東葛探遊③ 東葛飾郡新川村

私が流山市富士見台に引っ越してきてほぼ50年が過ぎた。しかし今以て地元の人と交わることもなく、エトランゼ気分が抜けないと言うか、当地について知らないことが多い。
例えば「新川」、近所には「新川小学校」とか「新川農協」とか「新川耕地」など、「新川」という呼称が散見される。この「新川」とは何か? 町名や字名にはないようだ。

調べてみると明治から昭和にかけて「新川村」があったとのこと。そして「新川」は江戸川に由来するらしい。本稿ではこの「新川村」にフォーカスしてみたい。(上掲の写真は旧・新川村の現況)

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東十二丁目誌補解の補 覚書: 音坂佐藤家

私の家の本家を「音坂(おとざか)」という。東十二丁目では、明治維新前から続いている有力旧家の一つと言えるだろう。我家はその音坂の隠居分家で、「隠居屋」と呼ばれていた。
本稿では音坂の現在から数えて2代前の当主、素一(そいち)と3代前の当主、孝清(こうせい)について記す。素一さんは私の祖母の弟である。

素一さんについて、まず「稗貫風土記 第1巻 人物篇」(八木英三編 昭和26年4月発行)の記事を転載する。大東亜戦争とその前後を足早に駆け抜けた一人の男の物語…

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東葛探遊② 利根運河会社支配人・森田繁雄の足跡

利根運河のビリケンさんや利根運河大師を追っかけているうちに(注1)、両者の生みの親とも言える利根運河会社支配人・森田繁雄のことが気になってきました。「森田繁雄」とは何者なのか?如何なる経歴の持ち主なのか?

森田繁雄略歴
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東葛探遊① 利根運河のビリケンさんと新四国八十八ヶ所

私鉄・東武野田線(現在では「東武アーバンパークライン」と言うらしい)は大宮から柏を経て船橋に至る路線で、その途中、大宮から小1時間程の所に運河駅がある。「運河」とは変わった駅名だが、これは駅のすぐ北側を東西に流れる利根運河に由来する。

本稿は利根運河にまつわる「ビリケンさん」と「新四国八十八ヶ所」について紹介するものだが、先ずはその前置きとして「利根運河」について概観する。

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「東十二丁目誌」補解の補覚書:
回想の北上川

▪ 瀬音
私が小学生や中学生だった頃(昭和30年前後)の思い出…
夜中にふと目が覚めると、北上川の瀬音がかなり大きく近くに聞こえることがあった。
我家の西側5~600mのところを北上川が北から南に流れており、少し下ったところに浅瀬があった。その浅瀬を流れる水の音だと思うが、普段は聞こえない。水位の加減なのか、風向きのせいなのか、湿度とか気温が関係しているのかもしれない。妙に今でも耳に残っている。

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回想の北上川

「東十二丁目誌」補解の補覚書:
カスリーン台風とアイオン台風

私の台風の思い出
終戦直後の昭和22年と23年に東十二丁目(以下「東十二丁目」の別称「島」と記す)は台風による水害に見舞われた。22年がカスリーン台風、23年にアイオン台風。当時はカスリーン台風をキャサリン台風と呼んでいたように思う(注1)。私は23年の小学校入学なので、小学校入学の前後、77~8年も前のことである。自分の断片的な記憶を辿ってみると、カスリーン台風だったのかアイオン台風の時だったのかは定かでないが…

○我家があった荒屋敷部落の北側 300m位のところに長根部落がある。その間は低地になっていて、普段は田や畑なのだが、その時は濁水に満たされ、水が東から西に流れていた。水流の強さまでは記憶に無いが、色んなものが流れ来り、流れ去っていった。

木や草の塊が次から次へと流れていく。鎌首をもたげた蛇が泳ぐだか流されるだかしていく。小さな小屋が流されていく。その小屋の屋根の上では山羊だったか犬だったかが鳴いていた。
この濁流の流れているところが昔の北上川の河道跡と知ったのは大分後のこと。

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カスリーン台風とアイオン台風