島の七家、九家、八家

  島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。

島の七家は大要次のようであったと伝えられている。 続きを読む 島の七家、九家、八家

「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

「東十二丁目」と「島」という地名の由来について、これまで二度取上げました。
  ⇒ 「東十二丁目」と「島」という地名
  ⇒ 「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-
その後これら地名の解明にあまり進展はないのですが、得られた若干の知見を紹介します。 続きを読む 「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

島の悪左衛門

(「岩手の民話」より)
(「岩手の民話」より)

花巻の南の島村に、むかし、悪左衛門という百姓がいました。ひじょうに小男ながら、負けずぎらいで有名でした。
悪左衛門に二人の娘がありましたが、その姉娘の方に縁談がまとまりました。
相手は、水押村の、これまた負けずぎらいで知られた名も同じ悪左衛門でした。その水押の悪左衛門から招待された島の悪左衛門親子は、さっそく出かけました。ちょうど十二月の寒いさいちゅうでしたが、悪左衛門夫婦も、二人の娘も、うすい夏の着物を一枚着たきりでした。 続きを読む 島の悪左衛門

東十二丁目の水利 – 堰以前 –

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

「村里は用地の開発により、用地は用水による」と云われるが、開拓の歴史を考える時、郷土の先人達が多くの困難と戦いながら、工事と取組み、築造し、管理し、修理を重ねながら長年代々にわたって受継がれて来ていることがわかる。

私達の村落は、北上山系と北上川の間に存在する集落であるが、南端にある猿ヶ石発電所から山麓にそうて北に進む時、2~300m間隔位に山から沢水が流れ落ちていることに気がつく、そしてそれぞれの沢には小さい俗に山田と称される不整形の水田が棚田となって耕作されている。その沢を登ると大ていはそこに昔使われたであろう堤が確認される。 続きを読む 東十二丁目の水利 – 堰以前 –

高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

(及川 惇著「花巻の伝説-稗貫・和賀地方―(下)」(S58.1.30 国書刊行会)より)

南部藩の宿老、楢山佐渡の所領の中に、高木・東十二丁目(ともに花巻市矢沢)・更木(北上市更木)の三村があった。佐渡は、のちに、南部藩の秋田征伐の責任を一身に引き受けて、盛岡の報恩寺に刑死した人物である。
元治元年(1864)といえば、明治維新に先立つ4年前のことである。高木以下の3村は水田が比較的少なく、畑地と原野が多い所であった。そこで、楢山家では、この地域に新田を開発することを企画したものである。
平時であれば、もちろん歓迎されるべき事業である。しかし、当時は、天候の不順や洪水があって不作がつづき、減税や免税を訴えて、そちこちに百姓一揆が勃発していたころである。 続きを読む 高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

「東十二丁目誌」と石崎直治先生

MrIshizaki私が東十二丁目のあれこれを調べるに当ってまず参照するのが「東十二丁目誌」(平成2年刊)、その著者が石崎直治(なおはる)先生です。
先生は私が中学生の頃の矢沢中学校の教頭でした。昭和30年代のことです。先生は社会科と職業科を教えていましたが、私達の学年の担任ではなく、授業も担当していなかったと思います。そのせいもあって学校での先生の印象は薄く、あえて言えば、失礼な言い方ですが、「面白くもおかしくもない先生」という感じだったように思います。 続きを読む 「東十二丁目誌」と石崎直治先生