊原吉之助教授(注1)によれば、
《台湾人(内省人)の大半が漢族とDNAが違い、マレー・ポリネシア系なのだ。…台湾の人口の7割余がマレー・ポリネシア系だということになる。…

では、中国大陸から台湾に渡った漢族はどこへ行ったか? 大半が平地原住民の中に消えたのである。そのからくりは以下の通り。
渡台者は家族の帯同を許されなかったから、台湾に渡るのは男ばかり。その一部は原住民の女と結婚して子供を生むが、子供はハーフ、その子が原住民と結婚して生んだ子の漢族の血は4分の1、…漢族の血は原住民の中に消えて行くのである。

最後に、台湾人の大半が自分を漢族の子孫と思う理由に触れておこう。
清朝の台湾支配の末期に、それまで禁じていた「中国風の三字名」を名乗ることを許した。これで原住民は争って中国名に改めた。
理由は?…多くの原住民が漢字を初めとする漢文化になじんでいた上に、漢族の税金が原住民より安かったので、争って中国人になりたがったのである。偽系図を買って漢族の名家を装った原住民も多かった由。…》

ところで日本人の起原は…とやりだすと、キリがありませんので、本稿では深入りしませんが、日本人と台湾人は共に「海洋民族」と言っても間違いではなさそうです。

▪ 台湾は親日か?!
「台湾は親日」と言われますが、同じ「海洋民族」であったとしても、それは本当なのか、そして何故なのか?
戴國煇著「台湾 -人間・歴史・心性-」(岩波新書 41、1988.10発行)を拾い読みしてみました。

台湾出兵  台湾出兵は牡丹社(ぼたんしゃ)事件…とも呼ばれている。1871年(明治4年…)11月、宮古島の官民69名が年貢を納めるために那覇に赴いたものの、帰途台風にあって、南台湾の八瑤湾、牡丹社の近くに漂着した。上陸時に3名が溺死、54名が…牡丹社のパイワン族に殺害され、12名だけが近くの漢族系有力者に助けられた。彼らは…翌72年6月7日那覇に帰着した。…

明治政府は「人民保護義務」を大義名分に、1874年5月17日台湾に出兵し…
対清交渉の結果、1874年10月31日北京条約が締結された。日本は多額の賠償金を清朝から獲得しただけでなく、琉球の日本への帰属を認めさせ…》

日清戦争  台湾出兵から20年後、朝鮮の権益をめぐって1894年8月から95年3月に日清戦争が戦われ、同年4月17日、下関条約の締結によって戦争が終った。…台湾割譲を講和条約に盛り込むことに成功した…。》

台湾民主国  …清朝政府が台湾の割譲を認めたことを伝え聞いて、台湾官民は大いに憤慨した。5月25日には台湾民主国の成立を宣言し、日本への割譲に反対の挙に打って出た。…
だが、台湾民主国は実質的には2週間ともたずに崩壊しさったのである。…
11月…日本当局は…全島平定を宣言した。》

農民の抵抗  …やっと手に入れた土地に、日本軍が土足のままで入ってきたのだ。台湾民主国の崩壊後においても、小租戸(開墾者)、現耕佃戸(耕作者)および開拓農民が無形の抗日戦線を結成して、方々で立ち上がった。開拓精神が素朴な民族主義と結びついて抗日ゲリラのエネルギーと化し、激しい抵抗運動をまきおこした。》

児玉源太郎と後藤新平  1898年3月28日、…児玉源太郎中将が台湾総督に、後藤新平が…民生局長…に就任した。…満鉄総裁に転出する1906年11月13日まで、実に10年近く辣腕をふるい、アメと鞭の政策を実施した。…
児玉は他方、「匪徒刑罰令」を公布し…、造反するものをすべて土匪扱いにして厳罰に処した。後藤の娘婿の鶴見祐輔が編集した『後藤新平』は、明治30年から34年までの間に捕えた土匪の数は8,030人、殺戮した者は3,473人、また明治35年の大討伐にさいして…死刑としたものは539人。「臨機処分」に付して殺戮した者は4,043人の多きを数えた、と記している。…》

羅福星事件  初期の武装ゲリラが鎮圧され、植民地開発が軌道に乗り始めた頃、大陸では、辛亥革命(1911年10月)が起った。中国本土での革命に刺激されて、新しい形の抗日運動が現れたものの、それらはいずれも大量殺戮に近い大弾圧を受けて失敗した。著名なものに羅福星事件(1913年10月)、西来庵事件(1915年8月)などがある。…》

霧社事件  1930年10月27日午前8時頃、台中州(現南投県)霧社公学校で、恒例の秋季合同大運動会の開会式が始まろうとしていた。…霧社周辺の日本人関係者のほとんどが集まっていた。
会場に集まった日本人の皆殺しを図って、アタイヤル族のグループが襲った。…日本人の男女、子供など百余名が犠牲となった。…
日本当局は動転して、怒り心頭に発した。これまで理蕃事業がもっとも成功した模範地区として、霧社を内外に喧伝していたからである。…
日本当局の…「裏切り」に対する報復は残酷だった。…正規軍ばかりか航空隊まで出動させて…2ヵ月近くかかってようやく鎮圧した。

官憲側の報復は執念深く続いた。…一ヵ所に収容した蜂起側の生き残りの「保護蕃」を夜襲させて、15歳以上の者をほとんど殺した。1931年4月25日未明のことだった。…》

日中戦争と台湾  …(日本の)かいらい政権の幹部に、日本語ができる「二等日本人」として協力した台湾出身のインテリの数は少なくない。…
だが、もっとも一般的だったケースは、…小心翼々とした台湾人だった。彼らは大陸の中国人からは日本のスパイではないかと白眼視されることが少なくなかった。また、日本人からは別の意味で中国側のまわし者とみなされ、「不埒支那人」の一味と侮蔑されたりした。まさにどっちつかずのみじめな状況下に追い詰められた「アジアの孤児」というわけだ。…》

ここまで読んでみると、台湾人が「親日」になれるとは思えないのだが、…
植民地経営の要諦は「アメと鞭」だとか。これまで引用したのはもっぱら「鞭」についてだったが、この「鞭」を補って余りある「アメ」が与えられたということか?!
それとも、日本の植民地支配が過酷ではあったが、光復(注2)後にそれ以上の悲惨な試練を経験したということか?!
林ひふみ教授の所論(注3)を引用します。

歴史を紐解くと見えてくる、台湾の親日の複雑な思い
台湾の先住民はオーストロネシア語族
  …その頃の台湾の住民は、オーストロネシア語族と呼ばれる言語を話す人たちです。…彼らが台湾の先住民で、17世紀はじめまでは中国系の住民はほとんどいませんでした。つまり、この頃の台湾は海洋文化圏の島だったわけです。…

17世紀以降、中国から入植した人たちが増え、多数派となっていきましたが、先住民と中国系の人たちは言葉も通じず、融合は進みませんでした。

ところが、1874年(明治7年)、日本の台湾出兵により危機意識が生まれ、防備のために台北城を造ったりします。
しかし、その後の日清戦争で敗れた清は、1895年(明治28年)の下関条約で台湾を日本に割譲します。台湾の人たちにとっては、清に見捨てられたという思いだったでしょう。
ここで、台湾の人たちは初めて台湾民主国を宣言し、上陸してきた日本軍に対して激しく抵抗しました。これが乙未(いつび)戦争と言われるもので、半年間ほども続き、その間に住民15,000人が亡くなったと言われます。

しかし、10年、20年たつうちには、台湾の人たちの間に、日本の枠組みの中で自分たちの地位を上げようという気持ちが徐々に広がります。
当時、アジアで唯一近代化に成功した日本の文化や技術がもたらされたこともあったからでしょう。台湾の街にも日本の大正デモクラシーの雰囲気が漂い、コーヒーショップやダンスホールがつくられたり、レコード会社ができたりしています。
一方で、日本語教育が浸透し、同化政策が進められました。

ところが、その後、日本は日中戦争、太平洋戦争と突き進み、1945年(昭和20年)、ついに敗戦を迎えます。
ポツダム宣言により、日本人は台湾から全員引き揚げることが決まりました。
半世紀に及んだ日本の統治が終わり、台湾には、日本語で読み書きをする中国系と先住民の人たちが残されたのです。》

台湾を分断する本省人と外省人  台湾から日本人がいなくなった頃、中国では、国民政府軍と中国共産党との内戦が続いていました。
この内戦に勝利した毛沢東が、1949年に中華人民共和国を建国すると、敗れた蒋介石は台湾に逃げ込みます。
ただし、彼は中国の正統な統治者は自分たちであり、台北は臨時首都で、いずれは中国本土に戻ると主張しました。

台湾にいた中国系の人たちは、日本の統治から解放され、同じ民族の蒋介石たちを歓迎したのかと言えば、ことはそう簡単ではありませんでした。
まず、言葉が通じなかったのです。半世紀に及んだ日本の同化政策により、台湾の人たちが読み書きするのは日本語だったからです。
そのため、互いを同胞と見なすことができず、新たに来た人たちを「外省人」、もともと台湾にいた人たちを「本省人」と呼び合い、分断するようになったのです。
国民党は、日本語を禁止し、戒厳令を敷いて力で押さえつけようとします。実は、この状態が1949年から38年間続きます。

近年、当時の様子がポツリポツリと出てきています。例えば、日本語で暮らしていた世代はなかなか中国語に馴染めず、中国語の教育を受けるようになった自分の子どもたちと会話ができず、世界観もまったく違うため、親子間で理解し合うことが難しくなったこと。
支配層になった外省人も、日本人が使っていた住居や施設を接収して利用したのは国民党の一部のエリート層だけで、下層の兵隊たちは住む場所もなかったこと。…

その後、外省人の兵隊だった人たちが先住民の女性と結婚するようになったり、戦後、三代目、四代目の世代にもなり、分断の意識は希薄になったように見えます。
しかし、それでも、台湾社会の根底にはこの分断が息づき続けていることが、選挙などには如実に表れるのです。》

複雑な日台関係、中台関係の結果としてある親日
1971年に中国(中華人民共和国)は国連に加盟し、…台湾の中華民国が失脚していきます。 
日本も、1972年に日中国交正常化となり、台湾とは公的には断交することになります。…

2008年の総統選挙で選ばれた国民党の馬英九は、初めて中国に直行便を飛ばすなど、実際に中国との関係強化を図ります。…
そのため、台湾は経済的に少し潤ったとしても、中国に対して自由にものが言えない雰囲気の社会になっていったのです。

こうした状況に対する危機感もあり、学生たちが立法院に突入して占拠する「ひまわり学生運動」が2014年に起きています。
そして、その後の2016年の選挙で、反中国の立場をとる民進党の蔡英文が総統に就くのです。

もともと、中国共産党に敗れ、反攻することを目指していた国民党が親中国になっていることは、一見、不思議に見えます。
でも、そこには、反中国の民進党と反対の立場をとることがあるとともに、共産党が統治する中国であっても、そこは自分たちの故郷である大切な中国だという複雑な思いがあるのです。
それは、台湾生まれの三代目、四代目の世代になっても、外省人をルーツにもつ彼らのアイデンティティになっていると思います。

一方で、清に見捨てられた思いと、日本の統治にも激しく抵抗した経験をもつ本省人をルーツとする人たちが多い民進党は独立志向が強く、中華民国ではなく、台湾共和国を名乗りたい思いがあります。
また、差別はあったにしても、当時はアジアで最も進んだ技術や文化に浴した日本統治時代の方が、国民党による戒厳令時代よりもましだったという意味で、彼らは親日的なのです。
日本と中国に対してとても複雑な経緯があった、いまの台湾の人たちを、だから、単純に親日と一括りにすることはできません。…》

[補足]
(注1) 台湾人の大半は漢族に非ず
:筆者 伊原吉之助(帝塚山大学名誉教授)
(注2) 台湾光復(たいわんこうふく):台湾島・澎湖島(狭義の台湾)における日本の統治が終わり、両島が中華民国の統治下に編入されたことを指す中国語
(注3) 歴史を紐解くと見えてくる、台湾の親日の複雑な思い筆者 林 ひふみ(明治大学理工学部教授)

(2021.7.13掲/7.14改)

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