「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

「東十二丁目誌」の第2章・第5節「東十二丁目の遺跡」には「高木村の歴史」(注1)から引用して、大沢(一)(集落跡 縄文・平安)、大沢(二)(集落跡 縄文・平安)、小袋(集落跡 平安)、そして薬師堂(館跡 平安)と4ヶ所の遺跡を挙げ、「縄紋時代の遺跡の分布では、北上川東岸の河岸段丘沿いが多いと云われているが、当地域にも地形的に考えてまだ確認されず地中に眠っているものも相当にあるように思われる。」と付言しています。

少し調べてみて驚きました。東十二丁目は「遺跡の郷」の様相を呈しています。平安時代以前のものだけで13ヶ所、人家のあるところの大半が遺跡(公式には「周知の埋蔵文化財包蔵地」と言うようです)に含まれているのです。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

満州から胡四王山へ!?

[プロローグ] 6-7年前、生前の父との会話 :-
父 「お前が中学生の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
私 「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。大体「矢沢」は知っていても、「幸田」なんて知らなかったのでは。ところで何故?」
父 「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったんだ。」
私 「終戦後の満蒙開拓団の引揚げのことかな?」
父 「いや違う。ずっと大昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。ちょっと待って…この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
私 「…そんなことは書いてないなあ。 続きを読む 満州から胡四王山へ!?

記憶の中の「島」

  自足の郷
私が育った島(東十二丁目)は、当時正式には稗貫郡矢沢村東十二丁目といい、人口は1,300人(270世帯)程度だったようです。今にして思えば、この部落には生活に必要ないろいろなものが揃っていました。

小学校  島小学校、私の家から歩いて10分。私が島小学校に入学したのは昭和23年(1948)、新制小学校発足の年で、矢沢小学校島分教場から島小学校になった時です。 続きを読む 記憶の中の「島」

島の七家、九家、八家

  島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。

島の七家は大要次のようであったと伝えられている。 続きを読む 島の七家、九家、八家

「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

「東十二丁目」と「島」という地名の由来について、これまで二度取上げました。
  ⇒ 「東十二丁目」と「島」という地名
  ⇒ 「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-
その後これら地名の解明にあまり進展はないのですが、得られた若干の知見を紹介します。 続きを読む 「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

「東十二丁目誌」註解覚書(4) -類書「高木村の歴史」-

「東十二丁目誌」はA5判、390頁、ハードカバーの本格的学術書といった趣の労作です。世に郷土史、地域史の書籍はあまたあると思いますが、その多くは市町村等の公共団体かその関連組織によって刊行されたもので、本書のように全くの個人がこのような著書を出版するのは珍しいのではないでしょうか。
…と思っていたのですが、 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(4) -類書「高木村の歴史」-