「東十二丁目誌」(注1)の「第7章 近代」(全81ページ)を、「東十二丁目」と「矢沢村」に留意しつつ考察してみる。第7章は明治維新から太平洋戦争の終結までを扱っている。
第7章 近 代
第1節 明治国家の確立から軍部支配の体制へ (概説)
・本節では近代をごく短く要約している。
・「東十二丁目」や「矢沢村」への言及はない。
第2節 近代年表
・この年表には、慶応3年(1867)の大政奉還・王政復古から昭和20年(1945)の太平洋戦争終結までの45件が載っている。
・その内、東十二丁目に直接関係する事項は次の14件である。
明治3年(1870) 村肝入が村長、村老名が副村長となり、古川半十郎氏東十二丁目村の村長となる
明治4年(1871) 盛岡県を39区に分け郡長を置く、東十二丁目は32区に属し、那須川隆二郎氏郡長となる
明治6年(1873) 小袋小学校創立、古川孫ェ衛門宅に開設す
明治12年(1879) 東十二丁目村・高木村戸長に古川勇助氏任命される
明治19年(1886) 小袋小学校を島小学校と改称す
明治22年(1889) 市町村制により4月 新市町村誕生、東十二丁目は高木、幸田、高松、矢沢と共に矢沢村となる
明治24年(1891) 島小学校独立校舎建設
明治29年(1898) 1月 島小学々校舎火災消失、11月 再建落成
明治44年(1911) 村内小学校を矢沢尋常高等小学校に統合、島小学校は島分教場となる
大正5年(1916) 島巡査駐在所を荒屋敷に設置す
大正14年(1925) 花巻-二子間定期バス運行開始
昭和3年(1928) 8月猿ヶ石発電所工事始まる
昭和18年(1943) 島渡舟場廃止
昭和19年(1944) 矢沢村農業会発足、会長に佐藤素一氏就任
第3節 明治維新と南部藩 (領地没収、白石転封)
・維新前後の南部藩の動向が記されている。
・東十二丁目への言及はない。
第4節 行政機構の動き (めまぐるしい変遷)
・明治元年(1868)の南部藩領地没収から大正12年(1923)の郡役所廃止まで、行政機構の目まぐるしい変遷が要領よく纏められている。
・東十二丁目、高木、高松、矢沢、幸田、5ヶ村の動向について、「7.5 なぜ「矢沢村」だったのか?」で考察する。
第5節 明治初期の村勢 (管轄地誌から)
明治初年に編集された「岩手県管轄地誌」から東十二丁目村の村誌全文が転載されている。
「岩手県管轄地誌」 編集経緯:
明治5年(1872)9月、政府は「皇国地誌」の編集を布告。同8年6月に「皇国地誌編輯例則并着手方法」を通達し、郡村誌の調査提出を命じた。
これを受けて岩手県より提出されたのが「巌手県管轄地誌」である。本県の創成期における岩手、紫波、稗貫、和賀、江刺、胆沢、磐井、気仙、閉伊、九戸、以上10郡分は明治12年に完成を見たが、のち二戸郡が青森県より移管されたことを受け、同郡分は明治18年に完成した。全県11郡642ヶ村からなる全11巻130冊の大著である。
歴史的分野の説明部分は、現在ではそのまま肯定できるものではないが、地誌としては各村の境域、沿革、地勢、字名、貢租、戸数、人数、牛馬、舟車、山川、湖沼、林野、道路、学校、社寺、物産、民業など、その叙述は多岐にわたる。
東十二丁目村の村誌には、文末に「明治9年 岩手県權中属・田代俊二編集」と記されている。
第6節 平民氏称の公認 (苗字を名乗る)
明治になって、どのようにして農民など平民の苗字が定まったのか、前から気になっていたのだが、本書には「どのようにして一人一人の苗字が決定されたものかの文書は不明であり、詳細は知る由もない」とあるのみ。
しかしこの私の関心は、明治以前は農民に苗字はなかった、との思い込みを前提にしたものだが、これは誤解であったらしい。「7.1 平民氏称」でそこいら辺の事情を考察する。
第7節 学校教育始まる (学制頒布、小袋小学校開校、島小学校の歩み)
明治6年(1873)に開校した小袋小学校が、高木尋常小学校との合併期を経て、明治21年(1888)島尋常小学校となった。
「7.2 明治の島小学校」に島区民会編「島小百年史」(S48.11.3 同会発行)から「島小の明治時代」の抜粋を転載する。
第8節 地租改正と村の税額 (地券の交付、村の経費)
・「地券の交付」では、維新後の土地制度と税制の改革という大問題を扱っているのだが、東十二丁目村の明治12年(1879)の税額を国税(田税、畑税、宅地税)と地方税別に記すのみである。
このような大変革がどのように進められたのか、東十二丁目村の資料はないようである。
・「村の経費」では、上記地方税に対応するその使途の参考として、明治5年(1872)の村費の明細が記されている。
上記税額は円・銭・厘単位であるのに対して、村費の方は貫・文・分と石・斗・升単位で記されている。貨幣制度改革の推移も興味深い。
「7.3 両から円へ」では新貨幣制度への移行について考察する。
・抑々(そもそも)明治維新が、東十二丁目の村民にどのように受取られ、日々の暮らしにどのような影響があったのか? 知りたいところであるが、これに応える資料もないようである。
第9節 山林等の調査 (山の所有、調査実施)
第10節 官地借用 (草地等官地になる、官地借用申請)
・この2節では、山林原野等の土地(田・畑・居屋敷(宅地)以外の土地)に関する事柄を取上げている。
・第9節に「藩政時代の山林原野は…藩の直轄支配となった」とあるが、田畑についても知行地以外に藩の直轄地はあった。山林原野の直轄支配とはいかなるものだったのか?
・明治10年(1877)の調査によれば、民有の山林原野等は合計65町4反(64.8㌶)余、その他に山 15ヶ所、野 18ヶ所とある。一方官地の内、採草地などのために村(民)が借用した土地が合計77町4反(76.7㌶)余あったという。
・東十二丁目の現在の山林原野(およそ338㌶)はほとんどが私有地と思われるが、どのような経緯を経て現在の所有形態になったのかも知りたいところである。
「7.4 山は誰のものだったか?」で藩制時代から明治時代以降に至る山林等の所有形態の推移について考察する
第11節 舟渡場 (北上川を渡る)
・本節に「私(著者)達が小さい頃、長根に船場(ふなば)があった。花巻に行く時朝日橋を渡るか、…舟場から舟で渡るか、どちらかによった。」とある。
・私が小学生の頃にも「舟場」と呼ばれていて、岸に舟が繋いであったが、舟漕人はいなかった。舟場は、川沿いに何ヶ所かある子供たちの水浴場(みずあびば)の一つだったが、桟橋などはなく岸から直ぐ深くなり、上級者向き(?)の水浴場であった。私のように泳ぎの苦手な者には少し怖い所だった。
第12節 五ケ村合併 (町村制施行、合併後の役職名)
・明治22年(1889)4月町村制の施行によって、矢沢、高松、幸田、高木、東十二丁目の旧5ヶ村が合併し、新たな矢沢村が発足した。
・何故この5ヶ村が合併することになったのか?そして合併後の村名として「矢沢村」が採用されたのは何故なのか?
・明治維新後、行政機構はめまぐるしく変遷したが、町村制施行前の矢沢地区5ヶ村は高木村にあった戸長役場の管轄下に置かれていた。
・藩政時代、稗貫郡下の村々で安俵高木通に属するのが矢沢地区5ヶ村であった。
・合併当時、人口最大なのが東十二丁目村で、面積最大は高松村であった。
□(元々は高木村が人口最大であったが、この合併に当り北上川右岸の小船渡が花巻町と里川口町に分合されたため、高木の人口が東十二丁目の人口をわずかに下まわることになった。)
・合併後何故「矢沢村」とされたのかについて、「7.5 なぜ「矢沢村」だったのか?」で考察する。
第13節 日清戦争と日露戦争 (日清戦争勃発、日露戦争開戦)
第14節 八甲田山の遭難 (弔忠碑、遭難の状況)
・東十二丁目からは、日清戦争に5名従軍、日露戦争に30名従軍(2名戦死)。
・高倉健が主演した映画でも知られる八甲田山の遭難で、東十二丁目出身者1名が犠牲になった。
第15節 消防の組織 (村の自警、消防組の結成)
・消防団(昭和22年6月までは「消防組」)の組織の変遷が述べられているが、簡潔に過ぎて理解し難い。
第16節 猿ケ石発電所 (発電所の建設)
・昭和5年(1930)に運用を開始した猿ヶ石発電所は、北上山地の西麓、東十二丁目の更木との境近くにあり、猿ヶ石川から取水し北上川に放水する水力発電所である。現在は無人運転されており、認可最大出力3,100kw、常時出力2,100kw。
・本書の著者・石崎先生が若い頃、この発電所の工事現場で帳付(ちょうづけ、事務係)をしていたことがある。
第17節 事変の発端から戦争終結まで (満州事変、日中戦争、太平洋戦争、従軍者名簿から)
・本節は満州事変(昭和6年(1931)~)、日中戦争(昭和12年(1937)~)、太平洋戦争(昭和16年(1941)~昭和20年)のそれぞれについて簡潔に解説しているが、東十二丁目に関しては戦没者51名と生存帰還者146名の名簿を掲げるのみである。名簿には氏名の他、出身部落、所属部隊、行動地区、戦没年月日または勤務期間が記されている。
・「7.6 東十二丁目の大東亜戦争」でこの名簿の分析を試みる。
・戦時中の東十二丁目の暮らしがどのようなものであったのか、知りたいところであるが、何も記されていない。
・私は昭和19年12月に樺太から東十二丁目に引き揚げてきた。
空襲警報、防空壕、そして花巻空襲(注2)の時だったのか、梨棚の下への避難…などが、私の記憶の中に今も微かに残っている。満4歳になって間もないころの夏の思い出…
第18節 青年会の活動 (島青年農会の発足、島青年報徳社と改称、島青年会となる、青年団活動)
第19節 婦人会活動 (島良導婦人会発足、矢沢婦女会連合会創立、活動の概要、市婦協創立、島支部の活動)
・青年会について、島青年農会が発足した明治33年(1900)から大正9年(1920)までについて述べられているのみ。
・婦人会については、明治45年(1912)の島良導婦人会の発足から昭和29年(1954)の花巻市誕生に伴う矢沢連合婦人会の組織化までを記しているが、昭和15年から昭和28年までの記録を欠いている。
・私の小学校時代(昭和20年代)は、青年会による映画会の開催とか、婦人会が中心になった演芸会とか、両会の活動は活発だったように思うが、資料が残っていないということか。
本章では昭和16年(1941)に東十二丁目有志によって編纂された「島郷土史」が何度か参照されている。「7.7 「島郷土史が目指したもの」にその編纂経緯と概要を記す。
[補足]
(注1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(注2) 花巻空襲:昭和20年(1945) 8月10日、北上市後藤野の岩手飛行場や花巻市街に米軍の艦載機グラマン15機が飛来、午後1時半ごろから500ポンド(約227kg)爆弾等20発以上を投下、市内の各所を機銃掃射した。花巻駅は鉄道のレールや駅を破壊するために、多くの爆弾が投下され駅や機関車などを爆破。
焼失家屋 673戸、倒壊家屋 61戸、死者 42名、負傷者 約150名と記録されている。
市内北部の似内駅には、鉄道の機能を止めるためにロケット弾が投下され、ちょうど駅に止まっていた電車の3両目にロケット弾が命中した。また一部のロケット弾がそれて近くの民家を直撃し多くの死傷者が出た。
この空襲では、宮沢賢治の生家が焼失し、高村光太郎は炎の中を逃げ惑った。
(2018.10記/21.10改)