「東十二丁目誌」註解覚書: 宝暦の大飢饉

本誌の「第5章 近世 / 第10節 村の凶作」に、

《…凶作の歴史を見ると、…徳川260年間に75回-約3年半に1回の減作が出ている。
この内元禄…、宝暦…、天明…、天保…は本県の大飢饉の発生した年で、其の都度餓疫死者万を超え、宝暦5年(1755)の大飢饉には餓死者9,594人、空家7,043軒を生じ、…天明の大飢饉には、…餓疫死者64,698人、空家10,545軒、他領逃散者3,330人、牛馬の餓疫死するもの2万を越え、…天保の時も5万人以上の餓疫死者があって、犬猫、鼠牛、馬人肉を食し…》 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書: 宝暦の大飢饉

「東十二丁目誌」註解覚書:検地と石高

天保検地の行程
天保の検地の成り行きを、本誌と「高木村の歴史」(注1)をもとに追ってみます。

天保13年(1842) 安俵・高木通の検地 (~天保14年)
天保14年(1843) 8月、東十二丁目村・高木村等に検地の仰付(おおせつけ)あり
9月8日、勘定方による下調査が行われる
検地開始前、更木村永昌寺で肝入・古人の誓紙血判がなされる 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:検地と石高

「東十二丁目誌」註解覚書:近世東十二丁目村の基本データ

「東十二丁目誌」の「第5章 近世」は120ページを占め、「第3章 古代」と「第4章 中世」の合計61ページに比べて多くのページが割かれています。
それでは、これで近世の東十二丁目村の様子が概ね分かるかと言えば、そう簡単ではありません。
例えば「人口」一つを取ってみても、本誌に直接の言及はありません。(注1)

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「東十二丁目誌」註解覚書:近世概観

昨年の年頭に「『東十二丁目誌』註解」を纏めてみようと思い立ち、これまでに「第1章 東十二丁目の地名」、「第2章 原始時代」、「第3章 古代」と「第4章 中世」を見てきました。
今年は昨年分の纏めを続けながら、「第5章 近世」と「第6章 むらの民俗」に進むつもりです。

第5章の構成は次のようになっています。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:近世概観

「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-

(「平成2年度花巻市内遺跡詳細分布調査報告書 -花巻地区-」(1991)より)

北上川東岸地区
猿ヶ石川は、早池峰連峰薬師岳に発し、北上山系の山地・丘陵地を開析しながら西流し、花巻市内で北上川に合流する河川である。この猿ヶ石川左岸と北上川に限られた地域が、北上川東岸地区である。
地区内の地形は東西2つに大別できよう。西半分には北上川谷底平野が広がる。北上川の流路のターニングポイント周囲には自然堤防が発達している。また後述する長根・小袋地区及び穂貫田・大木地区には、大きく蛇行した旧河道が残っている。「島」という地名は、これより付けられたものという。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-

「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

「東十二丁目誌」の第2章・第5節「東十二丁目の遺跡」には「高木村の歴史」(注1)から引用して、大沢(一)(集落跡 縄文・平安)、大沢(二)(集落跡 縄文・平安)、小袋(集落跡 平安)、そして薬師堂(館跡 平安)と4ヶ所の遺跡を挙げ、「縄紋時代の遺跡の分布では、北上川東岸の河岸段丘沿いが多いと云われているが、当地域にも地形的に考えてまだ確認されず地中に眠っているものも相当にあるように思われる。」と付言しています。

少し調べてみて驚きました。東十二丁目は「遺跡の郷」の様相を呈しています。平安時代以前のものだけで13ヶ所、人家のあるところの大半が遺跡(公式には「周知の埋蔵文化財包蔵地」と言うようです)に含まれているのです。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-