□ 島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。
島の七家は大要次のようであったと伝えられている。 続きを読む 島の七家、九家、八家
□ 島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。
島の七家は大要次のようであったと伝えられている。 続きを読む 島の七家、九家、八家
「東十二丁目」と「島」という地名の由来について、これまで二度取上げました。
□ ⇒ 「東十二丁目」と「島」という地名
□ ⇒ 「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-
その後これら地名の解明にあまり進展はないのですが、得られた若干の知見を紹介します。 続きを読む 「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-
「東十二丁目誌」はA5判、390頁、ハードカバーの本格的学術書といった趣の労作です。世に郷土史、地域史の書籍はあまたあると思いますが、その多くは市町村等の公共団体かその関連組織によって刊行されたもので、本書のように全くの個人がこのような著書を出版するのは珍しいのではないでしょうか。
…と思っていたのですが、 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(4) -類書「高木村の歴史」-
「東十二丁目誌」に「満海坊」が5ヶ所に出てきます。いずれも島の開拓者として登場するのですが、この開拓はどこをいつ頃に行われたものなのか。そして満海坊とは一体どういう人物だったのか? 拙(つたな)い考証を試みます。
東十二丁目誌には次のように述べられています。
(1) 「第3章 古代」の「村の開拓」の中に、「弘仁元年(810)満海坊なるもの、島邑(むら)開拓記念として熊野神社を草創し、新米を供えて旧九月十五日祭典を行ったと由緒が伝えられている。」とあります。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-
第4章 中世
第1節 中世と地方の動き
本節に東十二丁目への言及はありません。
稗貫氏については、「源頼朝は…奥州征伐に功のあった鎌倉武士にそれぞれ恩賞として東北各地を所領として与えた。この時岩手に派遣された御家人は次のように地頭として任命されている。…稗貫盛基 稗貫郡…」とあり、また「稗貫氏は足利時代には一時全盛となったが、広忠の代、天下の動きに対応を誤り、所領を没収され滅亡するに至った。」とあるのみですが、第4節以下で詳しく述べられています。 続きを読む 「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-
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花巻の南の島村に、むかし、悪左衛門という百姓がいました。ひじょうに小男ながら、負けずぎらいで有名でした。
悪左衛門に二人の娘がありましたが、その姉娘の方に縁談がまとまりました。
相手は、水押村の、これまた負けずぎらいで知られた名も同じ悪左衛門でした。その水押の悪左衛門から招待された島の悪左衛門親子は、さっそく出かけました。ちょうど十二月の寒いさいちゅうでしたが、悪左衛門夫婦も、二人の娘も、うすい夏の着物を一枚着たきりでした。 続きを読む 島の悪左衛門