天保検地の行程
天保の検地の成り行きを、本誌と「高木村の歴史」(注1)をもとに追ってみます。
天保13年(1842) 安俵・高木通の検地 (~天保14年)
天保14年(1843) 8月、東十二丁目村・高木村等に検地の仰付(おおせつけ)あり
9月8日、勘定方による下調査が行われる
検地開始前、更木村永昌寺で肝入・古人の誓紙血判がなされる 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:検地と石高
天保検地の行程
天保の検地の成り行きを、本誌と「高木村の歴史」(注1)をもとに追ってみます。
天保13年(1842) 安俵・高木通の検地 (~天保14年)
天保14年(1843) 8月、東十二丁目村・高木村等に検地の仰付(おおせつけ)あり
9月8日、勘定方による下調査が行われる
検地開始前、更木村永昌寺で肝入・古人の誓紙血判がなされる 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:検地と石高
「東十二丁目誌」の「第5章 近世」は120ページを占め、「第3章 古代」と「第4章 中世」の合計61ページに比べて多くのページが割かれています。
それでは、これで近世の東十二丁目村の様子が概ね分かるかと言えば、そう簡単ではありません。
例えば「人口」一つを取ってみても、本誌に直接の言及はありません。(注1)
昨年の年頭に「『東十二丁目誌』註解」を纏めてみようと思い立ち、これまでに「第1章 東十二丁目の地名」、「第2章 原始時代」、「第3章 古代」と「第4章 中世」を見てきました。
今年は昨年分の纏めを続けながら、「第5章 近世」と「第6章 むらの民俗」に進むつもりです。
第5章の構成は次のようになっています。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書:近世概観
「島郷土史」(昭和16年編纂)は「東十二丁目誌」などでしばしば引用される文献ですが、これまで直接手に取ったことがありませんでした。1年以上かかってしまった「石崎文庫」の整理が一段落したので、当文庫所蔵の「歓喜寺文書」の中にある「島郷土史」を読んでみると…
まず思ったのは意外にページ数が少ないこと。それに毛筆の手書きなのです。そして表紙が付いていない。元々なかったのか、コピーするときに抜けたのかはわかりません。毛筆書きの「島郷土史」の前に、ガリ版刷りと思われる「過去帳保存庫並に郷土史編纂に就て」と題した文書が置かれています。
しかしこのプロジェクトの実施主体がはっきりしません。島区民会とか歓喜寺護持会のような団体だったのか、個人有志に依るものだったのか。 続きを読む 「島郷土史」の目指したもの
(石塚喜墱著「照井庄誌史・系譜集録」(S60年頃か?)より)
《…照井家の始祖は照井武弘と称し、又押影中将とも言った。その居住地は照井庄と称していた、往古夷首阿弖流為(アテルイ)と言う者が居城していた城下部落である。城跡は山岳部にあって今は薬師堂が祀られてある(注2)。此処地は岩手県花巻市内の東南部に位置し今は東十二丁目と言われている。此の山岳の下は東北新幹線が通っている。… 続きを読む 照井・アテルイ・薬師館
(「平成2年度花巻市内遺跡詳細分布調査報告書 -花巻地区-」(1991)より)
北上川東岸地区
猿ヶ石川は、早池峰連峰薬師岳に発し、北上山系の山地・丘陵地を開析しながら西流し、花巻市内で北上川に合流する河川である。この猿ヶ石川左岸と北上川に限られた地域が、北上川東岸地区である。
地区内の地形は東西2つに大別できよう。西半分には北上川谷底平野が広がる。北上川の流路のターニングポイント周囲には自然堤防が発達している。また後述する長根・小袋地区及び穂貫田・大木地区には、大きく蛇行した旧河道が残っている。「島」という地名は、これより付けられたものという。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-