北上川 -日高見(ひたかみ)とは何か-

◆北上川名称の沿革◆
(東北地建岩手工事事務所編「北上川 第一輯」(S48.3 同所発行)より)

はじめに
北上川は、その源を岩手県の北部山塊の中に在る北上山御堂観音の境内より湧出し、丹藤(たんとう)川等北上、奥羽両山脈より発する大小幾多の支川を合せ、岩手県を北より南へ貫流し、一関市地内狐禅寺(こぜんじ)において狭窄部へ人り、山の内26㎞を流下し宮城県に入る。…

北上川の名は、古来その呼ぶ所種々あり、北上川の文字を当てるに至ったのは鎌倉初期を以って上限とされ、それ以前における称呼は時代と共に推移するところである。 [全文を読む]

賢治の見た北上川

(小沢俊郎著「北上川に沿って」(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 学藝書林)より)

…(註1)…本流についてはどうだろう。学生時代の北上川観を見ることは、また盛岡附近の北上川観になろう。ただし、「北上川」の名が最初に出てくるのは、

そのおきな / をとりをそなへ / 草明き / 北上ぎしにひとりすわれり

である。大正3年4月作だから、中学卒の在花巻時代の作になる(註4)。盛岡での作には、

北上は / 雪のなかより流れ来て / この熔岩の台地をめぐる  (大五・三より)

というスケールの大きい歌などがある。…
しかし、そのあといくらも経たぬうちに賢治の北上川観は変る。いや、盛岡の北上川に対し花巻の北上川が異なるのだといってもいい。 [全文を読む]

平将門 -将門は北上川を見たか-

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(海音寺潮五郎著「平将門(上)」(S42.5.30 新潮文庫 か-6-1)より)

北上メノコ
陸奥に鎮守府がおかれたのは、奈良朝の神亀(じんぎ)・天平(てんぴょう)の頃であった。この時代、この地方は蝦夷の天地で、日本民族の完全な領土ではなかった。鎮守府は、この辺境地帯の総督府と前進基地とを兼ね設けられたのであった。
はじめ今の宮城県塩釜市の近くの多賀城に設けられたが、平安朝になって、胆沢に移された。今の岩手県水沢市佐倉河町がその故地であるという。
神亀・天平の頃から、この時まで七十年の間に、約二十五里だけ前進基地が進んだわけである。
その後、この小説の時代よりずっと後、奥州藤原氏がおこって鎮守府将軍となり、平泉にうつすまで、鎮守府はここにあった。
胆沢の鎮守府は、今胆沢八幡のある場所にあったという。北に胆沢川があり、東に北上川があって、その合流点に位置する形勝の地である。

下総の豊田からここまで百三四十里、二十日ほどもかかって、小次郎(将門)はついた。坂東ではまだ暑いさかりであったが、ここはもう深い秋であった。 [全文を読む]

花巻の河道移動

(「北上川 第6輯」(S52.3.19 東北地方建設局岩手工事事務所)より)

第一部 北上川流域の自然
第四編 河道変遷
第二章 旧河道と変遷
第二節 各論
五、稗貫地方

(二) 花巻地区
kitkami_rv_hnmk花巻市所管地内上流部における北上川は、稗貫郡石鳥谷町地内より南流し来り、市町界東雲橋を経て、同市元葛村地先で東流に転じ、同田力村を北より東に彎流し、更に、同庫理、上似内の二村の東岸を南西流し元下似内村地先に至り、流路を南に転じ朝日橋を経て豊沢川合流点等に至るところである。 [全文を読む]

東十二丁目付近の河道移動

(「北上川 第6輯」(S52.3.19 東北地方建設局岩手工事事務所)より)
第一部 北上川流域の自然
第四編 河道変遷
第二章 旧河道と変遷
第二節 各論
五、稗貫地方

北上川河道(一)外台地区
花巻市東郊における北上川は、市街地の北方、同市高木蛇子塚において左支猿ヶ石川を合流し、同地先を南流して朝日橋を過ぎ、右支豊沢川を入れ、更に、同市南郊外台(右岸)東岸に沿うて南下し、その南端附近に至り流向を南東に転じ、左岸同市東十二丁目朴田地先に至り、再び、南流となり北上市更木、市ノ川原を経て、同舟渡地先を西より南に迂廻し、更に、同野沢地先で三度南流に転じ北上市立花方面に南下するところである。 [全文を読む]

北上川概観

このサイトでは北上川の中流域を中心に見ていくつもりですが、まずは北上川の全体像を俯瞰しておきます。

(「北上川 第一輯」(S48.3 東北地方建設局岩手工事事務所)より)
北上川水系図概要
北上川は宮城、岩手両県に跨る東北地方第一の大河川にして、源を岩手県岩手郡岩手町御堂に発し、北上、奥羽両山脈から発する大小幾多の支川を合せ、岩手県を北から南に縦貫し、一関下流の狭窄部を経て宮城県に入り、柳津地先で新旧両川に分流され、新北上川は追波に、旧北上川は石巻港に注ぐ、幹川流路延長 250.587km、流城面積 10,244.68k㎡の大河である。… [全文を読む]