満州から胡四王山へ!?

[プロローグ] 6-7年前、生前の父との会話 :-
父 「お前が中学生の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
私 「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。大体「矢沢」は知っていても、「幸田」なんて知らなかったのでは。ところで何故?」
父 「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったんだ。」
私 「終戦後の満蒙開拓団の引揚げのことかな?」
父 「いや違う。ずっと大昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。ちょっと待って…この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
私 「…そんなことは書いてないなあ。 [全文を読む]

近世稗和拾通略図

盛岡・八戸両藩において、藩政期を通じてみられる特徴の第一は、「通(とおり)」という独特の代官統治区域を設けていたことである。盛岡藩領は広大ではあったが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、生産力も乏しかった地方である。しかもそういう状況のなかに村落が点在していたわけであるから、他藩のように郡からただちに村を行政単位とするには不都合な面か多かった。そこで特別な地方行政組織「通」が考えだされた。 [全文を読む]

古代・中世の稗貫郡と稗貫氏

(「角川日本地名大辞典 (3) 岩手県」(1985.2.)より)

〔古代〕奥羽山脈の東麓に発して、花巻市西辺において北上川に注ぐ川に豊沢川というのがある。これを「遠胆沢川」の意味に解し、この方面を古代「遠胆沢」というふうに呼んだ名残りと考える説は、江戸期からあった。おそらくこの説は正しいので、古代は、和賀・稗貫方面は、「奥胆沢」の意味で、遠胆沢のように呼ばれていたのではなかったかと推定される。 [全文を読む]

通・とおり -近世の稗貫・和賀郡-

…広大な領域からなる盛岡藩には、通(とおり)という独特の代官統治区域が設けられていた。この通制度は領内総検地が進められた寛文6年(1666)から天和3年(1683)までの間に完成し、享保20年(1735)には領内10郡587ヵ村を33通に分割し、1通1代官所を原則として25代官所に整理したという。しかし、その後も新設・統廃合が行われ、25代官所に確定するのは寛政4年(1792)からである。…
(吉川弘文館「国史大辞典」【盛岡藩】より)

稗貫・和賀両郡には次の10通があったが、その内4通が複数郡にまたがっている。 [全文を読む]

稗貫郡消滅 -近・現代の稗貫郡-

平成の大合併の一環として、平成18年(2006) 1月1日に稗貫郡大迫町と石鳥谷町が和賀郡東和町と共に花巻市に合併し、新制の花巻市が発足しました。そして両町は稗貫郡から当然に離脱し、稗貫郡に属する町村がなくなり、同郡は「消滅した」と言われます。

官報 第4139号 (H17.7.21)
官報 第4139号 (H17.7.21)

「稗貫郡が消滅した」とはどういうことなのか!? [全文を読む]

稗貫・和賀、百姓一揆の郷

先日帰郷した際に、旧友のS君から「稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる」と題した本を貰いました。この本は「稗貫・和賀の百姓一揆を語る会」が昨年7月に出版したもので、地元・花巻の書店では週間ベストセラーの第一位になったことが何回かあったようです。百姓一揆の跡を訪ねる

何故 「百姓一揆」をテーマにした本が今花巻で出版されたのでしょうか?
この会の金野会長が「はじめに」の中で次のように述べています。 [全文を読む]