高天原 in Hidakami-koku : 「日高見国」再見

(「日本とユダヤの古代史&世界史」(注1))より)

本ブログではこれまでに何度か「日高見」について取上げてきました(注2)が、本稿では近著から抜粋・紹介します。

縄文時代にあった「日高見国」とは何か?「高天原」はどこか?
茂木
:…田中先生がお話しする神話の話はもう全部がリアル。神さまもすべて実在し、実際にあった出来事であるということが大前提ですよね。
田中:『古事記』や『日本書紀』には神さまの名前が沢山出てきますが、ほぼ実在した人物であると私は考えています。もちろん伝承されたものが文章になったわけですから、詩的な表現や誇張した言い回しなどもあるでしょうが、大元の話は真実の出来事であると思います。誰かが創作したフィクションではないのです。例えば「高天原」というのは、「天界」だと思われていますが、私は実際に存在した場所であると考えています。
茂木:…まずは田中史学の真髄であります「日高見国(ひだかみこく / ひだかみのくに)」のお話に入っていきたいですね。
「日高見国」とは、縄文時代から東日本を中心に存在していた古代国家……ということですが、初めて聞いたという方も沢山おられると思いますので、「日高見国」の基礎知識をまずはお話できればと思います。その名前がはっきり出てくるのは『日本書紀』や『古事記』でしょうか?


田中:そうですね。『日本書紀』では、第12代景行天皇の時代に2カ所登場します。―つは、倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊 / 以下、ヤマトタケル)が東国へ蝦夷(えみし)征伐に行った時、もう―つには、天皇の側近だった武内宿禰(たけうちのすくね)が諸国を視察した際に「東方にある広大で肥沃な土地(くに)」として日高見国が出てきます。
また、同時期に書かれた『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には信太郡(しだぐん)(現在の茨城県土浦市周辺)が日高見国だとありますし、『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』(鎌倉時代)にも記載があります。それから、『延喜式』(平安時代中期に編纂された律令の施行細則をまとめた法典)にも、古来より伝わる日本の祝詞(のりと)『大祓詞(おおはらえことば)』には、「大倭日高見(おおやまとひだかみ)の国を安国(やすくに)と定め奉(まつ)りて」という一節があります。これは、「大倭=大和」と「日高見国」の2つの国が合体して、日本という国が成り立っているのだ、という当時の人々の認識を示しているといえるでしょう。
  …
田中:…今でいう東日本全体が日高見国だったと考えています。日高、日田、飛騨、北上(きたかみ)、日上(ひのかみ)、飯高(いいたか)など、その名称は今でも形を変えて残っています。日高見神社(宮城県石巻市)、日高神社(岩手県奥州市)もあります。…「日高見国とは何か?」ということは、ほとんどわかっていません。
これは「高天原はどこか?」ということとも重なりますが、私は茨城の鹿島神宮、千葉の香取神宮、または筑波山の地域に高天原があったと考えています。鹿島神宮の近くには「高天原」という地名が今でも残っていることは、ほとんど知られていません。…
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田中:鹿島神宮はまさにその中心地で、聖地だったと思います。そして関東は世界でも有数の人口密度で人々が集まっていたのです。
茂木:日本に大和国ができるはるか以前、神武東征以前から、東国には「日高見国」があったというお考えですね。「大倭(おおやまと)」は奈良を中心とした大和国(やまとのくに)、そして「日高見国」は東国ということですが、学会では未だになんなのかよくわからないということになっているわけですね。
田中:彼らは「日高見国」を現実と結びつけないし、考えようともしない。…大和国ができる前の時代、その前の縄文時代の東国に国家があった、ということさえも拒否しているわけですしね。縄文時代はなぜ1万年以上の長さだったのか?縄文遺跡はなぜ東日本に90%もあるのか?そういうことをもっと真剣に考えるべきです。
茂木:縄文時代、西国にはあまり人がいなかったことは、遺跡の分布から明らかですね。鹿児島沖の鬼界(きかい)カルデラ[*4]の大噴火など、九州の火山活動の影響もあったといわれますが、そもそも縄文の中心は関東・東北なのですね。それを裏付ける遺跡が、三内丸山を筆頭に沢山出てきています。これからもっと出てくるかもしれません。
田中:縄文時代の東北地方はかなり暖かかった。今よりもだいぶ温暖な気候だったそうです。昨年、北海道の縄文遺跡群にも行ってきました。北海道にも縄文遺跡は沢山あるのです。…
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田中:イザナギ・イザナミの国生み神話では、最後に本州をつくったと「古事記」にはありますが、その本州の中には北海道も含まれていると考えます。
というのも、北海道の縄文遺跡は、本州のそれとまったく同質のものだからです。貝塚があり、土器や土偶も同じようにあるのです。そのことからも、北海道の先住民はアイヌではなく縄文人であることが明白です。アイヌが北海道にやって来たのは12世紀頃で、モンゴルに追われてきたと思われます
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太陽と共に生きた縄文人が寒冷化で西日本へ移動
茂木
:…「縄文時代は平等だったが、どうしようもなく貧しい時代だった」と教わってきました。でも縄文のイメージはここ10年ぐらいで劇的に変わりつつあると思います。世界文化遺産にも登録され、新しい発見がどんどん出てきて、「縄文時代は豊かで、高度な文明と呼べる天体観測や建築技術も持っていた」ということがわかってきました。
田中:このような太陽の観測という話がもっと語られ出すと、より縄文の価値が増すでしょう。縄文の日本人がかなり正確に観測していたことがよくわかります。
茂木:ストーンサークルやウッドサークルというのは、シベリアとか北ヨーロッパにその多くはありますね。だから北国の文化なんです。…北の人たちはとにかく季節が大事です。例えば次の冬をどう生き残るか、この果物はいつ実がなるのかなど、季節が変わる前に季節の到来を知らなくてはいけないわけです。実はこういったストーンサークルができた時期というのは、温暖化が終わり寒冷化していく時代なのです。
田中:それは……縄文時代の中期から後期ですね(紀元前約3000年以降)。寒冷化という問題が出てくると、太陽がより重要なものになってきますね。…
茂木:太陽崇拝と祖先信仰が、あらゆる宗教の源泉だと私は思います。夏は冷房、冬は暖房の生活に慣れた現代人には想像がつかないほど、自然変化に対する縄文人の感覚は鋭かったと思います。まさに、生きるか死ぬかの問題だったのです。
ですから先生がおっしゃる、「日高見国」から西日本へと人が移動していったのも、おそらくその寒冷化とつながっているのではないでしょうか。
田中:そうするとそれは、縄文の中でも新しい、縄文“後期”の時代であり、徐々に人々の暮らし方や住む場所が変化していったわけですね。寒冷化し始めて、弥生時代になったら、もう多くの人たちが完全に南下していったということです。
茂木:それがまさに先生のおっしゃる《天孫降臨》の時期と一致するわけですね。
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田中:…天津神(あまつかみ)/国津神(くにつかみ)[*7]という神の分け方があります。天津神は高天原系、国津神は出雲系の神々ということですが、スサノオは国津神の方にいます。
茂木:スサノオは元々天津神だったのが、高天原から葦原中国に追放されて国津神になった、という設定ですね。
田中:そして高天原系というのは、縄文時代の有力者たちが、東日本につくった日高見国の人々である、と私は考えます。イザナギから生まれたとされる3人の神(三貴子)がいますね。アマテラス、スサノオ、月読命(つくよみのみこと)(以下、ツクヨミ)という3人です。このうち、スサノオとアマテラスの2人が対立し、まったく違う性格を持っている……という点を私は非常に重視しています。スサノオは他の神々とは実に対照的で、善悪二元論の「悪」として描かれています。
茂木:スサノオは徹底的に日本社会における異物として扱われていますよね
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第2波:失われた10支族、日本へ
茂木
:これまで、「出エジプト」(紀元前13世紀)の時に、という話がありました。それが第1波です。
そして第2波とは、ユダヤ人たちにとって最初の離散の危機となった「アッシリア捕囚」(紀元前722年)や「バビロン捕囚」(紀元前586年)の時とお考えでしょうか。
田中:そうです。紀元前722年、世界に散らされたユダヤ人たちが、紀元前660年までに日本に来て、日本建国に様々な影響を及ぼしていると考えます。
茂木:…9割の日本人が知らない日本建国にまつわる「国譲り」や「天孫降臨」の概略を、読者に正しく理解して頂かないと、その先へ進めません。話が込み入ってきますので、図を交えながらお話を進めたいと思います…。

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日本神話では神々を、高天原からやって来た「天津神(あまつかみ)」の神々と、「国津神(くにつかみ)」=日本列島(葦原中国(あしはらのなかつくに))の神々とを、はっきり分けています。インド神話でも、デーヴァ神族=天空神が、アスラ神族=地上神を打ち倒す物語が繰り返し語られますが、これと構造がよく似ています。
天津神というのは太陽神アマテラスの一族で、その末裔(まつえい)がご皇室につながるという設定ですが、問題はこの高天原ですね。元々は「たかあまのはら」「たかまのはら」と読んだようですが、のちに「たかまがはら」とも読むようになりました。高天原の所在については、まったくの空想だという説、ユーラシア大陸のどこかだという説、はたまた別の惑星であるという奇説などもありますが、田中史学では「高天原=東日本 / 日高見国」とお考えですね?

東日本の高天原と西日本の出雲国
田中
:その通りです。縄文の頃から何千年もの間、東日本は「日高見国」として栄えており、アマテラスなどの神々が政治を司る「高天原」を運営していたと考えます。
『古事記』の最初に出てくる話、日本の《国生み神話》では、イザナギとイザナミが島をつくっていきますね。しかしその島々は、なぜか西日本の島だけがつくられていきます。対馬(つしま)とか隠岐(おき)とか小さな島を数多くつくりますが、なぜか西だけなのです。佐渡はかろうじて出てきますがね。東日本には大島であるとか、北海道もある。それらの島を一切書かないで「本州」という一言で済ましているのはどういうわけでしょうか。
茂木:私はこの「国生み」を「国を発見した」あるいは「征服した」ことの比喩だと考えています。『古事記』の順番でいいますと、最初がなぜか淡路島、次に四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、本州、です。かつてよくいわれたように、天津神が朝鮮半島経由で九州に渡来したのなら、こういう順番にはなりません。
田中:これはつまり「東日本の本州はもうすでに知っていること」「西日本は出雲系に取られているから、それらを取り返すため」という意味もあるのではないか……と考えます。…
  ・・・
田中:古代地中海において、船の達人といえばフェニキア人[*3]でした。しかしフェニキア人もユダヤ人と同じように、アッシリアや新バビロニアに滅ぼされてしまいます。おそらくはユダヤ人がフェニキア人を吸収して、船で旅に出て行ったのではないでしょうか。こちらも離散したといえるでしょう。
このあとお話しする「天孫降臨」は、長い距離を船で移動したと考えられますが、その時の船の技術を彼らから学んでいるのではないか。それになぜ縄文時代に、関東に渡来人がやって来たかというと、あそこは浜が多い。浅瀬になっているのです。
茂木:日高見国があったと考えられる縄文時代前~中期は「縄文海進」の時代です。現在より海の水位が5メートルほど高く、茨城県の霞ヶ浦は今の数倍の広さの内海で「香取海」と呼ばれていました。関東平野は、群馬県南部まで入江が入り込む浅い海でした。
田中:そういうところには船は着きやすい。今みたいに大きな船ではないので座礁することなどないのです。対して、九州などの西日本は岩が切り立っている所が多いですからね。
茂木:だから鹿島神宮はまさに玄関口。先生が高天原の本拠地とおっしゃる筑波山の麓あたりまでなら、船で簡単に行けたと思いますね
  ・・・
この神話で奇妙なのは、神武東征軍に対してナガスネヒコがこう言うんですね。「お前たちは天孫族だというが、われらの主君、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)(以下、ニギハヤヒ)も天孫である。よって国は譲らない!」
「証拠を見せろ!」と神武イワレビコが迫ると、ナガスネヒコは「ほらどうだ!」といって矢を見せ、抵抗を続けた、と記紀神話にあります。
  ・・・
茂木:ニニギの九州降臨と、ニギハヤヒの大和降臨、天孫降臨は2回あった……?
田中:ええ、私の見立てでは、紀元前660年に“最初の”天孫降臨があります。ニニギは日高見国(高天原)がある茨城の鹿島から九州の鹿児島へ船で渡りました。こちらがいわゆる『記紀』にもある《筑紫の日向(ひむか)の高千穂峰》ですね。
一方、ニギハヤヒは、千葉の香取から大和(大阪、奈良)へ天降りました。
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二つの天孫降臨~ニニギとニギハヤヒの真実~
田中
:天孫降臨……つまり“天から神(アマテラスの孫)が降りて来る”という言葉も、ある意味荒唐無稽な話ですが、これも私は現実に起きた歴史的事実であり、それが神話化されたものと思っています。
「国譲り」以降も、西国はますます治まらない状況が続いていました。寒冷化による人の移動、大陸からの移民の増加で、西日本の人口が増えつつありました。そこで日高見国(高天原)は満を持して、九州と関西の2カ所に統治者を派遣するのです。
一般的には、ニニギが九州の高千穂に天から降りてくることを、天孫降臨といいますが、「大和盆地にも降りた」ということが重要です。

鹿島から鹿児島へ行ったグループ(ニニギ)と、香取から大和へ行ったグループ(ニギハヤヒ)、それぞれが共に、紀元前660年に国を形成していきます。その時にまず、ニギハヤヒが、大和を最初に統治して「大和国」をつくりました。
九州のニニギは天孫降臨したものの、なかなか攻めることができずにいました。4世代かかってやっと出雲勢力が跋扈(ばっこ)する西日本の地域へ軍勢を送ることができたのです。こちらの神武天皇は《神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)》(イワレビコ)と、『記紀』では呼ばれていますが、実はニギハヤヒこそ、初代の神武天皇だったのです。
しかも、ニニギとニギハヤヒは兄弟だった。あまり知られていませんが、『日本書紀』と『先代旧事本紀』では二ギハヤヒが兄、ニニギが弟であると書かれています。
  …
田中:ニギハヤヒは、…父は天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)で、ニニギも含めて5人兄弟でした。
 天孫降臨とは、日高見国による日本統一事業の総仕上げだったと考えることができます。そして、この九州から東征した神武天皇というのは、第十代崇神(すじん)天皇のことなのではないか……と考えています。初代の神武天皇と第十代崇神天皇とは、《はつくにしらすすめらみこと》という同じ名前で『記紀』に書かれているからです。つまり、大和国は2回征服されたと考えていいのではないでしょうか。
茂木:《はつくにしらすすめらみこと》、すなわち「最初に国土を統治した天皇の意」というおくり名は、建国の王が二人いることを示唆します。長らく古代史の大きな謎とされて来た問題です。「神武天皇は即位後の逸話が少なく、崇神天皇は即位前の逸話に欠ける。だから二人は同一人物ではないか」という説もあります。しかし田中先生は、両者は別人であるという仮説を提示されたわけですね。
ニニギの方は、筑紫に天孫降臨したなど『記紀』には様々なエピソードが書かれていますが、大和へ天孫降臨したニギハヤヒのルートははっきりしているのでしょうか。
田中:『日本書紀』では、「天磐船に乗って河内国(現在の大阪府)の河上の地に天降り、その後大和(奈良)に移った」と記されています。しかし、ニギハヤヒの話はほとんど書かれていませんね。
茂木:ニニギの方は圧倒的に有名人です。何といってもアマテラスの孫であり、いわゆる神武天皇のひいお爺さんでもあります。その息子たちの海幸彦(うみさちひこ)、山幸彦(やまさちひこ)のエピソードなど話題に事欠きません。ニギハヤヒも同じ孫なのに、あんまりではないですか。

田中:なぜニギハヤヒが歴史から消されたのか……。少し考察、推理してみましょう。
ニギハヤヒが大和に降り立つと、そこはすでに出雲系の勢力が強くなっている場所でした。そこで出雲系豪族だったナガスネヒコが、ニギハヤヒを立てるという格好で譲歩しました。天孫ニギハヤヒの権威に従い、側近、摂政、軍事指導者という立場でメキメキと力をつけていったのです。ナガスネヒコはその名の通りスネが長い、極めて長身の男です。
茂木:当時の日本人より明らかに長いスネを持つ男ということは、東アジア系ではない?
田中:渡来人であり、ユダヤ系と考えていいわけです。そういう人物がニギハヤヒを助けて大和国をつくっていったのです。その後、「欠史八代(けっしはちだい)」の時代が大和で続くわけですが、欠史八代の天皇はだいたいが関東の人と思われます。一つひとつの天皇の由来を見ていると、どうも日高見国系(関東系)の人ではないか、と思える節がある。ところが、その時代の天皇はまったく何をやったか記録が残されていない。ということは形式的にいただけの可能性もある。この時代は、出雲系、つまりナガスネヒコ系が大和を支配していた。ナガスネヒコという名も歌舞伎の世襲制のように何代か続いたものと考えます。それが崇神天皇以前の「欠史八代」の時代なのです。
  ・・・

田中:いずれにしても、九州にはニニギの一族が上陸し、そして大和はニギハヤヒの一族が支配しました。この二つの政権が長い間同時進行で存在したのです。ところが大和の政権でナガスネヒコ率いる出雲系=物部系が実権を握り、勝手なことをしているとわかったので、「このままではいけない」とイワレビコが挙兵したのです。
茂木:そこで「神武東征」が始まるわけですが、すんなりとはいきませんね。
田中:イワレビコは、兄の五瀬命(いつせのみこと)と先軍を率いて瀬戸内海の中国地方を制圧していきます。大阪の難波に到着するまでに、17年かかったともいわれます。
大阪の生駒山ではナガスネヒコの軍勢と戦い、抵抗にあい苦戦します。そこでイワレビコは「背中に太陽を負って、日神(ひのかみ)の威光を借りて攻める!」と宣言するのですが、これはつまり、日の神=東の日高見国の加勢を受けて攻めたら勝てる!……と判断したのではないでしょうか。
茂木:最終的には天孫族同士で妥協が成立し、徹底抗戦を続けるナガスネヒコはニギハヤヒに斬られ、イワレビコが大和の樫原宮で即位し、「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせむ」――天下統一(八紘一宇)を宣言する詔勅(しょうちょく)を発しました。
田中:このイワレビコこそ2人目の神武天皇であり、第10代崇神天皇でもあるのです。

[備考]
(注1) 日本とユダヤの古代史&世界史
-縄文・神話から続く日本建国の真実:茂木 誠・田中英道著、2023.6.9 ワニブックス発行
(注2) https://hitakami.takoffc.info/?s=日高見
本ブログでは、何故か「北上川 -日高見(ひたかみ)とは何か-」がトップページを除いてアクセス数ダントツのトップです。

(2023.7.12掲)

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