「東十二丁目誌」註解覚書:東十二丁目の大東亜戦争

「東十二丁目誌」(注1)の「第7章 近代」、「第17節 事変の発端から戦争終結まで」に「従軍者名簿から」と題して大東亜戦争(注2)の戦没者と生存帰還者の氏名等が掲げられています。
この「従軍者名簿」は、「島従軍記録調査の会」が昭和58年(1983)年9月に調査を開始し、59年7月に本編を、そして60年3月に追補編を完成したものです。
本書の著者・石崎先生がこの会の代表として、この調査を主導されました。
本稿では本書に掲載された従軍者名簿を分析してみます。

在任期間
本書には、戦没者 51名、生存帰還者 146名、合計 197名の出身部落、氏名、主な所属部隊名、行動地区、そして戦没年月・場所(戦没者)または在任期間(生存帰還者)が記されています。
この内、在任期間の記されている182名について、在任期間を図示してみます。

戦没者の在任期間については元の「従軍者名簿」を参照し、また記録の不完全なものについては次のように仮定して、図示しました。
・始期と終期に年のみが記されているものは、始期の月を7月、終期の月を6月とする。
・始期と終期の一方のみが記されているものは、期間を2年とする。

従軍者の在任期間
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従軍者数
在任期間の記されている182名について、月ごとに人数を集計してみます。
不完全な記録についての仮定は前項と同じです。
なお、東十二丁目の当時(昭和15年(1940))の戸数、人口は、
 戸数  223戸
 人口  1、269人 (男 616人、女 653人、昭和15年国勢調査より)
でした。

月ごと従軍者数
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任地
在任期間と任地の両方が記されている172名について、年ごとに任地区分を図示します。
なお、任地が複数あるのに期間が1つしか記されていない場合は、任地ごとに等分することを原則に割振りました。

年毎の任地別グラフ
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従軍記録より
●ニューギニア・ビアク島の戦い(注3)
押切 寛一  大正8年(1919)4月 日生
□      東十二丁目5-129  陸軍曹長
・昭和16年(1941)1月 弘前北部第16部隊に現役兵として入隊す (22歳)
・同年3月 北支派遣第36師団歩兵第222聯隊編入
・昭和16年3月~18年10月まで 北支山西省に於いて各地区警備及び作戦参加
・昭和18年10月 南方転進のため山西省沁県出発、11月 中支呉淞出帆
・同年12月 (ニューギニア)ビアク島上陸、防衛にあたる
・昭和20年(1945)6月 米軍の上陸攻撃により玉砕戦死す (26歳)

-東十二丁目の出身者6名がビアク島で戦死、ニューギニア全体では9名の戦死者が記録されています。
-押切寛一曹長と同じ小袋部落出身の押切要吉伍長、そして隣の二津屋部落出身の市川忠一伍長の2名は、昭和16年の入隊から20年の戦死まで押切曹長と行動を共にしました。
もっとも3名が所属した第222聯隊は約3,500名が在島したということですから、3名が身近にいたかどうかは分かりません。
押切曹長と押切伍長は同い年でした。市川伍長の生年は不詳。

ビアク島の陸軍の総兵力は約13,000名、この中には台湾人とインドネシア人約3,000名が含まれるとのことです。そして死者11,000名余。

大東亜戦争の戦場
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●著者・石崎先生の軍歴(注4)
石崎 直治  明治45年(1912)3月15日生
      東十二丁目23-82  陸軍曹長
・昭和8年(1933)1月 現役兵として盛岡騎兵第23聯隊に入営(21歳)
・昭和9年11月 満期除隊
・昭和15年(1940)7月 充員召集により弘前砲兵第8聯隊に応召入隊、独立輜重兵第19中隊に編入(28歳)
・同年8月 支那派遣のため大阪港出帆、南支那広東新填地到着、同地警備
・昭和16年2月雷州半島遮断作戦に参加、3月 原駐地帰還、広東警備
・昭和16年3月~5月 福州作戦参加、8月 福州撤退作戦参加、11月 仏山地区警備
・同年12月 香港攻略戦参加、其後17年2月まで九竜地区警備
・昭和17年5月~6月 従源作戦参加、銀盞拗付近の戦闘に於いて機関銃弾により左上膊部貫通銃創を受け入院、7月 退院す
・昭和18年2月~19年2月 官窑(よう)地区警備のため赤泥墟に移駐、同地区警備
・昭和19年4月 転属により中支武昌第116師団歩兵第133聯隊附となり、湘桂作戦に参加、衡陽攻略、外各地に転戦、10月 宝慶付近の警備
・昭和20年7月 第20軍野戦貨物廠に転属
・昭和21年(1946)5月 内地帰還のため上海出帆、6月 博多港上陸、召集解除(34歳)

香港での石崎先生
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[補足]
(1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行

(2) 大東亜戦争:本稿では満州事変、日中戦争、太平洋戦争を総称して「大東亜戦争」としました。大東亜戦争に満州事変を含まないのが一般的で、また「大東亜戦争」という用語の使用自体に議論があるようです。しかし私の気分としては、本稿には「太平洋戦争」や「十五年戦争」よりは「大東亜戦争」の方がピッタリときます。

Wikipediaには「大東亜戦争」について、「大日本帝国と、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した戦争に対する呼称。1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が、支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。…終戦後にGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。」とあります。
詳しくはこちらをご覧下さい。

(3) ビアク島の戦い:1944年5月27日~8月20日、太平洋戦争中のニューギニア戦線における戦闘の1つ。詳しくはこちらをご覧下さい。

(4) 石崎先生の足跡:自叙伝「古稀の回想」(1982.8.15発行)に、軍隊生活のエピソードも含め詳しく述べられています。
なおこの自叙伝からの抜粋がこちら↓にありますが、従軍中の事柄には触れていません。
石崎先生の誕生から応召まで
石崎先生の復員から退職まで

 (2018.11.16掲)