「島郷土史」の目指したもの

「島郷土史」(昭和16年編纂)は「東十二丁目誌」などでしばしば引用される文献ですが、これまで直接手に取ったことがありませんでした。1年以上かかってしまった「石崎文庫」の整理が一段落したので、当文庫所蔵の「歓喜寺文書」の中にある「島郷土史」を読んでみると…
まず思ったのは意外にページ数が少ないこと。それに毛筆の手書きなのです。そして表紙が付いていない。元々なかったのか、コピーするときに抜けたのかはわかりません。毛筆書きの「島郷土史」の前に、ガリ版刷りと思われる「過去帳保存庫並に郷土史編纂に就て」と題した文書が置かれています。
しかしこのプロジェクトの実施主体がはっきりしません。島区民会とか歓喜寺護持会のような団体だったのか、個人有志に依るものだったのか。 続きを読む 「島郷土史」の目指したもの

照井・アテルイ・薬師館

(石塚喜墱著「照井庄誌史・系譜集録」(S60年頃か?)より)

《…照井家の始祖は照井武弘と称し、又押影中将とも言った。その居住地は照井庄と称していた、往古夷首阿弖流為(アテルイ)と言う者が居城していた城下部落である。城跡は山岳部にあって今は薬師堂が祀られてある(注2)。此処地は岩手県花巻市内の東南部に位置し今は東十二丁目と言われている。此の山岳の下は東北新幹線が通っている。… 続きを読む 照井・アテルイ・薬師館

「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-

(「平成2年度花巻市内遺跡詳細分布調査報告書 -花巻地区-」(1991)より)

北上川東岸地区
猿ヶ石川は、早池峰連峰薬師岳に発し、北上山系の山地・丘陵地を開析しながら西流し、花巻市内で北上川に合流する河川である。この猿ヶ石川左岸と北上川に限られた地域が、北上川東岸地区である。
地区内の地形は東西2つに大別できよう。西半分には北上川谷底平野が広がる。北上川の流路のターニングポイント周囲には自然堤防が発達している。また後述する長根・小袋地区及び穂貫田・大木地区には、大きく蛇行した旧河道が残っている。「島」という地名は、これより付けられたものという。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-

「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

「東十二丁目誌」の第2章・第5節「東十二丁目の遺跡」には「高木村の歴史」(注1)から引用して、大沢(一)(集落跡 縄文・平安)、大沢(二)(集落跡 縄文・平安)、小袋(集落跡 平安)、そして薬師堂(館跡 平安)と4ヶ所の遺跡を挙げ、「縄紋時代の遺跡の分布では、北上川東岸の河岸段丘沿いが多いと云われているが、当地域にも地形的に考えてまだ確認されず地中に眠っているものも相当にあるように思われる。」と付言しています。

少し調べてみて驚きました。東十二丁目は「遺跡の郷」の様相を呈しています。平安時代以前のものだけで13ヶ所、人家のあるところの大半が遺跡(公式には「周知の埋蔵文化財包蔵地」と言うようです)に含まれているのです。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

満州から胡四王山へ!?

[プロローグ] 6-7年前、生前の父との会話 :-
父 「お前が中学生の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
私 「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。大体「矢沢」は知っていても、「幸田」なんて知らなかったのでは。ところで何故?」
父 「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったんだ。」
私 「終戦後の満蒙開拓団の引揚げのことかな?」
父 「いや違う。ずっと大昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。ちょっと待って…この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
私 「…そんなことは書いてないなあ。 続きを読む 満州から胡四王山へ!?

記憶の中の「島」

  自足の郷
私が育った島(東十二丁目)は、当時正式には稗貫郡矢沢村東十二丁目といい、人口は1,300人(270世帯)程度だったようです。今にして思えば、この部落には生活に必要ないろいろなものが揃っていました。

小学校  島小学校、私の家から歩いて10分。私が島小学校に入学したのは昭和23年(1948)、新制小学校発足の年で、矢沢小学校島分教場から島小学校になった時です。 続きを読む 記憶の中の「島」