5 近世

天保検地絵図面(全体図)
(巻末(p.)に拡大カラー図あり)

第5章 近世  (p.79~198)
第1節 近世社会と幕藩体制  (概説)
この節に、東十二丁目への直接の言及はありません。
稗貫郡に関しては、稗貫氏の追放と北秀愛の花巻郡代就任が簡潔に述べられています。

第2節 近世年表
天正19年(1591)から慶応2年(1866)までの43項目が表示されていますが、東十二丁目に直接関わるのは次の7項目です。

慶応6年(1601)  南部利直、岩崎の一揆軍を包囲…。此時東十二丁目照井玄蕃・筑後の兄弟、和賀勢に加わり玄蕃陣没したり、と伝う
正保元年(1644)  円通山歓喜寺開創
元禄14年(1701)  仁兵衛堰(大堰)成る
天明元年(1781)  東十二丁目新川工事掘り始め、翌2年2月完成す
天保7年(1836)  飢饉、土蔵改めあり (古川(孫)文書)
元治元年(1864)  高木外2ヶ村の農民、開田計画に反対して騒動す
慶応2年(1866)  歓喜寺雲版成る(竪1尺3寸)

第3節 南部藩  (南部氏糠部五郡拝領、信直公盛岡城築城)
本節に東十二丁目への言及はありません。

なお「第8章 産業の発達」/「第1節 農業生産」の冒頭に「藩の本領と生産高」として、盛岡南部藩の石高の推移が記され、また表高(御公儀高、軍役高)と内高(賦課実収高)いついての解説があります。それによれば盛岡南部藩は寛永11年(1634)に10万石、その後八戸南部藩の分離、蝦夷地警衛の功績による加増を経て文化5年(1808)には20万石になっています。内高は寛永11年20万石余、慶安5年(1652) 22万石余とのこと。

第4節 花巻城と北氏  (北秀愛郡代となる、北松斎郡代を継ぐ、花巻城の夜襲、岩崎合戦)
《天正19年(1591) 南部氏は、稗貫・和賀・志和の3郡を与えられ、…南部家から北秀愛(北信愛(松斎)の次男)に、和賀・稗貫8千石を知行地として花巻郡代とした。》とあり、知行地8千石の内訳に「東十二丁目村  326石2斗8升8合」と記されています。

第5節 代官統治と通(とおり)制  (代官統治、通制、安俵高木通)
「代官統治」の項に《寛永元年(1624)花巻城代…支配地稗貫・和賀2万石… 256石8斗3升3合 東拾二丁目村…》とあります。
「通制」については、「5.1 通・とおり -近世の稗貫・和賀郡-」で補足します。

第6節 東十二丁目の村役  (村肝入役と老名役、組頭、その他の村役、歴代の村役)
《村肝入(むらきもいり)役、書留(かきとめ)役、老名(おとな)役があり、郷村の三役といわれた。然し書留役は村肝入が兼ねたようで、当村にはその名は出ていない。》、《肝入の任命は代官からなされたものか、任期は何年かは分からない。》などとあるのみで、選任方法などへの言及はありません。

第7節 3ヶ村用水堰  (開発と用水、三ヶ村用水堰の由来、用水堰の工事、用水堰の補修、運営組織の変遷、平野仁兵衛氏のこと)
本節の冒頭に次のようにあります。
《私達の村落は、北上山系と北上川の間に存在する集落であるが、南端にある猿ヶ石発電所から山麓にそうて北に進む時、2~300m間隔位に山から沢水が流れ落ちていることに気がつく。そしてそれぞれの沢には小さい俗に山田と称される不整形の水田が棚田となって耕作されている。その沢を登ると大ていはそこに昔使われたであろう堤が確認される。… かつては重要な水源として築造されたものには違いない。…

高木村、東十二丁目村、更木村は共に北上川に接する地でありながら、流れの水を灌概に利用できず、稲作りが困難であった状況に着目された更木村金栗の平野仁兵衛氏は、自己の資産と財を投じこの事業にふみ切り、着工3ヶ年の歳月を経て元禄14年(1701)完成したものであり、仁兵衛堰と云われる。…》

「5.2 三ヶ村用水堰 -仁兵衛堰-」でこの堰について考察し、更に「5.3 幕末の開田計画 -楢山堰-」では幕末に計画されるも未完に終った楢山堰について考察します。

第8節 東十二丁目と新川普請  (奥州街道下欠込む)
第9節 洪水の苦難  (度重なる洪水、対応の状況)
この2節では北上川の氾濫、洪水について、主に石崎先生が収集した東十二丁目の古文書を基に述べられています。

「5.4 新川普請と洪水の苦難」にこの2節の要点を記すとともに、「新川」と「助合」に注目して若干の考察を加えます。
本節と第14節 村境論」では「新川文書」(注1)がしばしば引用されています。「5.5北上川新川に苦しむ」では「新川文書」の中の「普請願帳」から洪水後の普請願上2件を書き下し文(注2)で紹介します。

第10節 村の凶作  (凶作続く、災害の記録、書留の中から)
第11節 土蔵御改の事  (天保の凶作、書留の中から)
こちらも主に東十二丁目古文書から引用されていますが、解読文のみで解説などは付いていません。
「5.6 宝暦の大飢饉」「5.7 土蔵改め」で簡単な解説と考察を試みます。

第12節 百姓騒動  (一揆発生の状況、坪役銭等反対、重税に反対、減税の願い上げ、用水堤普請出役に反対、再び堤普請出役に反対、和賀川普請の出役、御仮屋普請の出役、天保七年の強訴、鬼柳関所越境、歩付高割反対、用水堤御普請出人足反対、高木外二ケ村の開田計画)
本節 のテーマは百姓一揆。冒頭、東十二丁目に関係があると思われる百姓一揆、12件について発生年月、発生地、原因、方法、成否と参加人員の一覧表を掲げ、続いてその1件ごとに簡単な解説と主に当時の文書から引用した書下し文を載せています。

しかし本節の解説と書下し文のみでは全体像が掴み難いので、「5.8 百姓一揆」に「高木村の歴史」(注1)からその要点を引用します。

第13節 照井沼の田丹し  (田丹しのお尋ね)
何故「たにし」のためにわざわざ一節を割いたのか? 著者の意図を計りかねますが…
《「邦内郷村志」に照井沼について「…大田螺(たにし)最名産也」とあり、…》などと記されています。

・「照井沼」については、「第4章 中世」の「第11節 村の伝説と伝承」でも取上げられています。

第14節 村境論  (論所の発端、論争の経過、解決へ)
天明8年(1788)に発生し文化7年(1810)に決着した、北上川を挟む東・西十二丁目村の諍(いさか)いの記録です。これには北上川の河道変遷、新川の掘削、外台村という無住の村の存在が絡んでいます。
無住の村・外台村について「5.9 稗貫郡外台村」で検討します。
抑々(そもそも)近世における「村」とは何だったのか?についても考察してみたい。

第15節 村の検地と租税  (検地の意味、太閤検地、近世の村の検地、天保の検地、検地結果の集計、知行所とその推移、村の租税、年貢高、御役金銭の上納、検見と修正)
検地の意味太閤検地  これら2項では検地についての簡略な説明があるのみで、東十二丁目や稗貫郡への言及はありません。

近世の村の検地  稗貫郡で施行された検地の時期が記され、《然しその実施状況や名寄帳等の記録は天保14年以外は小高帳位しか見当たらない》としています。
なお「第8章 産業の発達」/「第1節 農業生産」の「東十二丁目の村高」の項に寛文5年(1665)から天保14年(1843)までの生産高(内高)の推移表が掲載されています。

天保の検地、検地結果の集計  これら2項には天保14年(1843)の検地の実施体制からその結果である「戸別石高表」までが記されています。それらを整理、補足したものを「5.10 天保検地」で述べます。

知行所とその推移  本項では、知行所(給地)即ち家臣その他に支給された土地について、《知行所は不変のものではなく、それらの記録も少ないので、実態を知るのは困難であり、二三の例を示す》として、享保2年(1717)と天保14年(1783)の領主別知行高一覧と嘉永6年(1853)の知行高の異動について記しています。「5.11 知行所補遺」で若干の補足を加えます。

村の租税  当時の税について、穀納の御年貢と金銭納の御定役金や御役銭それぞれについて解説しています。
金銭による上納分として、正徳元年(1711)の「安俵高木通万御定目」の内容を例示しており、12項目の合計が100石当り金5両1歩余となっています。各項目の金額表示には金貨(両・歩)、砂金(匁・分・厘・毛)、銭貨(貫・文)が混用されており、表示金額から逆算すると金1両=砂金5匁=銭4.48貫となります。

前段で「100石当り」と書きましたが、正確には「御蔵入御役高百石の出金」とあります。「5.11 知行所補遺」で述べたように、享保2年(1717)の記録(推定)によれば、東十二丁目村の総石高766石余の内、御役高441石余とあり、金銭上納分の総額は25両1歩余となります。

年貢高  天保の検地(天保14年(1843))の記録を基に、田畑の等級区分ごとに年貢高を試算し、合計542石(年貢率55.5%)としています。
本項は4項前の「検地結果の集計」の後に置く方が適当と思われます。

御役金銭の上納  本項には文化7年(1810)の 「御役金銭上納通」(納金明細)が示されています。全体で63項目あり、合計金額が金貨に換算(金1両=砂金5匁=銭4.48貫で試算)して約61両3分になります。

検見と修正  検見についての簡略な説明の後に、天保4年(1833)に行われた検見の実施内容が、東十二丁目に残された古文書から翻刻・引用されています。この検見の実施例についての考察を「5.12 検見の実際」に記します。

第16節 社寺の中興  (熊野神社、神明社、歓喜寺と東崗公園、島長根金比羅神社、兜神社、沼御前の堂、秋葉神社、馬頭観世音、小袋稲荷神社、天満宮、不動明王堂、山の神社、牛頭天王宮、薬師堂、稲荷神社、虚空蔵堂、大山祇神社、洗葉巻稲荷大明神、光嶋山威徳院萬川寺、寺跡)
本節は前置きなどもなしに、いきなり熊野神社の紹介から始まります。本節の題名を何故「社寺の中興」としたのか、著者の意図は不詳。
合わせて20社寺・祠堂について紹介していますが、そのほとんどが現存します。
巻末の「付1 社寺アルバム」に著者が撮影・整理した写真のアルバムを掲載します。

本章の纏めとして、「5.13 近世東十二丁目村の基本データ」で本村の人口と面積について考察します。

[補足]
(注1) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行

(2017.2記/22.2改)