東葛探遊④ 葛飾郡初石新田

初石新田(はついししんでん)(注1)
〈流山市〉江戸川中流左岸,下総台地上に位置する。
 (現在:流山市江戸川台西3-4丁目・富士見台1-2丁目、富士見台、東初石1-4丁目、西初石1-5丁目、おおたかの森北1-2、東1・4、南1丁目 )

〔近世〕江戸期~明治22年の村名。下総国葛飾郡のうち。
近世中期、上野牧(かみのまき)開発に伴い同牧内に開かれた畑新田で、西は大畔新田・桐ケ谷新田、北西は中野久木村。享保15年(1730)小宮山杢之進・後藤庄左衛門の検地を受けて成立。幕府領として幕末に至る。同年の年貢割付状によれば高165石余、反別は下々畑7町6反余・林畑(注2)70町7反余・屋敷2反余。

初石新田と親村4村

長崎村(高35石余)・十太夫新田(高30石余)・中野久木村(高76石余)・前平井村(高23石余)の各村持添新田(注3)からなり、民家は野火・盗伐の見回りとして十太夫新田持添内に2軒が取立てられた。名主は各親村が兼帯し、伝馬人足など諸役はすべて免除されていた。当初は野馬入場新田(注4)であったが、寛政5年(1793)中野久木村木戸に野馬除土手が築かれて野馬不入新田となった。

文政2年(1819)に家数2・人数13。西部の村境を日光東往還が通る。天保2年(1831)には総間数1,972間の道普請を行い、中野久木村分905間・前平井村分520間・長崎村分539間余と各親村に割り振っている。うち中野久木村分を見ると、さらに29の区域に分けて同村ほか下花輪・谷津・南・上新宿・北・平方・西深井の各村百姓に割当てている。 文政10年村内の長さ27間・横23間の水溜をめぐって野馬水呑場とする十太夫新田と、養水溜井とする駒木新田の間に争論があった。権現社(注5)がある。

〔近代〕明治6年千葉県に所属。同11年東葛飾郡に編入。明治22年八木村の大字となる。昭和26年江戸川町、同27年流山町、同42年からは流山市の大字。
明治24年の戸数6、人口29、厩2。世帯数・人口は、大正2年12・39, 昭和45年278・1,047。昭和43年一部が東初石 1~3丁目・西初石1~4 丁目、同46年東初石5~6丁目・西初石5~6丁目となる。

[補足]
冒頭の地図の明部が旧・初石新田の領域である。
本稿は「日本歴史地名大系12 千葉県の地名」(1996 平凡社)と「角川日本地名大辞典12千葉県」(1984 角川書店)から引用した。

(注1) 初石新田:「初石」という地名のいわれには諸説あるようだ。「楽しい東葛地名事典(東葛流山研究 第30号)」(2012 崙書房)には次のように記されている。
〈初石新田は三方が牧であったため、「鉢石」と言われたという。… また新田開発によって新田村ができ、新しい村として初めて石盛(こくも)りしたことから「初石」と命名されたという説もある。〉
新田は、文字どおりには〈新しく開かれた田〉であるが、田に限らない。Wikipediaによれば…
〈新たに田や畑などにするため開墾してできた農地のことである。また、その地名。〉

(注2) 林畑(はやしばた):近世の検地で決められた地目(土地の利用区分)の一つ。楢・椚などの雑木を植えて薪を切出す畑。
  ⇨「林畑」って林? 畑? (2023.5.19)(館長室から-過去の記事-)
(注3) 持添新田(もちぞえしんでん):村の地続き等の近隣を開いた新田で、本村から出耕作する、新田村居住の農民が不在の土地。収穫不安定な場合は石高が付かないこともあった。
(注4) 野馬入場新田:小金牧で放牧している野馬が自由に出入りできる新田。野馬不入新田は野馬が立入れない新田。

(注5) 権現社:東初石熊野神社のことと思われるが、現在の神社は旧・初石新田の域外にあり、神社が移転したという記録を知らない。
「流山市史・近代資料編」につぎのような由緒が記されている。
〈熊野権現社は、十太夫新田区にあり。… 十太夫新田、初石新田の一部及び駒木新田区の一部小字小山の産土神なり。創立の年月詳らかならず。〉

 (2026.2.23掲)

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