石崎直治著「東十二丁目誌」(H2.2.28 同人発行)の「第9章 現代(戦後)」を概観する。
第9章は31ページを占めるが、「東十二丁目誌」全390ページの8.5%に過ぎない。
第9章 現代(戦後)
第1節 戦後処理から民主的再建へ (概説)
本節では昭和20年のポツダム宣言受諾から昭和末期の高度成長期終焉までをごくごく簡潔に要約しているが、東十二丁目や矢沢村への言及はない。
終戦時の東十二丁目の動きなどを知りたいところであるが、資料がなかったためか何も記されていない。
当時著者は出征中で、中国湖南省の洞庭湖上で終戦を迎えた。東十二丁目に帰還したのは昭和21年6月であった。(注1)
第2節 現代年表
この年表には昭和22年(1947)の教育基本法等の公布から昭和63年(1988)の胡四王山南斜日時計花壇完成までの49項目が記されているが、東十二丁目に直接関わる事項は次の11項目。
昭和23年(1948) 4月、矢沢小学校島分校を廃止、島小学校となる。
29年(1954) 島保育園開園
31年(1956) 島保育園増築工事
34年(1959) 東十二丁目・高木に電話架設
36年(1961) 高島道路一部改良舗装
38年(1963) 北上川左岸矢沢堤防工事着工、48年完成
42年(1967) 3月、花巻警察署島駐在所廃止となる。
47年(1972) 4月、矢沢小・矢沢二小・島小が統合、矢沢小学校となり、
島小学校は島校舎となる。
49年(1974) 矢沢小学校統合校舎完成、島校舎は廃止となる。
56年(1981) 花巻機械金属工業団地操業開始
61年(1986) 12月、農免南大橋着工
第3節 農地改革 (農地の解放命令)
本節には農地改革の簡単な説明と矢沢村における成果面積が記されているのみで、東十二丁目に直接関係する記述はない。
第4節 島区民会 (区民会の発足、役員、事業概要)
島区民会は戦後まもなく(昭和23年以前)結成され、現在でも東十二丁目の部落自治の中核組織として機能している。(「島」は東十二丁目の別称)
本誌には年表風の事業概要と昭和25年度以降の正副会長の名簿が記されている。
全くの私事だが、この名簿に25~26年度の会長に私の祖父、55~60年度の会長に父の名があるのを見て、何がしかの感慨を覚える。
第5節 老後を豊かに (島後楽会誕生、後楽会の動き)
昭和41年に結成された島地区の老人クラブ「島後楽会」の活動概要と歴代の会長名が記されている。
第6節 台風襲来 (台風と災害)
戦後間もない昭和22年(1947)9月に起った、カザリン台風による大洪水について詳しく述べられている。なお翌23年9月にはアイオン台風のため再び洪水に見舞われたが、こちらの記述はない。
第7節 市制が布かれ花巻市となる (花巻市の沿革、市章、市の木と市の花、花巻市民憲章)
本節に東十二丁目への言及はない。
第8節 島保育園 (保育施設の開設、沿革概要、現況)
島小学校の跡地に建つ島保育園の沿革と昭和63年(1988)当時の現況が記されている。児童数が年長組(5・6才)、年中組(4・5才)、年少組(3才)、未満児組(2才)を合わせて62名、職員が園長 1名、保母 4名、調理師・事務係 各1名の合計 7名であった。
なお園舎が令和元年(2019)に改築された。
第9節 土地改良事業 (土地の基盤整備)
本節では当時の高木島土地改良区(注2)の事業概要(東十二丁目分)が述べられており、昭和33年度から63年度までの46事業について年度、地区名、事業規模、総事業費、補助金額が記されている。
総事業費は1,224百万円余で、その内国と県からの補助金が845百万円余とあるので、残り379百万円余が改良区、ひいては組合員(農民)の負担ということか。
東十二丁目の土地改良区は高木島土地改良区だけではなく、部落の南端に更木島東部土地改良区の受益地区がある。
高木島が灌漑用水を高木島用水路から得ているのに対し、更木島東部は猿ヶ石発電所の放流水から得ている。いずれにしても水源は猿ヶ石川である。
後年土地改良区は合併統合が進められ、現在では高木島と更木島東部各土地改良区は各々豊沢川土地改良区と岩手中部土地改良区の一部になっている。
第10節 北上川に堤防 (矢沢堤防建設)
東十二丁目内の北上川左岸堤防のうち、北半を占める矢沢堤防(全長1,800m)について工事概要等を記しているが、南半の更木堤防については「着工建設を終っている」とあるのみ。
第11節 小学校の統合 (統合新校舎建設)
矢沢地区の3小学校が統合されることになり、昭和47年(1972)度末で島小学校が閉校、但し新校舎完成まで島校舎として従来通り授業は継続した。49年4月から統合校舎で授業が開始された。
第12節 新農構改善事業実施 (村づくりの基盤整備)
「新農構改善」とは「新農業構造改善」のこと。
農村地域構造改善事業として昭和54年(1979)度から58年度までに行われた事業の概要が記されている。
第13節 工業団地造成 (10社操業、体育館建設)
北上山地西麓にある工業団地造成の発端が新幹線トンネルの掘削残土だったとある。
昭和56年(1981)に工場建設が始まり、62年には10社の進出が完了した。
なお現在は13社が操業しており、団地の拡張工事も行われている。
本稿の冒頭に掲げた写真(GoogleMap 2019.12)で、中央から右手奥(南東方向)に工業団地が広がる。左側には農免道路が、さらに左下には歓喜寺が見える。また下側には工事中の県道バイパスが横(南北)に延びる。
第14節 市水道施設 (市水道に全戸加入)
東十二丁目の上水道施設は、花巻市上水道第5次拡張事業(昭和56年(1981)度に着手し60年3月に完成)の一環として実現した。本誌にはこの施設の規模、工事費等が記されている。
一方下水道は本誌の発行後数年を経た平成6年(1994)度に完成し供用開始された。東十二丁目の下水道供用区域は「長根地区」と呼ばれ、花巻市で最初の「農業集落排水事業」であった。対象人口 1690人、戸数 369、管路 19.6㎞。
ところで何故この区域が「長根地区」と呼ばれたのか? 不可解である。「長根」は東十二丁目の一小部落の名称で、クリーンセンター(汚水処理場)の所在地でもない
第15節 道路網の拡充 (進む道路整備)
本節では東十二丁目を通る県道(主要地方道)・花巻北上線をはじめとする主な道路5路線について概説している。ちょっと混乱するが「市道の高木・穂貫田線」とあるのは通称「高島道路」のこと。
更に当時建設中の農免道路(注3)について記されており、「卸売市場(北上川西側)と生産地(北上川東側)を結ぶもの」とあるが、その後工業団地の立地などがあり、通勤道路としての役割も増している。
この道路は県の事業として建設された農道であったが、現在では市に移管され市道になっている。(注4)
その後令和2年に至り、東十二丁目を南北に縦断する県道島バイパスが開通した。「9.1 県道島バイパス開通」に報道された関連記事を転載する。
また道路ではないが、東十二丁目の南部を東西に横断する高圧送電線が平成29年に運用を開始した。この送電線について「9.2 高圧送電線路 北上東線」で解説する。
[補足]
(注1) ⇒「石崎先生の復員から退職まで」(https://hitakami.takoffc.info/2014/12/mr_ishizaki_2)参照
(注2) 土地改良区:土地改良法に基づく土地改良事業を施行することを目的として同法に基づいて設立された法人である。
⇒「土地改良区」(https://www.maff.go.jp/j/wpaper/w_maff/h24_h/trend/part1/chap3/c3_9_04.html)参照
(注3) 農免道路:農免農道ともいい、農業用道路(農道)の中の一つである。「農免」は道路の使用目的や機能による分類、構造や形式による分類ではなく、この道路が作られた理由や建設費の財源によるものである。
「農免道路」とは詳しくは「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業による農道」ということで、農林漁業用揮発油税を免除するという意味からこのように呼ばれている。これでも分かり難いが、詳しくは
⇒「農免道路(農免農道)の意味や…」(https://car-moby.jp/article/car-life/useful-information/noumennoudou/)参照
(注4) 農免道路の市道移管:県により建設された農免道路は順次市に移管され、平成10年3月までに全体が市道になった。移管後の市道路線名は東から西へ、①中道・平良木(ひららき)線 ②小袋・荒屋敷線 ③成田東縦断線 ④山の神・成田線。
全体で6.25km程の短い道路ではあるが、県道284号線(花巻田瀬線)から高松平良木で西に入り、猿ヶ石川を渡り(猿ヶ石橋)、間もなく北上山地の支脈をトンネルで横断し(大沢トンネル)、更に西に向かい北上川を渡り(花巻南大橋)、国道4号線の公設市場口交差点に至る2橋梁1隧道を有する贅沢な(?)路線である。
なお猿ヶ石川西岸から西方600m程、トンネルの中央付近までは北上市域内にある。
(2019.12記/22.3改)