盛岡・八戸両藩において、藩政期を通じてみられる特徴の第一は、「通(とおり)」という独特の代官統治区域を設けていたことである。盛岡藩領は広大ではあったが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、生産力も乏しかった地方である。しかもそういう状況のなかに村落が点在していたわけであるから、他藩のように郡からただちに村を行政単位とするには不都合な面が多かった。そこで特別な地方行政組織「通」が考えだされた。この制度は、盛岡藩の場合、領内10郡587ヵ村を33通に分割し、1通1代官所を原則として25代官所としたという。通の数については時期によって異同があり、25通、25代官所に固定するのは寛政4(1792)年以降のことであった。…(「岩手県の歴史」(注1)より)
近世稗和10通略図
〇 各通の区域は「邦内郷村志」(注2)に記された村名に基づく。
〇 後に、八幡通と寺林通は「八幡寺林通」に、二子通と万丁目通は「二子万丁目通」に、安俵通と高木通は「安俵高木通」に、鬼柳通と黒沢尻通は「鬼柳黒沢尻通」に統合された。
〇 上図の村界・村名は町村制施行(明治22年(1889))後のものである。
稗和10通各論
稗貫・和賀両郡には次の10通があったが、その内4通が複数郡にまたがっている。
万丁目通 (まんちょうめどおり):稗貫
高木通 (たかきどおり):稗貫、和賀
安俵通 (あひょうどおり):和賀、稗貫
八幡通 (はちまんどおり):稗貫
大迫通 (おおはさまどおり):稗貫、紫波、閉伊
寺林通 (てらばやしどおり):稗貫
二子通 (ふたごどおり):和賀、稗貫
黒沢尻通 (くろさわじりどおり):和賀
鬼柳通 (おにやなぎどおり):和賀
沢内通 (さわうちどおり):和賀
万丁目通 (まんちようめどおり)
…「南部盛岡藩領内絵図」(郷土史叢)によると、東は北上川、西は奥羽山脈で限られ、南は豊沢川を境に二子通に(ただし下根子村は同川南岸)、北はおおむね鍋割川・瀬川を境に寺林通と接していた。
「邦内郷村志」では向下根子・川口・花巻・南万丁目・北万丁目・下根子・上根子・西晴山・円満寺・膝立・湯口・鉛・下シ沢・豊沢川・鍋倉の15村、蔵分高9,126石余・給分高1,538石余、民戸1,606(安永9年(1780)改)、馬900(寛政7年(1795)改)。代官所は二子通と併せて管轄し花巻城下大工町の西、上町との間に置かれた。同じく花巻城下に代官所のある安俵・高木・八幡・寺林の4通を合せた6通は花巻通とも称された。
また当通はほかの稗貫・和賀2郡7通と同じく百姓一揆の多発地帯で、享保16年(1731)の坪役銭反対一揆、寛政7年(1795)の重税反対一揆、文化12年(1815)の減税一揆、天保8年(1837)の藩政改革要求一揆などが起きている。
(平凡社「日本歴史地名大系」(注3)【万丁目通】より)
高木通 (たかきどおり)
…東は遠野通、西は二子通・黒沢尻通・鬼柳通、北は安俵通、南は仙台藩領に接する。現在の(花巻市)東和町・北上市・花巻市の各一部にあたる。「邦内郷村志」では、立花(たちばな)・黒岩(くろいわ)・湯沢(ゆざわ)・平沢(ひらさわ)・更木(さらき)・臥牛(ふしうし)(現北上市)、東十二丁目(ひがしじゅうにちょうめ)・高木(現花巻市)、宮田(みやだ)・石持(いしもち)・中内(なかない)・駒籠(こまごめ)・浮田(うきだ)・倉沢(くらさわ)・小原(おばら)・砂子(いさご)・小通(こがよう)・毒沢(どくさわ)・鷹巣堂(たかすどう)・谷内(たにない)・田瀬(たせ)・小友(おとも)・町井(まちい)(現(花巻市)東和町)の23ヵ村が含まれ、総高9,200石余、うち給地4,678石余、家数1,926。…宝永7年(1710)1月からは、安俵通と高木通を合せて1代官となり安俵・高木通とされた。…代官所は花巻城下裏(うら)町に置かれていた(「花巻城郭図」花巻市史)。「御家被仰出」寛政10年(1798)条には、当通は花巻通とよばれて行政上の指示を受けている。花巻通とは、花巻城下に代官所が置かれていた二子・万丁目・八幡・寺林・高木・安俵の6通をさす。同書文化12年(1815)条に安俵・高木通代官所が城下裏町から花巻城代支配所内に移されたが、百姓等が迷惑だとして町方に戻されている。仙台藩領境の当通には立花・黒岩・浮田・田瀬・倉沢の各村に境番所が置かれていた。安永4年(1775)には安俵・高木通代官に米・豆・雑穀等の他領持出しを厳禁するよう命じている(藩法集)。天保8年(1837)の「惣高書上帳」(郷土史叢)では総高9,031石余、うち蔵分5,098石余・御免地40石余・給分3,893石余。
(平凡社「日本歴史地名大系」【高木通】より)
安俵通 (あひようどおり)
…東は大迫通、南は高木通、西は万丁目通、北は八幡通に接する。現在の(花巻市)東和町・花巻市の各一部にあたる。「邦内郷村志」では、南成島(みなみなるしま)・北成島・安俵・落合(おちあい)・小鹿生(こがよう)・館迫(たてはさま)・十二箇(じゆうにか)・晴山(はるやま)・上小山田(かみおやまだ)・下小山田(現(花巻市)東和町)、高松(たかまつ)・矢沢(やさわ)・幸田(こうだ)(現花巻市)の13ヵ村が含まれ(ただし小鹿生村は落合村に属するとある)、総高6,782石余、うち給地4,344石余、家数1,114、馬1,618。…天保8年(1837)の惣高書上帳(郷土史叢)では総高6,936石余、うち蔵分4,055石余・御免地28石余・給分2,853石余。
(平凡社「日本歴史地名大系」【安俵通】より)
八幡通 (はちまんどおり)
…西はほぼ奥州街道を境として寺林通、東は北上川左岸の山に至る。南は高木通、北は日詰通・長岡通に接する。現在の(花巻市)石鳥谷町・花巻市の一部にあたる。「邦内郷村志」によれば管内の村は21村で、黒沼村・西中島村・江曾村・八幡村・好地村・新堀村・滝田村・戸塚村・関口村・猪鼻村・八重畑村・東中島村・五大堂村(現(花巻市)石鳥谷町)、上似内村・下似内村・北飯豊村・田力村・柏葉村・庫理村・葛村・東宮野目村(現花巻市)。…
「邦内郷村志」では高18,056石余、安永9年(1780)改の家数1,249。文政4年(1821)の「領分産物書上」(盛岡市中央公民館蔵)によれば、八幡村より鮒、下似内村より砂金、五大堂村より白土、上・下の似内村より畳表を産し、領内諸村より粒かたくり・金茸・銀茸・胡麻を産するとある。八幡・寺林通代官所は花巻城下にあった。
文化14年(1817)には八幡通の百姓3、40人が盛岡藩の江戸藩邸まで越訴したとあり(「原始謾筆風土年表」)、盛岡藩の百姓一揆中で江戸藩邸まで直訴したのはこの一揆だけといわれる。天保3年(1832)、同7年には減税一揆が起きている。同8年の「惣高書上帳」(郷土史叢)では高10,935石余、うち蔵入高5,661石余。
(平凡社「日本歴史地名大系」【八幡通】より)
大迫通 (おおはさまどおり)
…東は早池峰(はやちね)山の山麓、西は八幡通・長岡通、南は安俵通、北は長岡通に接する。現在の(花巻市)大迫町全域と上閉伊郡宮守村(現遠野市)・紫波郡紫波町の一部にあたる。「邦内郷村志」によれば管内の村は7村で、亀ヶ森村・大迫村・内川目村・外川目村(現花巻市)、達曾部村・下宮守村(現宮守村(現遠野市))、下佐比内村(現紫波町)。「雑書」正保2年(1645)11月25日条に「大迫通御金山奉行」とあり、金山が稼行されている。…
「邦内郷村志」では高4,951石余、寛政12年(1800)改の家数1,728・人数8,672、馬3,161。文政4年(1821)の「領分産物書上」(盛岡市中央公民館蔵)によれば、粒かたくりは献上御用御買上あるいは御定役として11月上納とあり、達曾部村の岩垂氷、亀ヶ森村の石灰のほか、通内全体から黄蓮・竹節人参・天南星・独活・葛根・煙草・紅花・漆・真綿・皮茸・雪の下茸・青石・白石などが記される。天保8年(1837)の「惣高書上帳」(郷土史叢)では高4,737石余で、うち蔵高2,189石余。代官所は大迫村に置かれた。
大迫通では享保16年(1731)坪役銭反対一揆が起き、宝暦4年(1754)には御用金反対一揆が数百人を巻込んだ。寛政7年(1795)重税反対一揆が全領的に起きた際には、11月15日に数千人が呼応した。天保7年(1836)11月19日から20日の一揆では「大迫通五千石余之場所数ケ村御百姓共騒立」て城下へ迫り、「御上ミの御狼狽には千万浅ましき御下知に御座候、今にも乱世に及候ハバ一昼夜の内にも乗被取可」とあるように、非常に激しいものであった(以上「南部藩百姓一揆の研究」)。
(平凡社「日本歴史地名大系」【大迫通】より)
寺林通 (てらばやしどおり)
…東はほぼ奥州街道を境に八幡通、南は万丁目通に接する。現在の石鳥谷町(現花巻市)・花巻市の一部にあたる。「邦内郷村志」によれば管内の村は20村で、中寺林村・北寺林村・南寺林村・小森林村・松林寺村・大興寺村・長谷堂村・富沢村・大瀬川村(現石鳥谷町(現花巻市))、糠塚村・北湯口村・大畑村・湯本村・二枚橋村・台村・西宮野目村・狼沢村・椚ノ目村・小瀬川村・金矢村(現花巻市)。…「「邦内郷村志」では高11,811石余、安永9年(1780)改の家数728。文政4年(1821)の領分産物書上(盛岡市中央公民館蔵)によれば、台村よりつくはね、北湯口村より松皮紙、大瀬川村より起炭を産し、領内諸村より粒かたくり・金茸・銀茸・胡麻を産するとある。八幡・寺林通代官所は花巻城下にあった。天保8年(1837)の「惣高書上帳」(郷土史叢)では高11,835石余、うち蔵入高8,297石余。
(平凡社「日本歴史地名大系」【寺林通】より)
二子通 (ふたごどおり)
…笹間通とも称した(天和2年(1682)「惣御代官所中高村付」など)。…南部盛岡藩領内絵図(郷土史叢)では東は北上川、西は奥羽山脈を限り、南は後藤堰を境に黒沢尻通、北はほぼ豊沢川を境に万丁目通に接する。
「邦内郷村志」では二子・飯豊・成田・村崎野(現北上市)、栃内・笹間・横志田・尻平川・轟木・太田・十二丁目(西十二丁目)・外台(現花巻市)の12村が所属し、太田以下3村が稗貫郡、ほかは和賀郡に属した。蔵分高9,291石余・給分高4,976石余、民戸1,331(安永九(1780)年改)、馬1,582(寛政9年(1797)改)。
代官所は万丁目通と併せて当通を管轄し、花巻城下大工町の西、上(かみ)町との間に設置された。同城下に代官所のある八幡通など、ほかの4通と合せた6通は花巻通の異称でもよばれた。当通はほかの和賀・稗貫2郡7通と同じく百姓一揆の多発地帯で、…
(平凡社「日本歴史地名大系」【二子通】より)
黒沢尻通 (くろさわじりどおり)
…「邦内郷村志」では…、所属村は黒沢尻・藤沢、江釣子・鳩岡崎・北鬼柳・新平・滑田(現江釣子村(現北上市))、長沼・竪川目・横川目・藤根・後藤(現和賀町(現北上市))の12村。高12,774石余、うち蔵入高8,545石余・給地4,228石余。民戸1,166(安永9年(1780)改)、馬1,664。代官所は黒沢尻本(ほん)町に置かれた。享保20年(1735)から一つの代官所で鬼柳通と黒沢尻通を管轄することになり、代官所は鬼柳黒沢尻通代官所となった(岩手県史)。
当通を含む稗貫・和賀両郡の8通は百姓一揆の多発地帯とされる。おもなものは、享保16年(1731)の坪役銭反対一揆、延享元年(1744)の畑返し(新田開発)反対一揆、寛政7年(1795))の重税反対一揆、文化12年(1815)の減税一揆、文政7年(1824)の御買上米減免一揆、天保8年(1837)の藩政改革要求一揆、慶応2年(1866)の減税一揆などである。なかでも延享元年と天保八年の一揆は最も大規模であった。
(平凡社「日本歴史地名大系」【黒沢尻通】より)
鬼柳通 (おにやなぎどおり)
…「邦内郷村志」では…上鬼柳・下鬼柳、夏油・岩崎・岩崎新田・須々孫・山口(現和賀町)の7村が所属し、高6,397石余、うち蔵入高5,928石余・給地466石余(数値は史料のママ)。民戸614(安永9年(1780)改)、馬947(寛政9年(1797)改)。産物は鮭・鱒・鮎・紅花・根芹・起炭・片栗粉。享保20年(1735)からは本町に置かれた代官所で鬼柳と黒沢尻の両通を管轄することになり、鬼柳黒沢尻通代官所となった(岩手県史)。通の南部が仙台藩領と境を接しており境塚が築かれていた。下鬼柳村の鬼柳町には境番所・仮屋・宿駅があり、岩崎村にも中間番所および川留番所があった。
(平凡社「日本歴史地名大系」【鬼柳通】より)
沢内通 (さわうちどおり)
…東は寺林通・黒沢尻通・鬼柳通、北は雫石通、西は秋田藩領、南は仙台藩領。設置年代は不明だが、「雫石歳代日記」では沢内通代官が、栗谷川・向中野・雫石の三ヵ通代官兼務の大代官として発令されたのは万治元年(1658)で、寛文9年(1669)には沢内・雫石兼務代官が任命されている。同12年(1672)城半左衛門・本宿弥兵衛が沢内通の初代専任代官となる。沢内通の代官所を設置するため、延宝4年(1676))新町の町屋敷が割立てられ、天和2年(1682)に伊藤七兵衛・城弥三右衛門が新町の代官所役屋に赴任してきた(「沢内年代記」)。
「邦内郷村志」では、川舟・猿橋・太田・前郷・新町・大野、湯田(現湯田町(現西和賀町))の7ヵ村で、総高は4,081石余、うち蔵分3,874石余・給分206石余、家数1,034、馬1,281。…高冷地のため凶作常襲地帯であった。
(平凡社「日本歴史地名大系」【沢内通】より)
花巻城下 (はなまきじょうか)
…中世花巻城は鳥谷ヶ崎(とやがさき)城とよばれ、稗貫郡に勢力を張った稗貫氏の本城であった。天正18年(1590)以降南部信直領となり、城も花巻城と改称された。翌年信直は同城に郡代北秀愛を置き、和賀・稗貫2郡8千石を与えて仙台藩に対する警備の要とした。北氏は城の北西(?ママ)にあたる花巻村地内に四日町を開き、慶長18年(1613)には南の里川口村地内に川口町、続いて花巻村地内に一日市町を開いた。四日市は太田村の清水(きよみず)寺付近の市場を移して開いたという。この3町を花巻三町と称し、3町を中心に順次町場が拡大していく。また北西部外縁を中心に南西部・南東部にも寺院を配した。貞享年間(1684~88)以前北上川は城下北端辺りから西に向かい、南に曲流して城の北側を東流、里川口村の東に至って南に方向を変えていた。そのため花巻北町の一日市町・四日町はしばしば水害に悩まされ、正保年間(1644~48)初期から流路変更工事が試みられた。貞享3年(1686)郡代野々村宇右衛門らが付替工事に成功、…
花巻三町は盛岡藩では町方として扱われ各町に検断も置かれたが(岩手県史)、幕府に提出する郷帳類では花巻村・里川口村などに含まれた。享和3年(1803)の「仮名付帳」によれば、四日町の枝町として小久保町・新町・裏町、一日市町の枝町として坂下町・裏町・愛宕町、川口町の枝町として吹張町・新町・鍛冶町・大工町・裏町があった。ほかに御同心丁として吹張町・向御同心丁があり、吹張町の北部は北万丁目村、南部は南万丁目村、向御同心丁は下根子村に含まれた。花巻郡(城)代は、盛岡藩33通のうち八幡・寺林・二子・万丁目・安俵・高木・鬼柳・黒沢尻の8通を統轄し、代官所が花巻に置かれた。のち鬼柳と黒沢尻の代官所は黒沢尻本町(現北上市)に移り、文化-文政(1804~30)の「花巻城郭図」(花巻市史)では、南部の裏町に安俵・高木通代官所、南西部の大工町に二子・万丁目通代官所、北西部鍵町に八幡・寺林通代官所が置かれている。城詰の諸士も150~200人ほどいたといわれ(岩手県史)、城の南側外堀に沿って西片平小路・東片平小路、それらの南側に中(仲)小路・於(御)田屋小路などの諸士小路があった(「花巻城郭図」)。寛政(1789~1801)初年改の三町の家数966、組86、竈数108、人数3,930(邦内郷村志)。
三町には奥州街道の駅場が置かれた。一日市町には本陣にあたる東御仮屋・西御仮屋があり、参勤通行の際には同町・四日町ともに一般の通行は禁止され、裏町の通りを使用した(花巻市史)。奥州街道や遠野に向かう道、あるいは北上川花巻河岸からもたらされた米、三陸沿岸の海産物の集散地として賑った。寛政2年(1790)10月当村を往来した高山彦九郎は「黒沼 宮の目を過て瀬川なるを渡り花巻宿へ入る、家数八百軒、(中略)此辺南部領中にて田地よろしく花巻八万石と称する所也」(北行日記)と記す。北上川の為登荷(のぼせに?)である江戸・上方の商品を商う店も多く、安政2年(1855)の「東講商人鑑」には川口町に11軒、一日市町に2軒の商人が載る。なお川口町の岡田屋は稗貫・和賀2郡の粒かたくりの精製を一手に引受けた。…
(平凡社「日本歴史地名大系」【花巻城下】より)
[補足]
(注1) 「岩手県の歴史」:1999.8.26 山川出版社発行
(注2) 「邦内郷村志」:年代:明和(1764~)~寛政(~1801)年間、筆者:大巻秀詮
大巻秀詮は、花巻の人で、盛岡藩に仕え各地の代官を歴任した。本書は、郡町村の石高、戸数、人口、社寺などが記され、藩内の地誌として詳細なものである。はじめは6巻であったが、松井道円の著と伝えられる和賀・稗貫二郡の郷村志を加えて、8巻として流布した。
(注3) 「日本歴史地名大系 岩手県の地名」:1990.7.13 平凡社発行
(2015.12記/21.12改)