私が育った部落の名は、「東十二丁目」と言ったり「島」と言ったりします。今はどうか知りませんが、私が住んでいたころは、改まった場合とか手紙の宛名には「東十二丁目」を使い、普段の会話では「島」と言っていたように思います。
私が通った小学校の名前は「島小学校」でした。
何故この部落に二つの名があり、それぞれがどのようないきさつを持っているのか、前から気になっていたところです。
第1章 東十二丁目の地名 (1~8ページ)
(村里と地名、島村、東十二丁目、向十二丁目、町村合併と市制施行)
島 村
東十二丁目の別称「島」につては、昔、古北上川が北上山地の西麓を流れていたころその中州状であったところから「島」と云った、というのが一般の通念であった、と本誌に述べられています。
さらに「新たな論考」として司東真雄氏(国見山極楽寺住職、奥州大学教授)の論文(注1)が紹介されています。この中に去返公嶋子(サルガエシのキミ シマコ)について、《…今の東和町と北上市臥牛と花巻市島とを含む地で、恐らくのちに猿ヶ石郷となったのであろう。明治まで島村であったところとその東の山の臥牛が島の里で、島子の住所は今の臥牛の寺跡…島の里に居ったのであるから、その地名をとって島子を称した…》などとあります。
また「南部藩参考諸家系図」を引用して、《…和賀郡嶋村ということがあったものであろうか。》と述べられています。別の近世の文書に「和賀郡矢澤村」と書かれた例もありますので、「第5章 近世」の中で検討してみようと思います。
「(註) 北上川の河道の変遷」として「北上川 第6輯」(注2)を引用し、その中で原始期や古代の河道も図示されていますが、残念ながらその根拠・出典が示されていません。
私は、あれこれ調べているうちに、この北上山地の西麓を流れていた川は北上川ではなく、猿ヶ石川ではなかったか、思うようになりました。小学校以来の旧友に聞いてみたところ、「そういう説もある」とのこと。
そのように思う理由:
① 本誌で引用する「北上川 第6輯」には、原始期の河道についての根拠、出典が示されていない。
② 現在の北上川河道と北上山地西麓(歓喜寺の前辺り)では、高低差があり過ぎる。一方で歓喜寺の前の大堰(旧仁兵衛堰)は現在でも猿ヶ石川から取水、自然流下で流れている。
③ 本誌の「第4章 中 世」/「第11節 村の伝説と伝承」に収められている「沼の御前」の物語の中に《奥州照井の里に下向す。猿ヶ石川流れの後なり。》などとある。
東十二丁目
本誌では、「十二丁目」に関する史料5点を列挙した上で、《十二丁目を解明する根拠を見出し得ない、…地名と城と氏の三者の前後関係についての結論は今後に委ねざるを得ない。》としています。
「東十二丁目」を「東・十二・丁目」と区切って考えてみます。
・「東」については、「十二丁目」・「西十二丁目」に対する「東十二丁目」ということで、問題ないでしょう。但し「向十二丁目」という呼称もあったということを本誌で初めて知りました。
・「十二丁目」について、この地域には「十丁目」も「十一丁目」もなかったようで、似た地名としては「万丁目」があるのみです。
「十二丁目氏」との関係で言えば、伊藤氏が十二丁目(城)を本拠としたことから、十二丁目氏を名乗った、ということで良いのではないでしょうか。
従って今のところ「十二丁目」の謂われは不明です。
・「十二」はどうでしょう。「十二」の付く地名を探してみると、「十二箇村(後に十二鏑村)」というのがありました。現在の花巻市東和町土沢の一部です。十二丁目の「十二」とこちらの「十二」に何か共通するものがあるのか?
・「丁目」について、《17世紀初頭には既に(江戸で)『丁目』という用語(一丁目、二丁目のような用法)が使われていたようである》(注3)とのことですので、それ以前に使われていた可能性は少ないということでしょうか。とすれば「東十二丁目」の「丁目」は違う意味を持つ? 例えば「ジュウニチョウメ」に近い発音の蝦夷(えみし)語に「十二丁目」の漢字を当てたとか?!
しかし最近になって「十丁寺」という用例を古文書の中に見つけました。それは松井道円(注4)が著わしたと伝えられる「和賀稗貫郷村志」で、《十丁寺の事 実相寺旧跡上館の西南に有…》と記されているのですが、実相寺は現在もある地名で十二丁目の北西間近なところです。かつては十二丁目のすぐ近くに十丁目があったのかもしれません。
最近気になっているのが「目」です。稗貫・和賀郡には万丁目の外に内川目、外川目、横川目、立川目と「目」が付く地名が多くありますが、「東十二丁目」と何か通ずるものがあるのかどうか…?
本誌に、明治初年に編纂された岩手県管轄地誌から引用して、《陸中稗貫郡東拾二丁目村、本村ハ古ヨリ本郡ニ属シ西拾二丁目と一村ニテ島村ト称ス、天正(1573~93)ノ頃本称ニ改メ分テ東西両村トナル》と記されています。しかしこれは俄かには信じ難いです。
① 北上川西岸に拡がる小高い河岸段丘上の場所を「島」の一部とは言い難い。
② 島村(現在の東十二丁目)を本拠にしていた有力者が北上川の西側に進出し、島村を川西に拡張した、というようなことを聞いたことがない。
私が思い描く仮説は:-
・北上川の東岸に島村が、西岸に十二丁目村があった。
・十二丁目村に本拠を置いた伊藤氏(十二丁目氏)が有力になり、島村を勢力圏におさめ、この地を向十二丁目とか東十二丁目と呼ぶようになった。
島村の住民にとって元々は、向十二丁目も東十二丁目も他称に過ぎなかった。
・十二丁目氏が没落後、十二丁目を西十二丁目と呼ぶようになった。
・東十二丁目村が公式の村名となった後も、住民は「島村」という呼称を使い続けた。
[補足]
(注1) 司東真雄著「岩手の歴史論集 1 古代文化」 (1978 司東真雄岩手の歴史論集刊行会発行)
(注2) 東北地方建設局岩手工事事務所編「北上川 第6輯」(1977 同所発行)
(注3) 丁目:出典 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」
⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/丁目
(注4) 松井道円:元祿の初めころに奥州に下り、花巻城主北氏に寄寓していた京都の画家・医師という
(2021.6記/22.4改)