仁兵衛、堰を開く

(中村萬右衛門編纂「更木村誌」(S5.12. 発行者不詳)より)

■■ 灌漑排水路 ■■
更木村水田二百町歩の内 臥牛(ふしうし)部内の田と山手方面に於ける沢水利用の小面積の棚田を除ける大部分は仁兵衛堰及中井堰の用水に依るものである、此の用水堰は猿ヶ石川の水を利用せるもので蓑淵(みのぶち)と云う所より高木島を経て本村を流過せしむるもの 之を仁兵衛堰と云うのである。これ今より約二百年の昔 金栗仁兵衛が五ヶ年の歳月を費して開鑿(かいさく)せるもので 其延長三里余、高木島、更木の三部落に亘り 其灌漑反別大凡(おおよ)そ三百五十町歩にして 実に大なる恩恵に浴している。 続きを読む 仁兵衛、堰を開く

東十二丁目の水利 – 堰以前 –

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

「村里は用地の開発により、用地は用水による」と云われるが、開拓の歴史を考える時、郷土の先人達が多くの困難と戦いながら、工事と取組み、築造し、管理し、修理を重ねながら長年代々にわたって受継がれて来ていることがわかる。

私達の村落は、北上山系と北上川の間に存在する集落であるが、南端にある猿ヶ石発電所から山麓にそうて北に進む時、2~300m間隔位に山から沢水が流れ落ちていることに気がつく、そしてそれぞれの沢には小さい俗に山田と称される不整形の水田が棚田となって耕作されている。その沢を登ると大ていはそこに昔使われたであろう堤が確認される。 続きを読む 東十二丁目の水利 – 堰以前 –

二本の堰

東十二丁目には二本の堰(農業用水路)が北から南に貫流していています。一本は東十二丁目の東側、北上山地の麓を流れ、大堰と呼ばれています。もう一本は長根と小袋、荒屋敷の間を流れているのですが、名前は今のところ判然としません。ここでは仮に西堰と呼ぶことにします。
この堰は猿ヶ石川から取水し、途中大きく山地を迂回し、高木で二本に分かれます。大堰は、かつては更木へと南下してから北上川に流れ出ていましたが、現在では二津屋で南西に向きを変え、神明社の西方、更木との境付近で北上川に出ています。一方、西堰は穂貫田の西でこちらも北上川に出ています。
この二本の堰は旧北上川の河道跡を流れているようですが、その成り立ち、変遷、そして現況などについて見ていこうと思います。 続きを読む 二本の堰

葛丸川

(金子民雄著「葛丸川幻想 -宮澤賢治・童話の舞台-」(注1)(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 學藝書林)より)

葛丸川と東北本線
葛丸川と東北本線

東北本線の花巻駅をでると、次に急行列車は盛岡まで停車しないから、花巻駅の次の二枚橋(注2)と石鳥谷という小さなローカル駅など、さっと通りすぎてしまう。まして、この二つの駅の間で跨ぐ小さな川の流れなどに目をとめる人は、まずあるまい。それほど小さく平凡な川、これが葛丸川(注3)である。この川を列車の窓から眺めると、西に続く山々の間から流れ出、北上川に注いでその短い一生を終えるのであるが、もし歩いてでもその源流まで遡ろうとすると、そう簡単なことではない。 続きを読む 葛丸川

賢治の見た北上川

(小沢俊郎著「北上川に沿って」(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 学藝書林)より)

…(註1)…本流についてはどうだろう。学生時代の北上川観を見ることは、また盛岡附近の北上川観になろう。ただし、「北上川」の名が最初に出てくるのは、

そのおきな / をとりをそなへ / 草明き / 北上ぎしにひとりすわれり

である。大正3年4月作だから、中学卒の在花巻時代の作になる(註4)。盛岡での作には、

北上は / 雪のなかより流れ来て / この熔岩の台地をめぐる  (大五・三より)

というスケールの大きい歌などがある。…
しかし、そのあといくらも経たぬうちに賢治の北上川観は変る。いや、盛岡の北上川に対し花巻の北上川が異なるのだといってもいい。 続きを読む 賢治の見た北上川

平将門 -将門は北上川を見たか-

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(海音寺潮五郎著「平将門(上)」(S42.5.30 新潮文庫 か-6-1)より)

北上メノコ
陸奥に鎮守府がおかれたのは、奈良朝の神亀(じんぎ)・天平(てんぴょう)の頃であった。この時代、この地方は蝦夷の天地で、日本民族の完全な領土ではなかった。鎮守府は、この辺境地帯の総督府と前進基地とを兼ね設けられたのであった。
はじめ今の宮城県塩釜市の近くの多賀城に設けられたが、平安朝になって、胆沢に移された。今の岩手県水沢市佐倉河町がその故地であるという。
神亀・天平の頃から、この時まで七十年の間に、約二十五里だけ前進基地が進んだわけである。
その後、この小説の時代よりずっと後、奥州藤原氏がおこって鎮守府将軍となり、平泉にうつすまで、鎮守府はここにあった。
胆沢の鎮守府は、今胆沢八幡のある場所にあったという。北に胆沢川があり、東に北上川があって、その合流点に位置する形勝の地である。

下総の豊田からここまで百三四十里、二十日ほどもかかって、小次郎(将門)はついた。坂東ではまだ暑いさかりであったが、ここはもう深い秋であった。 続きを読む 平将門 -将門は北上川を見たか-