日墨協働会社略史

– 三奥組合設立から日墨協働会社解散、日墨貿易会社設立まで –

1901(明治34)  亮次郎 27才
3月4 三奥組合設立(任意組合)
組合員  照井亮次郎、高橋熊太郎、清野三郎(以上3名、自由移民出身)、有馬六太郎、山本浅次郎、鈴木若(以上3名、契約移民出身)の6名
理事(組合代表者)  照井亮次郎
事業規模  小店2軒、農場1個所(多福岡(タフコ))、資産金合計2,800ドル
営業内容  牧畜、小売、製糖、醸酒、竹製家具製造販売、出稼ぎ
組合規則  ⇒ 「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」

1902(明治35)  亮次郎 28才
2 エスクイントラに新商店を開店
2月24 ブエブロ・ヌエボ店の鈴木若が結婚し、分離独立
9月1 グアテマラからの転住者1人が組合に加入

1904(明治37)  亮次郎 30才
7月6 組合規約を改正し、「三奥組合」を「殖民信用組合」(任意組合)に変更する
  グアテマラからの転住者2人の加入承認
10 タパチュラ市で野菜園を始める
 アカコヤグア村で大工業を始める

1905(明治38)  亮次郎 31才
9月1 組合を改組し、日墨協働会社を設立、登記する(メキシコ国法人)
 資本金  11,321ドル
 組合員  10人
 理事(会社代表者)  照井亮次郎
 本部 エスクイントラ村
 事業所  農場 2、雑貨店 2
 会社定款 ⇒  「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」

 1906(明治39)  亮次郎 32才
11 アウロラ(暁)小学校竣工
  全寮制、ローマ字を使った日本語教育を実施

1907(明治40)  亮次郎 33才
8 アウロラ小学校校舎改築

1911(明治44)  亮次郎 37才
10月25 会社に払い下げられた旧村有地の返還をアカコヤグア村議会が決議(土地問題の発生)

1912(明治45/大正元)  亮次郎 38才
 土地問題のため、アウロラ小学校休校
 経営状況(この頃が会社の最盛期か)
  資本金  98,104ドル
  社員数  12人
  事業所  雑貨店 5、薬店 4(2店は医局併設)、農場 1(47ha)、耕地 2(855ha)、ソーダ工場 1、小学校 1
  年間売上額  7~8万ドル

1913(大正2)  亮次郎 39才
2 亮次郎、前年に再発した土地問題について政府と交渉するため墨府に滞在

1914(大正3)  亮次郎 40才
1月初旬 アウロラ小学校を閉鎖
7 児童をタバチュラ市の会社所有製氷所内に作った寄宿舎に移し、地元の小学校にも通わせる
 西日辞典の編纂に着手

1915(大正4)  亮次郎 41才
1月11 ウィストラ村の店が略奪被害にあう。(メキシコ革命の波及)

1916(大正5)  亮次郎 42才
3月14 アカペタグア店が強盗に略奪され、以後閉店
7月16 多福岡(タフコ)農場が強盗被害にあう
9 貿易部を設け、貿易業に着手
12月3 トナラ支店が兵士の襲撃を受ける

1917(大正6)  亮次郎 43才
3月上旬 亮次郎、一時帰国
 会社建直しのため会社所有地「ラ・ペルムタ」の売却を含め資金調達を図るも、不首尾
3月12 アカコヤグア店が略奪にあい、以後閉店
3月15 アカコヤグア店が再び略奪にあう
3月26 会社から在タパチュラ英国副領事館に、治安維持についてチャパス州知事に圧力をかけるよう要請する
 西日辞典脱稿

1918(大正7)  亮次郎 44才
 高橋熊太郎が退社

1919(大正8)  亮次郎 45才
12 貿易部を独立させ、日墨貿易株式会社を設立(日本法人)
  目的 日墨協働会社の雑貨販売及び倉庫業を継承し、日本との貿易を行うこと
  資本金 60万円
  役員 社長 島貫彦次郎、常務 清野鳴雄・照井亮次郎、取締役 有馬六太郎・清野三郎
  本社 東京市神田区
  支店 ウィストラ、タパチュラ

1920(大正9)  亮次郎 46才

3~5月頃 日墨協働会社、解散を決議
○ 残余財産13万円程を出資残高に応じて社員11名に配分。多くの社員は担当していた事業を継承して営業を継続した

1921(大正10)  亮次郎 47才
 在墨日本人移民、革命の被害に対する損害賠償請求権を全て放棄

1922(大正11)  亮次郎 48才
4月20 日墨貿易会社の常務取締役を辞任
 日墨協働会社は少なくともこの頃まで清算会社として法的に存続か

1925(大正14)  亮次郎 51才
8 西日辞典2千部が右文社から出版される

[参考文献]
(1) 川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン
(2) 上野 久著「メキシコ榎本殖民」(1994.4.25 中公新書 1180)

(2014.7.13掲)