(迫舘暇人著「猿ヶ石川遡り記」(2014.8 非売品 花巻市東和図書館蔵)より)
…猿ヶ石川は、北上高地の早池峰連峰薬師岳(1645m)の南斜面(猿ヶ石沢)に源を発して南流し、遠野市街地で西に流路を替えて宮守、東和、北上(臥牛)、花巻の矢沢を流れて北上川に注ぐ延長73㎞の一級河川である。
猿ヶ石とは、源流に”猿だろうか、石であろうか”と見える石が有って、その間から流れ出ているから(民話)とか、アイヌ語に起因する説が有るとされる。中世の頃(13~16世紀)は物資輸送の川舟が往来した事が伝わっている。
又、水が豊富な川で鮭も遡る等淡水魚の宝庫として猿ヶ石川の名が知られ、特にも鮎は南部の殿様への献上品であったそうだ。
豊富な水が流れる猿ヶ石川流域の開拓の始まりは、大昔の蝦夷族の曾長「去返公(さるかえしのきみ)(又の名去返嶋子(さるかえしのしまこ))」であるとされ、「去返」と言えば、遠野郷と東和賀地方の呼称とされている(去返が何時かの時代に猿ヶ石になったとする著書も見える)。
その「去返」を含めた奥州地方は、延歴20年(801)(坂上)田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による蝦夷族滅亡後は俘囚長(ふしゅうちょう)(朝廷に帰順した蝦夷の長)の安倍氏の時代が凡そ260年間、清原氏が20年間、そして平泉藤原氏(3代)の時代が100年間続いたが、文治5年(1189)源頼朝に攻められて、安倍、清原、藤原と続いた在地(奥州)勢力が終末となった。
その後の猿ヶ石川流域については、和賀氏(和賀郡)、稗貫氏(稗貫郡)、阿曽沼氏(遠野郷)領となって400年間続き、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きに遭ったが、翌19年には南部領となって明治維新まで約280年間南部氏によって統治された。
このように幾多の世相の変遷を経ながら猿ヶ石川の水の恵みと共に生活して来た先人達の足跡、…自然の山や開拓された平坦地の単なる自然風状ばかりでなく、生きるための民俗慣習等の歴史の足跡が残されている筈である、との思いである。
このような思いから、猿ヶ石川沿いを遡りながら「去返公」が開発した流域の自然環境と先人達が苦労して築いた歴史の足跡等を”見物”しようと思い立った。
従って即行動する事にし、”川を遡上する主人公”を、子孫を残すために身を擦り減らしながらも故郷の川に戻って遡る「男鮭」とした…
一人前になった我輩は、故郷に帰って子孫を残すために”女鮭”の後を追いながら親潮に乗って南下し、脳裏に覚えさせて置いていた北上川の水の匂いを探し当てる。…
やがて、猿ヶ石川の水の匂いがし、朝日橋を潜ると泥岩層のイギリス海岸で、その直ぐ上の東側の河口から3年ほど前に嗅ぎ覚えた故郷の水が流れ出ている。懐かしい故郷の猿ヶ石川である①。…
漸くにして故郷に帰って子孫を残す事が出来る思いで、ゆっくりと故郷の川を遡って”流域の自然環境と文化”を見聞しながら産卵場所を探すために、猿ヶ石川最下流の国道4号線バイパスの銀河大橋② (猿ヶ石川と北上川を渡る一本の橋532m) (河口から700m)を潜って上流を目指す。
故郷の川は、川幅が広い北上川とは違って狭くて両岸には樹木が生い茂って辺りが一向に見えないので孤独感を感じる。しかし、流れる水は北上川よりは遥かに透明で、やっぱり故郷の”清流猿ヶ石川”である。
スーイスイと遡って行くと、漁師達が柵を設置して我輩等を所定の揚所に誘導して一網打尽にする”関所”が有る。我等を”捕獲して商品化”するためである。
しかし、鮭鱒の捕獲は入工孵化して稚魚の放流が義務付けられている。従って”帝王切開して強制受精させて人工鱈化”する「鮭孵化揚」③が設備されている。
我輩も3年ほど前に此処で人工孵化された一尾であるが、我が子は自然艀化させたい思いで数尾の”女鮭”と共に漁師達の隙を見て”関所の柵を突破”して上流へと遡る。
以降は気楽な気持ちで”流域の自然環境と文化”を眺めながらスーイスイと泳いで産卵場所を見つけるまで遡る。
昔は渡船場が有ったとされる国道283号線の安野橋④(河口から2.3k)を潜り抜けて進み、水から鼻を出して息を吐くと”臭い油のような”臭いがする。付近には民家や小中学校が建っているようだが行政機関等は黙って居るのだろうか。
その内に市道の中野橋⑤(注1)(河口から3.2km)を潜ると右岸(上流に向って左側)に大きな建物が見え、生臭い匂いは此の建物から出ているようだ。20年ぐらい前までは橋の傍に「清流猿ヶ石川をきれいに」と書かれた看板(清流猿ヶ石川を守る会建立)が建っていた、と地元民が言うが今は無い。
此処等から上流は、長い距離ではないが両岸から樹木に覆われた渓谷状の水面を遡る。
その途中、突然上の方で”ゴゴゴゥ ゴゴゴゥ ゴゴゴゥ”と大きな音がしたので、ドデビックリして見上げると高い鉄橋⑥(河口から4.5km)の上を新幹線が走って行くのが後ろの方だけチラッと見えた(左岸(上流に向って右側)は直ぐトンネルであるのでそのトンネルに入って行ってしまった)。
鉄橋の下を過ぎると平良木集落で、右岸に垂直に切り立った岩壁が見え、平良木の立岩の看板が建っていて、”岩場とそれに生える樹木の四季折々の景色は川面に映えて絶景である”と書かれていて、近くに東屋も建っている。傍に共同農園も有って、市の補助事業を活用した地域興しの一環である”地域住民集いの場”となっているそうだ。
此の辺りは、瀬も有リトロも有りで川舟も繋がれていて、淡水魚獲り場なようで、東屋で川魚を串焼きにして”一杯飲む光景”が浮かんで来る。
此処からの右岸は視野が広がって田んぼも民家も見え、此処の直ぐ上流に猿ヶ石橋⑦(河口から5.3m)が架かっている。
此の橋は広域農道の橋で、東和町から毘沙門山を越えて此の橋を渡って金属工業団地、更に北上川を渡って国道4号線沿いの卸売市場に繋がる農道なそうだ。正に農産物流通道であると共に通勤道路となっているようだ。橋の右岸には駐車帯が設けられ、高松地区の旧跡、景勝地、社寺等を表示した看板が建っている。
猿ヶ石橋の少し上流には下山橋⑧(河口から5.7km)が架かって、左岸の北上市下山集落に渡る橋なそうだ。
此の橋を潜る頃から水の量が少なくなった(東和発電所(注2)の稼働を止めたようだ)が、浅瀬を飛沫(しぶき)を飛ばしながら無理々々と遡る。
その内に両側から樹木が生い茂る間に平良木橋⑨(河口から6.8km)が架かっていて、この橋を潜ると左岸は北上市臥牛集落で、右岸は東和町の北成島集落である。
此処には、更木の猿ヶ石発電所(注3)の取水頭首工⑩(注4)(止め、堰堤)(河口から7.8m)が築かれていて、川魚群が遡上する”難関関所”である。
平常時であれば魚道を一気に遡れるが、今日は上流の東和発電所が稼働していないようで全く水が流れず遡上は”絶体絶命”である。仕方無く溜り水に身を寄せて流れて来る水をジッと待つ。
頭首工の下は水が流れないが、上にはなみなみと有って(猿ヶ石)発電所へ流れる隧道入口の水枡(注5)には湛々と水が渦巻いている。この事を見るに、東和発電所が稼働しない時でも更木の発電所が稼働出来る水量が常時流れているようだ。
尚、発電所へ流れる隧道入口の上の山に、田村麻呂蝦夷征伐(801)以前の草創とされる臥牛寺観音堂が祀られていて、創建した人の子去返公(さるかえしのきみ)が此の地に住んで居て、その名が川の名称(猿ヶ石川)になったとも伝わっている。
又、此の付近から多くの砂金が産出した事から平泉と交流が深く、金と牛に因んだ「臥牛寺」寺号だと伝わっているそうだ。…
翌日の昼頃になって水が流れて来た。魚道を”一目散”に遡って進むと、左岸の県道(東和北上線)沿いに通常「五角岩(地質鉱学では五角状安山岩 指定文化財)」と言われる屏風状の岩が有るとの事であるが、樹木が生い茂って全く見えない。”指定文化財がこのような管理では如何なものか”との思いである。昔は、此の辺りに舟場があったそうだ。
その内に毘沙門橋⑪(河口から9.7km)を潜るが、此の付近は右岸の毘沙門山と左岸の山によって狭まっている。伝えによると、大昔は此の山々が連なった一帯の山であって、去返川(猿ヶ石川)が堰き止められていて上流の安俵、土沢は沼であった。それが、何時かの時代に大水によって決壊して沼の後に耕地が開けたそうだ。
= 此の辺りには多くの文化財が有るので探って見る。
通称毘沙門山と呼ばれる山の中腹には、田村麻呂が創建し、八幡太郎義家が戦勝祈願したとされる三熊野神社(県指定)や田村麻呂の化身とも言われる欅一本彫り高さ4.73mの目本一の毘沙門天立像(国指定)が祀られている。
近年になっては子供の成長を願う”泣き相撲”で知られる三熊野神社である。宮沢賢治が詣でた時に詠んだとされる詩碑も建っている。
高台の神社へはバスも通れる急な参道の外、毘沙門天立像の高さに因んだ473段の石段参道が整備されている。
毘沙門橋の直ぐ上流には、成島堤防の桜並木(天勝苑〉、清流の落ち鮎を捕獲する簗(毘沙門簗)、鮎ハウス、和紙工芸館、毘沙門ドーム、更にはゲートボール場12面(国土交通省の水辺プラザ事業)が整備されて、毘沙門山と共に東和町の観光拠点となっている。
尚和紙工芸館については、此処成島地域は藩政時代以前から和紙漉(す)きが行われていて、その漉きの工程を伝えていると共に、実演を見聞したり体験が出来る施設である。
県内で和紙を漉いている所は東和町と東山町の二ヶ所であるが、東和町の和紙は「成島和紙」と言われて最高の品質を誇っているそうだ。
毘沙門簗の柵を乗り越え、堤防沿いの桜並木を横艮に眺めながら遡ると稍(やや)流れが緩やかになる。此処が成島南北を結ぶ明戸舟揚跡なそうだ。
更に進むと川幅が狭くなって河床に大きな石が散在していて絶好の魚釣り場なようだ、と感じながら県道花巻田瀬線の矢崎橋⑫(河口から11.4km)の下を潜ると右岸は安俵、左岸は小通と落合集落である。
此の橋の直ぐ上流右岸は通称矢崎川原と言って、昭和20年代頃までは運動会等を催した川原なそうだ。対岸の左岸からは中内方面から流れて来る小通川が流入している。昔は繰舟が繋がれて有ったそうだ(矢崎舟場)。
尚、此の川の凡そ1㎞上流の小通集落の高台に鳥居、燈籠、狛犬等が建つ神仏混淆を思わせるような鶏冠山小通寺が祀られていると聞く。言い伝えの一端として、乞食が泊まって御本尊を燃やして暖を取り、翌日に出て行ったが間もなく亡くなった。その後、燃やした御本尊が何時の間にか現れたそうだ。寺号は、寺の建つ山裾が遠くから眺めると鶏冠(とさか)のように見えるからと伝わっているそうだ。
矢崎川原を過ぎると荒瀬が続き、左岸に通称出ヶ森(いでがもり)と言われる急に立ち上がった森が見えて頂上に神社が祀られている。文治5年(1189)に平泉が源頼朝の追撃を受けた時に藤原氏の家臣と思われる人が逃れて来たが遂に打たれ、此の地の人々が観音堂を建てて供養し、後に出ヶ森熊野神社と改めたと伝わっているそうだ。
釜石自動車道猿ヶ石橋⑬(河口から13.0km)を潜る辺りからは視野が開けて来て、両岸に堤防が構築されていて、左岸は落合川原、右岸は安俵の田園地帯で遠くに土沢の街が見える。
安俵は、和賀氏の家臣安俵小原氏が城を築いて応永7年(1400)から天正18年(1590)まで10代に亘って此の地を統治して居た所で、近くに小原氏の祈願神とされた愛宕神社や菩提寺(成沢寺)も建っているそうだ。
土沢の街裏には、和賀氏滅亡後に南部領となって土沢に城を築いて江刺氏が居住した城跡が有って、その城跡が土沢の高台に見える。
この辺りは流れが緩やかで釣人が集まる場所なようだ。左岸からは、浮田、倉沢、砂子地域から流水を集めた一級河川毒沢川が流入し、右岸からは、土沢の街裏から発した水が鏑川となって流れ入っていて正に絶好の釣り場である。
国道456号線に架かる落合橋⑭(河口から13.5km)付近で、前郷側と落合側と川が2本に分かれていて、どっちの川を遡ればよいか戸惑うが、水嵩が多くて流れが急な左側(前郷側)の川を一気に遡る。…
[補足]
(注1) 高島用水の取水堰:中野橋の約400m上流に高島用水(大堰、仁兵衛堰)の取水堰がある。「水利使用標識」によれば、水利使用者名:豊沢川土地改良区、水利使用の目的:灌漑、取水量:しろかき期(5月1日~5月15日) 0.600㎥/s 普通灌漑期(5月16日~9月2日) 0.563㎥/s 非灌漑期(9月3日~翌年4月30日) 0.250㎥/s、灌漑面積:180ha 。
(注2) 東和発電所:猿ヶ石川の上流にあり、田瀬ダムから取水し、猿ヶ石川に放水している。
(注3) 更木の猿ヶ石発電所:正しくは、猿ヶ石発電所の所在地は北上市更木ではなく花巻市東十二丁目である。この発電所の取水口に掲示された「水利使用標識」によれば、水利使用者名:東北電力株式会社、水利使用の目的:発電、取水量:最大 16.700㎥/s 。発電所の能力は、認可最大出力3100kW 常時出力 2100kW。
(注4) 頭首工:河川などから水を用水路へ引き入れるための施設の総称。おもに取水堰と取入れ口 (取水口) から成る。頭首工はheadworksの迷訳だとか。
(注5) 高木用水の取水口:現在の高木用水はこの枡から分水している。「水利使用標識」によれば、水利使用者名:豊沢川土地改良区、水利使用の目的:灌漑、取水量:しろかき期(5月1日~5月15日) 0.365㎥/s 普通灌漑期(5月16日~9月2日) 0.343㎥/s、灌漑面積:120ha。
(2015.8.21掲)