第2章 原始時代
余りに古い時代の事で私には興味のない時代だったのですが、調べてみると東十二丁目に遺跡が多いのには驚かされました。
第1節 旧石器時代
第2節 縄紋時代
本書では「縄文時代」を「縄紋時代」と記しています。石崎先生にどんな思いがあってあえて「縄紋時代」と記したのかは分かりませんが、あるウェブサイト(注1)に《国立歴史民俗博物館の佐原眞さんは学史の尊重と表意文字である漢字を正確に使おうと「縄紋」の復活を提唱されています。》とありました。
第3節 弥生時代
第1節から第3節までに東十二丁目への言及はありません。
第4節 埋蔵文化財と発掘調査
本節には胡四王山、高松、八幡(矢沢字中田)の3遺跡について発掘調査結果の概要が示されていますが、東十二丁目への言及はありません。
第5節 東十二丁目の遺跡
本節には「高木村の歴史」(注2)から引用して、大沢(一)(集落跡 縄文・平安)、大沢(二)(集落跡 縄文・平安)、小袋(集落跡 平安)、そして薬師堂(館跡 平安)と4ヶ所の遺跡を挙げ、《縄紋時代の遺跡の分布では、北上川東岸の河岸段丘沿いが多いと云われているが、当地域にも地形的に考えてまだ確認されず地中に眠っているものも相当にあるように思われる。》と付言しています。
少し調べてみて驚きました。東十二丁目は「遺跡の郷」の様相を呈しています。平安時代以前のものだけで13ヶ所、人家のあるところの大半が遺跡(公式には「周知の埋蔵文化財包蔵地」と言うようです)に含まれているのです(注3)。
[補足]
(注1) 「縄紋の紋の字」 ⇨ https://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/kodaishinonazo/1387331190161.html
(注2) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝著、S62.4.30 同人発行
(注3) 遺跡(発掘)調査: 13ヶ所の遺跡の(発掘)調査で、東十二丁目の縄文時代から古代の様子が明らかになったかと言えば、そう簡単ではありません。夫々の報告書を読み解き、それらの関連を解明することは素人には容易でなく、また発掘調査だけで当時の歴史が明らかになるとも思えません。
またこれら遺跡の発掘調査は考古学・歴史学上の問題意識から学問的観点で計画的に行われたものではなく、埋蔵文化財保護の観点から言わば行政上の手続きとして行われたものと言えそうです。《埋蔵文化財は現地保存する》という大原則の下で、建設工事等のため現地保存が困難は場合(破壊がやむを得ない場合)に、その場所に限って発掘調査することになっているようです。そのため発掘調査の範囲など、中途半端な感じを否めません。勿論「ナイよりはマシ」ですが。
現在東十二丁目では、工場や県道バイパスの建設工事が進んでおり、先行して遺跡の調査が行われたものと思います。その調査報告書の刊行を期待しています。
(参考) 「花巻市内における埋蔵文化財の取り扱いについて」 ⇒
https://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/bunka/bunkazai/1002098.html
(2021.6.4掲)