5.13 近世東十二丁目村の基本データ

「東十二丁目誌」の「第5章 近世」は120ページを占め、「第3章 古代」と「第4章 中世」の合計61ページに比べて多くのページが割かれています。
それでは、これで近世の東十二丁目村の様子が概ね分かるかと言えば、そう簡単ではありません。
例えば「人口」一つを取ってみても、本章に直接の言及はありません。(注1)
もっとも「第8章 産業の発達」/「第1節 農業生産」の中に天保9年(1838)の男女別人口が示されています。

■ 人
(1) 本章第5節に「邦内郷村誌」から引用して、「民戸 170」(安永9年(1780)改)、「馬数 158」(寛政9年(1797)改)とあります。
なお第8章第1節には天保9年(1838)の戸数 183、人口 男 393、女 353、計 746とあります。
また、天保の検地(天保14年(1843))の「戸別石高表」に202戸が載っています。
 しかし、この戸数は土地を持っている「本百姓」だけのもので、土地を持たない「水呑百姓」などを含んでいないと思われます。当時、当村には「水呑百姓」はいなかったのか?
(2) 「邦内郷村誌」によれば、当時、隣の高木村は155戸で、矢沢地区5ヶ村(東十二丁目、高木、高松、矢沢、幸田、合計 630戸)の中で東十二丁目村が最大の戸数を有していました。

(3) 明治になってからの記録ですが、「岩手県管轄地誌」の「東十二丁目村」の項(明治9年(1876))では「戸数 203戸」、「人数 男 514口、女 490口、総計 1,004口」とあり、「馬 51頭」となっています。
(4) その後の推移を見ると、「島郷土史」(昭和16年(1941))に「戸数 223戸」、「人口 1,269人(昭和15年国勢調査に依る)、内男 616人、女 653人」とあり、私が小学生の頃(昭和20年代)には人口 1,300人、世帯数 270程度だったようです。
(5) そして現在は、人口 1,066人(男 516人、女 550人)、世帯数 340(平成28年9月末現在、花巻市統計書より)。

■ 土地
総面積
(1) 本誌には当村の総面積への言及はありません。
(2) 現在の東十二丁目の総面積は凡そ6.46㎢(1町=9,910㎡として、652町)です。(注2)
(3) 「岩手県管轄地誌」によれば、税地・無税地・官有地を合わせて305町になりますが、山地と原野は含まれていません。(山・林・野について《未だ実測を経ず従前の区域を数う》とあり、山・林・野各々66、118、46ヶ所と記されています。)

農地面積
(1) 本誌の「(天保の)検地結果の集計」の項に、「総反別 88町、内 田形 56.58町 畑形 38.3町」、「居屋敷(宅地) 6.36町」とあり、合わせても101町にしかなりません。
・総面積652町に比べてかなり少ない値になっていますが、どう解釈したら良いのものか?
・ありました! 「第6章 村の民俗」の「居屋敷」の項に《天保14年…此の頃の畑は1反歩が900坪計算である…》。これに従い、かつ居屋敷も1反歩900坪として計算すれば、田形 0.561㎢、畑形 1.139㎢、居屋敷 0.189㎢、合計 1.89㎢です。総面積6.46㎢に比べると、これでもまだ少ないように感じます。
・「高木村の歴史」の「高木村の検地高と年貢高」の項には「1坪は田舎間(いなかま)を用い6尺5寸である」とあり、これを用いると面積が17%強増え、2.22㎢となります。
さらに、これまでは1尺=0.303mとして計算してきましたが、これで良いものか…?

(2) 「岩手県管轄地誌」では、田 78町、畑 152町、宅地 48町となっており、合わせると278町になります。

(3) 現在の地目別面積は
 ・田    132.4ha
 ・畑      70.1ha
 ・山林   260.5ha
 ・宅地    55.9ha
 ・その他   77.4ha (原野、ため池、雑種地等)
 合計    596.3ha  (河川、道路等を含まず)
     (2017年11月 花巻市役所財務部資産税課回答)

土地所有の状況
本誌の「(天保の)検地結果の集計」の項にある「戸別石高表」を基に、若干の分析を試みます。

(1)戸別石高の分布
  25石以上30石未満   1戸( 0.5%)
  20石以上25石未満   1戸( 0.5%)
  15石以上20石未満   6戸( 3%)
  10石以上15石未満   15戸( 7%)
  5石以上10石未満     47戸( 23%)
  1石以上5石未満    98戸( 49%)
  1石未満       34戸( 17%)
   合計        202戸(100%)

  詳しくは「5.10 天保検地」を参照下さい。

(2) 戸別石高表には、「本百姓」(土地持ち農家)しか載っていません。それでは、当村に「水呑百姓」などの土地を持たない住民はいなかったのか?
私は以下の理由から、近世末期には当村に水呑百姓は(ほとんど?)いなかったと推測します。
・明治初期(天保の検地の30数年後)に編纂された「岩手県管轄地誌」に「戸数 203戸」とあり、当時と変わりません。明治になっても本百姓と水呑百姓を区別していたとは考え難いです。
・一方、「邦内郷村誌」によれば、安永年間(天保の検地の60数年前)に「民戸 170」とあり、「民戸」が本百姓を指すのであれば、60数年で本百姓が30戸以上増えたことになります。これは、この間に水呑百姓から本百姓への移行があったからではないか。それが農民自身の努力の賜物なのか、藩の政策の結果なのか、はた又別の理由があったのかは分かりません。

…と考えてみたのですが、このような「本百姓」と「水吞百姓」の二項対立的な見方だけでは当時の村落の実態を知ることはできないようです。「村」と「家(戸)」の構造を詳しく知りたいところですが、私の手には余ります。

[補足]
(
1) 近世の人口:佐藤昭孝編「高木村の歴史」(S62.4.30)に、「村々の民家の軒数と人口数については、盛岡藩の政策から資料が公表されておらず、その実態は容易に知ることができない」と記されています。
「宗門人別改帳」などと呼ばれる帳簿が残っていれば、人口だけでなく家族構成なども知ることができるかもしれません。しかし、本誌にはこれに類する記録についての記述はありません。

(2) 東十二丁目の面積:Google Mapの図上計測による。公式データは未確認(公式データはない?)。

(2017.3記/22.2改)