稗貫・和賀、百姓一揆の郷

先日帰郷した際に、旧友のS君から「稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる」と題した本を貰いました。この本は「稗貫・和賀の百姓一揆を語る会」が昨年7月に出版したもので、地元・花巻の書店では週間ベストセラーの第一位になったことが何回かあったようです。百姓一揆の跡を訪ねる

何故 「百姓一揆」をテーマにした本が今花巻で出版されたのでしょうか?
この会の金野会長が「はじめに」の中で次のように述べています。 続きを読む 稗貫・和賀、百姓一揆の郷

高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

(及川 惇著「花巻の伝説-稗貫・和賀地方―(下)」(S58.1.30 国書刊行会)より)

南部藩の宿老、楢山佐渡の所領の中に、高木・東十二丁目(ともに花巻市矢沢)・更木(北上市更木)の三村があった。佐渡は、のちに、南部藩の秋田征伐の責任を一身に引き受けて、盛岡の報恩寺に刑死した人物である。
元治元年(1864)といえば、明治維新に先立つ4年前のことである。高木以下の3村は水田が比較的少なく、畑地と原野が多い所であった。そこで、楢山家では、この地域に新田を開発することを企画したものである。
平時であれば、もちろん歓迎されるべき事業である。しかし、当時は、天候の不順や洪水があって不作がつづき、減税や免税を訴えて、そちこちに百姓一揆が勃発していたころである。 続きを読む 高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

「東十二丁目誌」と石崎直治先生

MrIshizaki私が東十二丁目のあれこれを調べるに当ってまず参照するのが「東十二丁目誌」(平成2年刊)、その著者が石崎直治(なおはる)先生です。
先生は私が中学生の頃の矢沢中学校の教頭でした。昭和30年代のことです。先生は社会科と職業科を教えていましたが、私達の学年の担任ではなく、授業も担当していなかったと思います。そのせいもあって学校での先生の印象は薄く、あえて言えば、失礼な言い方ですが、「面白くもおかしくもない先生」という感じだったように思います。 続きを読む 「東十二丁目誌」と石崎直治先生

「東十二丁目」と「島」という地名

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

…私達の村里は、或時代には島村と呼ばれ、或時は東十二丁目村と云われて来ているが、どのような由来があるのであろうか、伝承や記録をたどって考えて見たい。

島村 明治9年(1876)に編纂された岩手県管轄地誌によると、「陸中国稗貫郡東拾二丁目村、本村ハ古ヨリ本郡二属シ西拾二丁目ト一村ニテ島村ト称ス、天正(1573~1592)ノ頃本称二改メ分テ東西両村トナル」と書かれている。(注1) 続きを読む 「東十二丁目」と「島」という地名

稗貫郡外台村

TodaiGuide旧外台村の歴史
私は東十二丁目の実家に帰ると、よく花巻南大橋を渡って南城のスーパーやホームセンターに買い物に行きます。その途中、北上川西岸の広々とした田畑を見下ろす旧奥州街道の道端に、「旧外台村の歴史」と銘打った白い標柱が建っており、それには次のように記されています。

(1) この道路下から北上川までの地域一帯はかつて外台村(とたいむら)と言い、明治22年(1889) 外台村・西十二丁目村・下根子村の三村合併によって根子村が発足するまで一村を形成していた。「村に人家なし」という全国でも珍しい村であった。 続きを読む 稗貫郡外台村