「東十二丁目誌」補解の補覚書:
回想の北上川

▪ 瀬音
私が小学生や中学生だった頃(昭和30年前後)の思い出…
夜中にふと目が覚めると、北上川の瀬音がかなり大きく近くに聞こえることがあった。
我家の西側5~600mのところを北上川が北から南に流れており、少し下ったところに浅瀬があった。その浅瀬を流れる水の音だと思うが、普段は聞こえない。水位の加減なのか、風向きのせいなのか、湿度とか気温が関係しているのかもしれない。妙に今でも耳に残っている。

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回想の北上川

「東十二丁目誌」補解の補覚書:
堤防考

堤防が北上川左岸(東側)を朝日橋から南方に北上市方面へと続いており、堤防の上は自転車専用道路になっています。朝日橋から東十二丁目北端まで約1.6km、東十二丁目地内の堤防延長が約2.5km。
「東十二丁目誌・補解の補」では、この「堤防」が「水害」と共に主要なテーマの一つになると考えているのですが、なかなか資料が見つかりません。
本稿ではこの堤防について、これまでに分かった事や気になっている事をメモ風に記すに止めます。

▪ 堤防の概要
岩手河川国道事務所からの2024年2月29日付回答によれば、
矢沢堤防概況:
  位置  起点 距離標 86.0k + 120m (花巻・北上市境)
      終点 距離標 90.2k + 230m (朝日橋)
         長さ  4.31km(注1)(注2)
  施工年  着手 昭和38年
       完成 昭和48年

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堤防考

「東十二丁目誌」補解の補覚書:
カスリーン台風とアイオン台風

私の台風の思い出
終戦直後の昭和22年と23年に東十二丁目(以下「東十二丁目」の別称「島」と記す)は台風による水害に見舞われた。22年がカスリーン台風、23年にアイオン台風。当時はカスリーン台風をキャサリン台風と呼んでいたように思う(注1)。私は23年の小学校入学なので、小学校入学の前後、77~8年も前のことである。自分の断片的な記憶を辿ってみると、カスリーン台風だったのかアイオン台風の時だったのかは定かでないが…

○我家があった荒屋敷部落の北側 300m位のところに長根部落がある。その間は低地になっていて、普段は田や畑なのだが、その時は濁水に満たされ、水が東から西に流れていた。水流の強さまでは記憶に無いが、色んなものが流れ来り、流れ去っていった。

木や草の塊が次から次へと流れていく。鎌首をもたげた蛇が泳ぐだか流されるだかしていく。小さな小屋が流されていく。その小屋の屋根の上では山羊だったか犬だったかが鳴いていた。
この濁流の流れているところが昔の北上川の河道跡と知ったのは大分後のこと。

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カスリーン台風とアイオン台風

北上川 -日高見(ひたかみ)とは何か-

◆北上川名称の沿革◆
(東北地建岩手工事事務所編「北上川 第一輯」(S48.3 同所発行)より)

はじめに
北上川は、その源を岩手県の北部山塊の中に在る北上山御堂観音の境内より湧出し、丹藤(たんとう)川等北上、奥羽両山脈より発する大小幾多の支川を合せ、岩手県を北より南へ貫流し、一関市地内狐禅寺(こぜんじ)において狭窄部へ人り、山の内26㎞を流下し宮城県に入る。…

北上川の名は、古来その呼ぶ所種々あり、北上川の文字を当てるに至ったのは鎌倉初期を以って上限とされ、それ以前における称呼は時代と共に推移するところである。 続きを読む 北上川 -日高見(ひたかみ)とは何か-

賢治の見た北上川

(小沢俊郎著「北上川に沿って」(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 学藝書林)より)

…(註1)…本流についてはどうだろう。学生時代の北上川観を見ることは、また盛岡附近の北上川観になろう。ただし、「北上川」の名が最初に出てくるのは、

そのおきな / をとりをそなへ / 草明き / 北上ぎしにひとりすわれり

である。大正3年4月作だから、中学卒の在花巻時代の作になる(註4)。盛岡での作には、

北上は / 雪のなかより流れ来て / この熔岩の台地をめぐる  (大五・三より)

というスケールの大きい歌などがある。…
しかし、そのあといくらも経たぬうちに賢治の北上川観は変る。いや、盛岡の北上川に対し花巻の北上川が異なるのだといってもいい。 続きを読む 賢治の見た北上川

平将門 -将門は北上川を見たか-

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(海音寺潮五郎著「平将門(上)」(S42.5.30 新潮文庫 か-6-1)より)

北上メノコ
陸奥に鎮守府がおかれたのは、奈良朝の神亀(じんぎ)・天平(てんぴょう)の頃であった。この時代、この地方は蝦夷の天地で、日本民族の完全な領土ではなかった。鎮守府は、この辺境地帯の総督府と前進基地とを兼ね設けられたのであった。
はじめ今の宮城県塩釜市の近くの多賀城に設けられたが、平安朝になって、胆沢に移された。今の岩手県水沢市佐倉河町がその故地であるという。
神亀・天平の頃から、この時まで七十年の間に、約二十五里だけ前進基地が進んだわけである。
その後、この小説の時代よりずっと後、奥州藤原氏がおこって鎮守府将軍となり、平泉にうつすまで、鎮守府はここにあった。
胆沢の鎮守府は、今胆沢八幡のある場所にあったという。北に胆沢川があり、東に北上川があって、その合流点に位置する形勝の地である。

下総の豊田からここまで百三四十里、二十日ほどもかかって、小次郎(将門)はついた。坂東ではまだ暑いさかりであったが、ここはもう深い秋であった。 続きを読む 平将門 -将門は北上川を見たか-