(島区民会編・発行「島小百年史」(S48.11.3)より)
このたび島小学校百年誌の編集特に草創時代明治初期の編集にたずさわってみて、わが郷土島部落の初期における子弟教育のため長い間物心両面から多大な尽力をなされた古川宗家(屋号「孫左エ門殿」)の南米移住、及びその後の動向を追録してみるのも意義のあることであり、また編集者たる私(押切省三)の責任だと思い聞き得た範囲で書き残します。
近郊で名だたる名家であり、富豪であって、私塾時代に尽くされた忠栄氏が、私塾を開いたのはまことに先見の明があった方で、続いて小袋小学校時代に教鞭を取られた茂兵衛氏、その長男の忠直氏と次第に時代の風波に抗しきれず、大正末期に忠直氏が弟と共に南米移住することになったのです。それはもちろん生活に困ってという事ではなくて、古川家の血をひく雄図、気慨が根底になっていたのに加えて、弟永助氏の勧誘が最大の原因だったといわれています。
茂兵衛氏には四男一女があり忠直氏はその長男として移住の時は中年で血気盛んな時だったらしい。同行したのは忠直氏夫妻と、子息の忠助氏と子女八重子、さらに永助氏夫妻は長女と長男の仁を伴い合計八人でした。
出発の際は彼の地で奮闘成功の暁には帰るといって別れを惜んで行かれたそうだが、住めば都であり、また彼の地で成した地位や資産は簡単に処理も出来ない事情もあってついに永住の状態が続いて今日に至っている。
渡米当初には苦境時代もあったようだが、奮闘努力日本移住民の先駆者として活躍の基を築いて、忠直夫妻は80才余の高令ですでに永眠し、南アメリカ洲、ブラジル国サンパウロ洲、ブラガンサパウリスタの地の堂々たる古川家の墓の下に眠り、渡米当時同行した子息忠助氏も古稀に近く、一族も次第に多くなり共に力を合わせて、現在(昭和48年)は大農場を経営している様子で、ご同慶に堪えない次第です。
弟永助氏一家はサラリーマン生活でこれも成功しておられるようです。島小学校百年誌編集に当たって謹んで往年の恩徳に感謝すると共に同家および系累の皆さんの今後のご多幸を心から祈念したいと思います。
[補足]
(1) 古川忠直氏一行がブラジルに渡航した時期を、本文では「大正末期」としているが、後述するニッケイ(日系)新聞の記事では「1929(昭和4)年渡伯」となっている。
(2) 私の母(1922(大正11)年生)は孫左エ門殿の分家の出だが、子供の頃年始の挨拶などで本家に行くことがあり、広く立派な庭が今でも記憶に残っているとのこと。当時はお婆さんが一人で住んでいて、下男一家が身の回りの世話をしていたらしい。このお婆さんは忠直氏の母親か。
(3) 忠直氏の孫・古川長氏の活躍が2005年に「ニッケイ新聞」で紹介された。
□ ⇒「サンパウロ州の刑務所管理を担う=古川長官は日本人気質」
(4) 10年程前、忠直氏の子孫が東十二丁目を訪問されたが、突然のことだったためか、大したもてなしも受けずに帰られたらしい。そのことを後で知った父は、「知っていれば歓迎したのに…」と悔やんでいた、とは母の言。
この訪問者が古川長氏だったのかもしれない。
(5) 部落では古川一族の総本家に当る家の当主が、大正末期に家族共々ブラジルに移住したのにはどんな理由と覚悟があったのか?今となっては知る術もないが、メキシコで活躍する照井亮次郎の動静も少なからず影響したのではあるまいか。
総本家の当主が欠けた後は、主だった分家による集団指導体制で事に当っていたようだ。しかしそれも今は昔の物語…
(6) 上の写真は「小袋稲荷神社」。小袋地内旧古川孫左衛門屋敷にあり、同家の内神様であったと云われるが、南米移住後小袋部落全戸が氏子となり尊崇している。本尊は正一位稲荷大明神で、堂は1間に5尺、…棟札が1枚あり、「文久元載辛酉九月、大工棟梁寄進古川善十郎、別当善助」の記載がある。(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)
(2014.6.28掲)
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