石崎先生の誕生から応召まで

(石崎直治著「古稀の回想」(1982.8.15 非売品)より)

□   □明治43(1910).8  日本、大韓(韓国)を併合、朝鮮と改称
   ■明治45(1912). 3.15 (0才)  出生
  □ □明治45(1912).7.30  明治天皇薨去(61才)、大正と改元
幼き日
静かな村里、緑豊かな山に近く、はるか西の彼方には奥羽山系がくっきりと空を画し、曲りくねった道路の両側には大小さまざまな形をした田圃が並び、その間を縫うように小川が流れ、鮒や鰭をはじめ水に住む虫達が、きれいな水の中を思う存分泳ぎ廻り、水草も流れに逆らわずのんびりとゆれ動く。
そうした中に、大きな家、小さな家が点在する。私はその小さな萱ぶきの家に生を受けた。明治も末、四十五年三月である。
近くに老杉の大木に囲まれた神社(注1)があり、天照皇太神、住吉宮、山祇社と三つの社殿があって、秋のお祭りには家のすぐ前に長い幟が立てられ、終日ギーッ、ギーッとなっていたっけ。 続きを読む 石崎先生の誕生から応召まで

「東十二丁目誌」と石崎直治先生

MrIshizaki私が東十二丁目のあれこれを調べるに当ってまず参照するのが「東十二丁目誌」(平成2年刊)、その著者が石崎直治(なおはる)先生です。
先生は私が中学生の頃の矢沢中学校の教頭でした。昭和30年代のことです。先生は社会科と職業科を教えていましたが、私達の学年の担任ではなく、授業も担当していなかったと思います。そのせいもあって学校での先生の印象は薄く、あえて言えば、失礼な言い方ですが、「面白くもおかしくもない先生」という感じだったように思います。 続きを読む 「東十二丁目誌」と石崎直治先生

亮次郎ゆかりの女たち

   母・マス
   妹・スグ
   妻・ロムアルダ
   長女・アウロラ暁子
   次女・ロムアルダコマ
   幼なじみ?・小田島柳子
   後妻・フェリパ

照井マス母・マス
矢沢村矢沢中島家の出身、昭和10(1935)年12月19日死去(96才)。
亮次郎は渡墨に当り、花巻の豪農・松屋の瀬川弥右ェ門の資金援助を受けたが、弥右ェ門の母も中島家の出身だったらしい。 続きを読む 亮次郎ゆかりの女たち

亮次郎の晩年そして死

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)

日墨協働会社が解散する前、亮次郎は日本から同郷の小田島柳子(注1)という女性を呼び寄せた。「日墨交流史」には、画家・利根山光人氏が「照井を愛した日本人女性」と題して、柳子と亮次郎のロマンという話を寄せている。… 続きを読む 亮次郎の晩年そして死

日墨協働会社解散の原因

(及川 昭「榎本武揚と照井亮次郎」(H16.3.1 花巻史談 第29号)より)

順調に発展を遂げていた日墨協働会社が明治43(1910)年からのメキシコ革命にまきこまれてしまった。35年間独裁政治を続けたディアス大統領と革命軍の戦いである。それが7年間も続いた。

 日墨協働会社の被害
・インフレーション(貨幣価値大暴落)
・ディアス大統領時代に購入した414町歩の返還要求
・暴徒が商店、倉庫を襲う
・社員間の動揺
・会社運営上の意見続出
・製氷工場の失敗
・窮余の一策で設立した日墨貿易会社の失敗

メキシコ革命の終焉とともに大正9(1920)年日墨協働会社は解散し、財産は各社員間で分配した。
先人の全ての研究書は以上の7点内外を[会社解散の]理由として上げている。はたしてこれだけであろうか。… 続きを読む 日墨協働会社解散の原因

亮次郎の社会主義

(及川 昭著「照井亮次郎の日墨協働会社におけるコミューン的経営とその思想の形成」(H18.3.31 花巻史談第31号)より)

はじめに
…榎本殖民団は入殖後、間もなく瓦解するが、照井は仲間とともに紆余曲折を経て「日墨協働会社」を設立。20世紀初頭中南米で様々な事業を展開し、日本人の企業として最大の会社に育て上げた。
この日墨協働会社は、社員に私有財産を認めず、その方針は社会主義的コミューンを理想としたものであった。この方法での経営は20年近くは順調に推移、日墨両国の発展に寄与すると共に、我国のメキシコ移民の基礎を築いた。
ところで、弱冠22才で渡墨した照井は社会主義的コミューンの思想を、激しい労働のさ中にあって如何様にして学び得たのであろうか。… 続きを読む 亮次郎の社会主義