私がコンピュータ(電子計算機)と出会ってからかれこれ60年以上が過ぎた。80歳を過ぎた今思うに、若いうちにコンピュータと馴染むことが出来たのはラッキーだった。
2年前に「東十二丁目誌補解」を自費出版したが、この本の謝辞の中に次のように記した。
《インターネットとコンピュータ:
これらを謝辞の対象とするのは奇異に思われるかもしれませんが、私にとってこれらなしには本書の出版は考えられません。
執筆のための情報収集には、もちろん「石崎文庫」や国立国会図書館を始めとする図書館も利用しましたが、ネットのGoogle等の検索サービスは欠かせません。
また私にとってパソコンは単なるデータ入力や清書の道具ではありません。文章を書くのが苦手な私にとって、パソコンを使った試行錯誤は文章を仕上げるために必要不可欠です。また物忘れが酷くなったこの頃では、自分が書いた文書でもパソコンによる全文検索が欠かせなくなりました。》
重い肺疾患の人が酸素ボンベを手放せないのと同様に、脳が弱った今の私にはタブレット端末無しの生活は考えられない。
▪ 仙台、パラメトロン、Fortran Ⅱ
私がコンピュータに興味を持ったのが何時ごろからだったかは全く記憶に無いが、身近な存在になったのは大学2年生か3年生の時(昭和37-8年)だったと思う。当時私は工学部土木工学科の学生で、土木の専門科目以外に工学部共通の授業があり、その中に「プログラミング言語FORTRAN Ⅱ」の授業があった。テキストはIBM発行の英文解説書のコピーだった。この授業は大講義室で行われ、大人数の授業だったので、実習はなかったと思う。
3年生半ばに卒業研究が始まり、私は構造力学研究室に入った。卒論のテーマが「水平ハンチを有する矩形版の応力解析」、コンピュータを使った解析と実験結果を比較するような内容だった。
当時コンピュータのメイン・メモリは磁気コアが一般的だったと思うが、解析に用いたコンピュータは大学の自家製で、メイン・メモリはパラメトロンだったように記憶している。パラメトロンは日本独自の技術だそうだ。そして入力媒体は紙テープ。計算センターで、紙のフォームに書いたプログラムやデータを紙テープに穿孔してもらい、その後計算窓口にそれらを提出し、結果は紙に出力される。紙テープの穿孔機が新興製作所製だったのには驚いた。この会社の本社・工場は花巻城趾の近くにあった。しかしFortranを勉強したにもかかわらず、このコンピュータではFortranを使えなかった。プログラムはアセンブリ言語で書いたように思う。
▪ 神田、NECとIBM
私が大林組に入社したのが昭和40年(1965)。その後暫らく恵那(岐阜県)、豊田、橋本(神奈川県)、熱海と現場の工事事務所勤務が続いたが、42年に自ら希望して東京本社機械計算室に転勤した。勤務地は千代田区神田司町、書店街のある神田神保町や電気街で知られた秋葉原に近く、便利な場所だった。
会社では当時NEC製の大型コンピュータの導入準備中だった。仕事は導入準備と設計部門等に対するコンピュータ利用支援。社内のコンピュータが稼働するまでは田町にあったNECのセンターとか大手町の三菱原子力のセンター、日本橋のIBMのセンターに通った。CDCのセンターに行った記憶もある。
自作した初期のプログラムで記憶にあるのが「法面安定計算」、精々Fortran で600ステップ程度のものだったが、設計部門で結構長い間使われていたと思う。
その他には「杭耐力計算」、「吊り橋耐震解析」、「トンネル積算見積」、…「贈答品管理」、「仁徳天皇陵のCG」なんていう仕事もあった。市販のソフトが出回っていない時代だったので、種々雑多な開発要求が持ち込まれた。
当時の入力媒体は紙カード(パンチカード)になっていた。社内にパンチ室があって、10人近い若い女性社員が務めていたが、後に外注化され、外注先の要員が常駐するようになった。
暫らく経ってから技術計算専用にIBM機が導入され、組織の名称も「機械計算部」を経て「電子計算センター」と改称された。機種はNECが「NEAC 2200シリーズ」、IBMが「System/360」。
▪ 大阪、TIS
昭和46年(1971)、TIS(東洋情報システム)に2年の予定で出向した。TISは三和グループの共同利用計算センターとして設立されたばかりの会社で、私が赴任した当時はメイン・コンピュータの選定が最終段階にあったように思う。最終選考に残っていたのがIBMとCDC。
事務所が大阪駅前にあったが、暫らくして淀屋橋近くに移転。江坂に本社と計算センターを建設中だった。
仕事は両社のプレゼンテーションを聞き、資料を読み、会議で議論すること。若輩者だったので意思決定に直接関与することはなかったと思う。マニュアルなど英文の資料が多かったので、ここで大分英語の読解力を身に着けることができた。もっとも読解力と言っても技術文書に限るが。
また時々営業にも出かけた。三和グループ各社を廻って、TISの営業内容をプレゼンし、サービス開始後の利用をお願いするのだ。
TISで面白かったのは、多くの違う会社からの出向者と接することができたこと。三和銀行、日立造船、帝人、神戸製鋼、三ツ星ベルト、ビーコンシステム、等々。
メイン・コンピュータはIBMに決まった。IBMを三和銀行が、CDCを日立造船が推していた。これはコンピュータだけの問題ではなく、会社の経営戦略に関わる重大事だったと推測する。単純化して言えば、事務系主体で行くか、技術系重視かということ。
2年足らずで出向を解かれたが、その時は未だ本社ビルは完成していなかった。
▪ シンガポール、オフコン、Cobol
大林組は昭和40年(1965)以来シンガポールで埋立工事を施工しており、特に54年から60年まで施工された第6・7期工事は大規模で、約5年間、1日24時間1年365日休むことなく、約4,000万㎥の土砂を掘削、運搬し、埋立面積430haの土地を造成した。請負金330億円強。そして社史(注1)の中に次のようにある。
《…厳しい運転管理体制がとられ、コンピュータによる掘削データの管理システムや中央管理室における集中連絡管理…》
現場工事事務所にオフコン(オフィスコンピュータ)を設置することになり、ソフトの開発などの準備作業は東京で行い、現地での設置、現調、指導のため事務担当2名と土木担当の私が出張した。56年4月中旬の1週間ばかり、私にとっては初めての海外出張だった。
オフコンはNECの「NEACシステム100」、Fortranなど使えるはずもなく、慌ててCobolを勉強して、「掘削データ管理」などのプログラムを作ったはずなのだが、何も憶えていない。
古いパスポートで確認してみると、58年に再度シンガポールに行っているのだが、何があったのかこちらも憶えがない。
▪ 神田、PC-8000、Basic
私の職場、電子計算センターにパーソナルコンピュータがお目見えしたのは昭和56年(1981)4月。前年9月に発売されたNEC製のPC-8001だった。プログラミング言語はBasic。
当初パソコンが社内でどのような使い方をされたのか憶えていないが、常設部門だけでなく現場にも利用が広がっていった。
○ 57年頃のことと思うが、現場の所長が突然訪ねて来て、「ダムのコンクリート打設リフトスケジュールをパソコンでやりたい」と言われた。面白そうなので引受け、所長から聞いたロジックをBasicでプログラムにして、現場に持って行った。パソコンは既に現場にあったのだろう。インストールをして、テストをし、説明をし、1~2泊したのだろうか、帰ろうと思ったら、大雨で川が増水し、その日は帰れなくなった…なんてこともありました。長野県内村ダム 61年竣工。
○ NATM(ナトム)工法は在来支保工の代わりにロックボルトと吹付けコンクリートを用いるトンネル掘削工法で、計測管理が必須だ。計測自体はもちろんセンサーが主役だが、計測結果の分析にパソコンが使わるようになり、現場から呼ばれることがあった。
記憶にあるのは、成田新幹線取香トンネル、58年竣工。しかし同年成田新幹線は工事中断、その後整備計画失効。
社史に《初の砂山でのNATM》とある。現場まで出かけた記憶はあるが、自分が何をしたかは記憶なし。
もう1例、東北自動車道八戸線の折爪トンネル、岩手県九戸郡、60年竣工。このトンネルは膨張性地山などによる難工事で有名。在来工法で着手したが、途中からNATM工法に変更。私が行ったのは多分58年と思うが、こちらも具体的に何をしたかは?
▪ サウジアラビア、Apple/Lisa
昭和59年(1984)1月から4月にかけてサウジアラビアの首都リヤドに長期出張した。前年の暮れに、大林組と現地企業の合弁会社SJCC(Saudi Japan Construction Company)から支援要請があったのだ。施工中の「外交官団地造園工事」の工事代金を月次請求したところ、仕様書にある「コンピュータによる工程/原価管理システム」が実施されていないことを理由に、支払いを拒否されたので、至急対処したい、とのこと。現場では工事さえしっかり施工すれば、コンピュータなど要らない、と考えていたのだろう。当時は原油価格の低迷などもあって国の懐具合が厳しくなり、支払いに厳しくなったなどとも言われていた。
リヤド市内にあるSJCCの本社と郊外の現場事務所、そして時々は監督官事務所を行ったり来たりしていたが、3ヶ月も滞在して自分は具体的に何をしていたのか?!
本社にはAppleのLisaという日本では見たことのないコンピュータがあって、Apple Ⅲから移行作業中のようだった。デスクトップ大型パソコンと言った感じ。これで会計処理とか給料計算をするのだろう。「工程/原価管理」にこれを使えないかと調べて見たが、適当なソフトが手に入らなかったか、私の力不足か…断念。暫定対応として、データをFaxで東京本社に送り、処理結果をFaxだったか航空便だったか定かでないが、返送してもらう事にした。使ったソフトはNEC製のPert/CPM関係のアプリだったと思う。
こんなことをいつまでも続けるわけにはいかない。現地で外注先を探すことになり、私は4月に帰国。
「Lisa」はスティーブ・ジョブズの恋人の名前からとったと聞いた気がするのだが、今調べてみるとジョブズの娘の名前とある。
サウジアラビア滞在中、仕事でサウジアラビア人に会うことはまずなかった。多分唯一の例外がSJCC本社のパスポート係。各人のパスポートはパスポート係に預けることになっていた。
現場事務所では、主任がヨルダン人、技術者がタイ人とパキスタン人、日本人も1~2人いたと思うが、非常勤(本社や他現場との掛持ち)だった気がする。
リヤド滞在中のある日、ジュベイルの現場の所長から電話があった。ジュベイル(ジュバイル)はサウジの東海岸、ペルシャ湾沿岸の工業都市で、リヤド~ジュベイル間は直線距離で380km程。そこで住宅地開発工事を施工していた。所長が言うには、「一時帰国した際にNECのパソコン、PC8000を買ってきたが、使い方が良く分からない。教えて欲しい。」しかし電話で説明したのでは、隔靴掻痒。ジュベイルに日帰りで行くことになった。朝早く出発し、夜遅く帰ってきた。エジプト人の運転手と2人の砂漠横断旅行だった。運転手は間もなく帰国する、みたいな話をしていたように思う。
こんなことも…
珍しく本降りの雨が降ったことがあった。「ワジ(涸川)」と呼ばれ普段は水が流れていない川に、この時は結構な量の水が勢い良く流れていた。珍しかったので、単車で川に沿った道を暫らく走った。30分程行くと小さな集落があり、そこに橋が架かっていた。単車を道端に置いて、橋の上から暫らく川の流れを眺めていた。…そして単車のところに戻ってみると、単車のランプ周りがグジャグジャなって電球がなくなっていた。周りを見回してみると、遠巻きにした悪ガキ共がニヤニヤ笑っている。幸い日中走るのに支障はなかったので、明るいうちに事務所に戻ろうと、帰りを急いだ。
▪ 阪南、2種類のPC、状態遷移図
昭和62年(1987)、久しぶりに現場勤務の辞令がでた。勤務地は阪南JV工事事務所(大阪府阪南市)、工事名称が「阪南丘陵土砂採取工事」だった。
10社JVの大工事で、現場の総勢52名、その内42名がJV構成各社からの出向者だった。
現場事務所のパンフレットによれば、《本工事は関西国際空港に関連する地域整備として阪南丘陵開発を進め、計画的な街づくりを行うことを基本に、その一環として関西国際空港建設事業及び南大阪湾整備事業に埋立用土砂の一部を提供する工事です。…今回の工事では2,300万㎥の土砂の搬出となっていますが、最終的には約125haの用地より6,500万㎥の搬出が予定されている大規模工事です。》
この工事では2種類のPC、パーソナル・コンピュータとプログラマブル・コントローラが多数使用された。パソコンが人間を相手に、プログラマブルコントローラは機械装置を相手に機能するコンピュータ、とでも言ったら良いだろうか。
機械設備の制御など、私には初めての経験、どんな仕事が出来たのか?それは「ユーザ」と「メーカ」の仲介といったような仕事が主だったと思う。
「ユーザ」は工事施工者で10社の建設共同企業体(JV)。大林、大成、前田、西松、等々。「メーカ」はこの工事に機械設備を提供する機電関係企業で、川崎重工が取纏め役だった。
JV側で要求事項を列挙・取纏め、会議でJVとメーカが協議、メーカが持帰り仕様案作成、次の会議で仕様案提示・検討、JV側で再検討、さらに会議…の繰返しだった。
大規模なシステム構築で欠かせないのが関係者間での情報共有。そのための手法、ツールはあまたあるが、ベースは言うまでもなく「文章」で、関係者の書く能力、読む能力が問われる。これが大問題なのだが、ここでは深入りしない。
コンピュータ・システムの開発で使われるツールとして、一般的なものにフローチャートとかHIPO(ハイポ)ダイアグラムがあったが、動的な制御システムはこれでは簡明に表現できない。そこで制御分野では様々な手法が使われていた。私にはそれまで経験したことの無かった分野なので興味深く、その中でも一番関心を持って今でも憶えているのが「状態遷移図」。システム各部の動作を「状態」、「遷移」、「事象」に注目して図示するというものだった。
30年以上も前の話である。今ではどんな手法、ツールが使われているのか?私は知らない。
ではどんなシステムが開発されたのか? 再び現場パンフレットから引用する。
《最新のコンピュータ技術で 中央管理室 コンピュータ制御で・・・
・原石の採取、運搬から破砕、搬送、船積みまでの全工程を中央管理室で集中監視、運転制御しています。
・搬出土砂の品質管理、生産性の向上…を目的に総合管理システムを構築しました。このシステムはパーソナルコンピュータ、総合計装制御装置、プログラマブルコントローラ、各種センサー、光ケーブル、無線通信装置など多様な機器と膨大なソフトウエアで構成されています。…》
現場自体は準備工事の段階で、森林の伐採とか工事用道路・排水路の建設等が行われていた。伐採がまだあまり進んでいない頃、休日に古い山道に分け入り、「良い景色だなあ…でもこの景色も間もなく無くなるのか?!」などと感傷に浸ることもあった。
そんな頃のある日、夕食の時だったか、何かパーティの時だったか、現場の食堂で飲み過ぎてしまった。酔いを醒まそうと単車に乗って場内の道路を走り回っているうちに、急カーブを回り損ねて転倒、気絶。…気が付いたら自室の布団の中にいて、顔が膨れ上がっていた。周りを見ると血の付いたティッシュが散乱している。後で前後の事情を聞いたとは思うのだが憶えていない。何故救急車が呼ばれなかったのか、今にして思えば不思議なのだが、幸い大したこともなく済んだ。場内での自損事故だったので警察の御厄介になることもなかった。ただチョットだけ後を引いたのが労災。翌日外科医院に行ったのだが、労災にしないために現場の事務主任と事前の打合せみたいなことをやったような…。
当時私は現場事務所裏にある食堂の2階の宿舎で寝泊まりしていた。
現場に赴任して1年3ヶ月、平成元年(1989)1月初めに東京本社のセンター所長から電話があった。「いつまで現場で遊んでいるつもりか?そろそろ帰って来られないか?」 現場の所長と相談するなどして、本工事はまだ始まっていなかったが、システム開発は山を越していたので東京に戻ることになった。
ただ気掛かりだった(「心配」というのではなく「興味深い」という意味で)のが検討中の「土量計測システム」、バージ船上で積み込んだ土量(重量ではなく体積)を自動計測するシステム。
関係者に報告書を書いたり、業務引継ぎをしたりして、阪南JV工事事務所を離任したのは平成元年1月末であった。
[補足]
(注1) 社史:「大林組百年史 (1892-1991)」 (H5.6 ㈱大林組発行、A4版 全969㌻)
(2024.4.29掲)