5.10 天保検地

天保検地の行程
天保の検地の成り行きを、本誌と「高木村の歴史」(注1)をもとに追ってみます。

天保13年(1842) 安俵・高木通の検地 (~天保14年)
天保14年(1843) 8月、東十二丁目村・高木村等に検地の仰付(おおせつけ)あり
9月8日、勘定方による下調査が行われる
検地開始前、更木村永昌寺で肝入・古人の誓紙血判がなされる
  (肝入:村長、古人(こにん):村の長老・物識り)
9月21日(新暦:10月14日)、東十二丁目村の検地開始 (~閏9月13日中断)
閏9月25日、検地再開 (~閏9月30日(新暦:11月21日))
10月16日、当村歓喜寺で惣御百姓共へ小高手札が渡される

(「天保十三年御検地仕様御定目」より)
小高手札雛形
(「天保十三年御検地仕様御定目」より)

天保検地の実施体制
・御勘定奉行(総責任者・非常駐)  お越しの節は肝入・源之助家に泊
・御調方御役人  御勘定方 一条俊介、外2名
・組編制
 7組編制 合計で役人 22名、御竿取 15名(測量作業員、代官所が武家の小者、農家の若者を臨時に雇用)
 1組は、役人 3~4名、御竿取 2~3名で構成
   (源之助、孫左エ門、藤左エ門、徳右エ門、与左エ門、元右エ門各家に分宿)
・地割別と村方古人  全村3,007筆の田畑・居屋敷が「い」・「ろ」・「は」から「の」までの26地区に分けられ、それぞれに2~3名の古人が割当てられた。
・全村3,007筆を単純に検地日数27日、作業班7組で割算すると、111筆/日、16筆/組・日となる。

検地の経費と負担
天保検地の経費とその負担方法について、「東十二丁目誌」には何も記されていませんが、「高木村の歴史」に「諸経費は高木村だけで高1石について366文を負担するほど大規模なものであり…」とあります。
高木村の村高は803石余でしたので、村全体では約294貫文。金43両程度に相当するようですが、この金額が当時の村にとってどれ程の重さを持ったものだったのか?

なおこの記述の出典である「高木年代記」(又右エ門家所蔵)の文章を書き下すと、
「御検地懸り高一石に付三百六十六文中り、十一月門役仰せ付けらる、一門一貫八百文、家別也、五ヶ年中。」
後段はどういう意味なのか?「各戸が1貫800文を5年間で分納」ということか? (検地の結果に「屋敷数 合156軒」とありますので、総額280貫文余。前述の294貫文とは若干差がある。)

一方、藩当局は検地に当って随分気を配ったようです。数年前まで続いた天保の大飢饉が影響しているのかもしれません。「天保十三年御検地仕様御定目(注2)の中に、検地の経費のことなどについても事細かに定められています。例えば…

《御検地の者幷(ならびに)御竿取ともに、手賄にてお上より右諸入方御渡遣わされ候(そうろう)間、聊(いささか)の品なる共、御百姓ども迷惑に至り申さざる様取斗(とりはかり)申すべき事、》

《前々より御検地の節、松薪・卯時は、其村より相出させ候御法に候得共(そうらえども)、此度は別段御趣意を以て、松薪は御買上、卯時は御雇、且又(かつまた)人馬入用の節は、御雇代下し置かれ候間、右の趣(おもむき)御百姓どもへ心得させ申すべきこと、》

《御代官幷下役、御検地御用にて廻村中賄等の儀は、銘々平日詰合扶持・雑事を以て賄いたし、昼弁当は家来持たせ候様仰せ付けられ候事、
但、所下役より相務候者へは、御扶持・雑事とも下され候事、》

更に「御竿取へ仰せ渡さる」として、

《日用代一日一人五拾文、御扶持米は玄米一升積、雑事代八拾文積下しおかれ、手賄に仰せ付けられ候間、宿の者幷御百姓共より、音信(物)等受くべからず、少しの品たりとも、受け候段後日相知り候はば、曲事(くせごと)(注3)仰せ付けらるべく候事、》

とあり、「御検地の者へ仰せ渡さる」と「先立御百姓へ仰せ渡さる」の中にも同様の定めが記されています。

土地所有の状況
本誌の「(天保の)検地結果の集計」の項にある「戸別石高表」を基に、若干の分析を試みます。
(1)戸別石高の分布

(右クリックで拡大表示できます)
(巻末(p.)に拡大図あり)

  
   25石以上30石未満  1戸(0.5%)
  20石以上25石未満  1戸(0.5%)
  15石以上20石未満  6戸(3%)
  10石以上15石未満   15戸(7%)
  5石以上10石未満    47戸(23%)
  1石以上5石未満   98戸(49%)
  1石未満       34戸(17%)

(2) 戸別石高のトップ10とボトム10

天保の検地名寄帳と肝入・源之助の記録(部分) (右クリックで拡大表示できます)
天保検地名寄帳の表紙と肝入・源之助の記録(部分)

村高の推移
主に「高木村の歴史」を参考に、矢沢地区の東十二丁目村と他4村の村高の記録を年代順に記すと、次のようになります。

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・元禄11年の値が異常なのでこれを除き、寛文4年以前の矢沢村の石高に幸田村の分が含まれると考えると、矢沢地区全体の村高の推移を概観できるように思われる。

[補足]
(注1) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行

(注2) 「天保十三年御検地仕様御定目」:藩法研究会編「藩法集 9 盛岡藩 下」所収。
同書には以下の検地関係文書が収録されている。
〇御検地仕様御定目
元禄十四年長嶺茂左衛門御勘定所え書上 (検地之事)
元文二年御検地仕様帳被仰渡書上 (反畝改様幷斗代之事、御検地之者え被仰渡之事、御代官え被仰渡之事、名寄役人え被仰渡之事、御竿取申付候事、肝煎・古人・先立御百姓共え被仰渡之事、給所地頭え御触之事、惣人数諸入方積之事)
追加
〇御検地仕様御定目追加
(天保十三年御検地仕様御定目、御検地之者へ被仰渡、名寄役え被仰渡、御竿取え被仰渡、先立御百姓え被仰渡、御検地御用中御扶持・雑事幷諸被下物)

(注3) 曲事(くせごと):違法に対する処罰

(2017.4記/21.12改)