「島郷土史」の目指したもの

「島郷土史」(昭和16年編纂)は「東十二丁目誌」などでしばしば引用される文献ですが、これまで直接手に取ったことがありませんでした。1年以上かかってしまった「石崎文庫」の整理が一段落したので、当文庫所蔵の「歓喜寺文書」の中にある「島郷土史」を読んでみると…
まず思ったのは意外にページ数が少ないこと。それに毛筆の手書きなのです。そして表紙が付いていない。元々なかったのか、コピーするときに抜けたのかはわかりません。毛筆書きの「島郷土史」の前に、ガリ版刷りと思われる「過去帳保存庫並に郷土史編纂に就て」と題した文書が置かれています。
しかしこのプロジェクトの実施主体がはっきりしません。島区民会とか歓喜寺護持会のような団体だったのか、個人有志に依るものだったのか。

「島郷土史」の本体は「歴史」というよりは「地誌」といった趣ですが、これまでにあちこちで引用されているので、改めて感激する程の内容ではありませんでした。私が興味を持ったの「はしがき」に当る「島郷土史編纂趣意」と前述の「…郷土史編纂に就て」と題する文書です。

まず後者から見ていきます。

過去帳保存庫並に郷土史編纂に就て      照井敬三誌
人の人生は極めて短く、之を天地の悠久に比すれば全く一睡の夢にてあり、時節到来すれば凡て過去の人となり、歴史の仲間入りをするのであります。此の永遠の生命とも見るべき歴史の存在せざる郷土は如何に淋しきものなるや、我が島部落に於ける唯一の存在たる歓喜寺の如きでさへ、何時の時代に何人が創建せしや明確なる記録の存するものなく、況んや個人各家の盛衰変遷の如き捕捉すべきもの無きは甚だ遺憾に堪えざる所であります。
古来各寺院には過去帳なるもの存在するも、多くは法号と命日の備忘録に止まり、又其の保存の不備なるに因り、徒に散逸し、或は防火の設備を欫きし為、烏有に帰したるもの尠なからず。かゝる状態にて口碑の他は考証となすに足るもの乏し。若し夫れ過去帳に一定の型範を造り、住職是に記入し、且つ希望者をして其の経歴を附記することゝせば、将来郷土史は自然に出来上がり、之を倉庫に保存せば永遠に伝へ得るものと思はるゝ次第であります。
上掲の如く、未来に郷土史を胎すのみならず、仝時に已往に遡り、地理政治経済産業等を研究し、吾人の祖先は如何に生活せしものなるやを詮索するも興味ある郷土愛の発露なるべし、已往数百千年に亘り郷土史を考究するは、決して不可能の事業に非らざるべく、唯此の意志を承継する人士の奮闘如何に存することゝ思はれます。是は一人一家の努力にては完成するものに非ず、郷土人士全体の協力と永遠の継続力を要する次第でありますから、皆様に普く留意して頂くやうお願ひします。
本年は皇紀二千六百年に当り、興亜の大戦、欧洲の変遷等、尤も記念すべき時であります。此秋に際し、我が島郷土史の基礎を定むることは時機を得たる企劃に非ずやと思はれ、茲に各位の賛助を乞ふのであります。具体的な設計設備は進んで之を公表することゝ致します。
昭和十五年一月

ここで注目すべきは、「郷土史編纂」プロジェクトの目的が単に過去の歴史を記録することではなく、これから紡がれる歴史を正しく記録し保存することにあったということです。そのために保存庫まで建設しようというのです。

それから、この文書の筆者で本プロジェクトの発起人であったらしい照井敬三。彼は、このブログの初めの方で何度か取り上げた照井亮次郎の実兄です。

次に、「島郷土史編纂趣意」の全文を転載します。

島郷土史編纂趣意
茲に皇紀二千六百年をとし島郷土史の記念編纂に着手することになった。此の尤も有意義な然も相当の難事業である此の郷土史の編纂の発端は実に照井敬三氏に依って齎をされたのである、照井氏の抱負の中にも述べてある如く、天地の悠久に比べると人生程儚くも短いものはない、現在の島を開拓した吾等祖先の偉人傑士も少くない筈であるのに、之を正確に後世に伝ふべき何等文献も無く吾等子孫は、折角郷土貢献に棒げし祖先の功績も知る由も無い、況んや、過去の人となれる身に、歴史の消滅程悲しくも寂しいものはない、人は一代名は末代とは後世に伝ふべき歴史がある時初めて名は末代に生きる事となる筈である、唯漫然とした口碑口伝のみでは吾等は何処まで夫れを信じてよいか甚だ心細いのである、爰に照井氏は着眼され、編纂と同時に、之を永久に保存し水火の難を免るゝ保存庫の必要を痛感し、此の建設費用及び編纂諸費用に充つるため金五百円を寄附し、又満洲銀行取締役たる島出身の高橋武夫氏の賛同を得て金五百円の寄附を仰ぐことを得た、合計壹千円を以て、保存庫建設並に史蹟編纂に着手、保存庫は昭和十六年八月落成、史蹟編纂も古川純三氏の編纂に成る村誌を基礎とし、是に依って昭和十六年五月第一回分の調査を完了した、然して之は今後の継続に依り調査研究を行ひ、此の難事業の完成を期すべきである、
此の史蹟編纂に就ては、島出身の現一ノ関国民学校長古川純三氏の指導に俟つ所が非常に多かったのである、其の他照井精一氏も此の事業着手の砌りは多忙の日時を特に割いて指導して戴いた、編纂委員各位には又多忙の家業の余暇を利用献身的な努力を捧げて頂いた事を附記して置く、尚今後幾年を経ても、承継者は此の郷土愛の意志を尊重して、此の事業の継続と努力を致さるゝ様お願いして置く次第である
昭和十六年九月盆日記之

この「趣意」の筆者が誰であるかは、残念ながら分かりません。
郷土史編纂と保存庫建設のために照井敬三、高橋武夫の二氏から500円づつ合計1,000円の寄附があったと記されています。

照井敬三と高橋武夫、この二人の間柄はどのようなものであったのか? と言うのは、高橋武夫の母・小田島柳子は照井敬三の弟・亮次郎と一時メキシコで生活を共にしており、気になります。 あるいは照井敬三と高橋武夫が協力して小田島柳子を帰国させたのかもしれません。
「島郷土史」とは関係ないことです。

遠大な構想の下に始められた郷土史編纂と保存庫建設は、その後どうなったのか? 歓喜寺住職に是非確かめねば、と思っています。

なお本資料の構成は次のようになっています。(注1)
<種目>   <撰録年月日>    <撰者名>
地理     昭和16年5月1日  菅原円蔵
風俗     昭和16年5月1日  佐藤末吉
教育     昭和16年5月1日  古川安忠
開田由来   昭和16年5月1日  押切省三
宗教     昭和16年5月1日  市川源太郎
名所旧跡   昭和16年7月30日  多田善一

[補足]
(1) 「島郷土史」の構成(詳細)
地理    (昭和16年5月1日 菅原円蔵撰録)
・地理
総説(位置境界、面積戸数人口)
総説(部落の変遷、国有林野及官有地、民有地)
地勢(概説、山岳、河川、原野)
地質
動物(陸上動物、水産動物)
植物(草木、水産植物)
・人口
総説
戸数人口(戸数人口、職業別戸数)
婚姻離婚(婚姻、離婚)
出生死亡(出生、死亡)
部落性別調べ
・交通運輸
総説(概説、県道、里道、渡船場、水運)
交通運輸状態(車馬船)
通信(郵便、電話)
・行政
村自治の組織及沿革
行政(部落の組、区長、組頭)
公共団体
名誉職

風俗    (昭和16年5月1日 佐藤末吉撰録)
総説
衣食住
冠婚葬祭(冠礼、婚礼、)
武技
娯楽
登山・物見・巡拝
無尽講・頼母子講
祈祷・家相・運勢・姓名判断等

教育    (昭和16年5月1日 古川安忠撰録)
教育起原の由来(…、照井家に保存の覚書より抜粋)
島小学校創立史(沿革、職員、学校記念事業)

開田由来  (昭和16年5月1日 押切省三撰録)

宗教    (昭和16年5月1日 市川源太郎撰録)
宗教総論
神道(概説、神社)
仏教
参り仏

名所旧跡  (昭和16年7月30日 多田善一撰録)
旧東十二丁目村
地名の由来
照井沼
沼御前
塚根
・伝説巷談口碑
照井沼より鐘を曳揚げたりと云説
・神社仏閣
熊野神社
皇太神宮
薬師堂
山神宮
威徳院
五輪塔
沼頭の笠松

(2016.12.8掲)

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