3 古 代


第3章 古 代  (p.18~39)
第1節 古代のみちのく (概説)
本節に東十二丁目への言及はありません。
稗和地方に関しては、「奥六郡」の註として「奥六郡=…和賀、稗抜(貫)…」とあるのみです。

第2節 古代略年表
東十二丁目と矢沢に関することとして、去返公島子(さるがえしのきみしまこ)の播磨国への移配(805)、矢沢神社勧請(807)、熊野神社創建(810)があります。

第3節 古墳の時代  (豪族の出現と墓、古墳の種類と副葬品、熊堂古墳群、江釣子古墳群、土師器と須恵器)
本節に東十二丁目への言及はありません。

第4節 辺境の征討と開拓の北進  (陸奥国、蝦夷(えみし)、蝦夷の抵抗、村の開拓)
「蝦夷の抵抗」に坂上田村麻呂が、「村の開拓」に胆沢城が登場します。
そして「村の開拓」に《弘仁元年(810) 満海坊なるもの、島邑(むら)開拓記念として熊野神社を草創し…との由緒が伝えられている。》とあります。

私が子供の頃遊びに出かけるところに、堰(農業用水路)近くの「マンケェ」がありました。これは満海坊の「マンカイ」のことであったらしい。満海坊の住まいがあったところなのか、満海坊が開拓したところであったのかは知りません。
また今も「満海坊の墓」と称される石碑が近くの崖の上に残っています。
満海坊については「3.1 満海坊」で検討します。

なお本節には島村の開拓に関する別の伝承も記されていますが、こちらでは満海坊ではなく、田村麻呂の部下、高道朝臣が開墾に従事した事になっています。

第5節 奥六郡の支配  (安倍氏の抬頭)
第6節 前九年の役  (安倍氏の没落)
第7節 後三年の役  (一族死闘)
第8節 平泉の文化  (平泉と藤原氏、義経下向、藤原氏滅ぶ)
以上4節に東十二丁目への言及はありませんが、第6節に「黒沢尻柵」が出てきます。
北上市黒沢尻に「九年橋」という橋があり、前九年の役の名残ではないかと思ったのですが、明治九年の「九年」だそうです。

第9節 村の伝承  (照井庄誌史と系譜集録、島七家、島の照井氏系譜、五輪塔)
本節では島七家と照井氏の系譜について述べられていますが、これは石塚喜墱氏(島村出身、秋田県横手市得浄寺住職)の研究成果である「照井庄誌史」と「系譜集録」からの要約とのことです。

島七家  田村麻呂軍に参軍した照井武弘氏主従8人がこの地に土着して、照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者7人は島氏を称して島七家と云った。そして、上(かみ)の島家が後に押切氏を称し、中の島家が小田島氏に、耆(き)の島家が大木氏に、丘の島家が小田島家に、川の島家(初代が入道して満海坊)が古川氏になった、というのです。

「照井」という苗字は全国的には珍しい方に属すると思いますが、私には身近な存在です。「第10章 郷土の先人」には「照井亮次郎」が出てきますし、私が育った家の東隣も西隣も照井です。
私は小学校を昭和29年(1954)に卒業しましたが、全卒業生44人のうち照井が4人いました。(注1)

上の照井武弘主従の話は出来過ぎの感がありますが・・・

島の照井氏系譜  照井武弘を初代とする照井家の系図が35代まで載っています。武弘は天平宝字7年(763)生れ、天長3年(826)没と記されていますが、他の人には生没年など年代は入っていません。
「第4章 中 世」の中に、照井武弘の本家の系譜が載っているのですが、そこでは武弘の父・武満が18代として記され、文明5年(1473)に十二丁目に移る、とあります。前述の武弘の時代と大きく食違っていますが、こちらの方が史実に近いのではないでしょうか。第4章で更に検討します。

[補足]
(注1) 島小学校昭和29年(1954)卒業生の苗字:卒業生合計44人、古川 10人、小田島 7人、佐藤 6人、照井 4人、押切・高橋 各3人、多田・宮川・福盛田 各2人、大木・石崎・鴨沢・菊池・新井 各1名

(2021.6記/21.12改)