本誌(注1)「第7章 近 代」の「第6節 平民氏称の公認」について。
本節では、明治になって平民が苗字を称することを公認されたことについて、「戸口調査も行われ、その書上げもなされたと思うが、それらの記録や、どのようにして一人一人の苗字が決定されたものであるかの文書は不明であり、詳細は知る由もない」とし、明治24年(1891)の東十二丁目の姓氏別戸数を掲げるのみです。
《姓氏別戸数: 古川 42、押切 32、小田島 26、高橋 19、大木 12、照井 12、山口 10、多田 7、佐藤 6、市川 5、宮川 5、菅原 4、畑福 4、石崎 4、鴨沢 3、藤原 2、堀田 1、内堀 1 計 195戸 》
矢沢村誌(注2)、花巻市史(注3)、そして岩手県史(注4)を見ても、平民氏称について明治3年(1870)の平民苗字許可令や明治8年(1875)の平民苗字必称義務令に触れることはあっても、各人の苗字がどのようにして定められかの記述は見当たりません。
…ということは、明治の「平民氏称」は大した事件ではなかった、ということでしょうか。
私は、明治維新前の東十二丁目村では多くの村民に苗字はなかったと思い込んでいたのですが、実際はそうではなく、単に公称できなかっただけということだったのか?!
「平民氏称」について、二三拾い読みしてみます。
(1) 「高木村の歴史」(注5)より
平民氏称
藩制時代は特に藩主から許可された者は別として、一般庶民は苗字(みょうじ)を使用することを禁止されていた。それが明治3年(1870)9月、太政官布告により平民も苗字を用いることが許されることになり、このため、高木村でも同5年(1872)戸籍簿作成の時に苗字を称することになった。
この頃の高木村の戸数は172戸(ママ)あり、…苗字ごとの合計は佐藤112戸、高橋23戸、鎌田13戸、…となっていた。
これらの苗字の由来については定かではないが、たとえ百姓であっても寺社への奉納品等には非公式に苗字を私称している例もあり、古くから苗字をもち、代々伝えてきておったものが、明治3年の平民氏称の布告によって正式に使用したものと考えられる。ちなみに、高木村佐藤一族の苗字は、高木古舘家に伝わる照井一族の由緒書(年代不明)に「高木村佐藤清三郎」と書留められていることをはじめ、寛政10年(1798)高木観音堂に納められた一文銭244枚で作った鳥居の額に、新川佐藤氏、古舘佐藤氏と記されていたり、同11年(1799)羽黒堂(現在の高木岡神社)に奉納した獅子頭に、高木村願主佐藤氏と記録されていることなどから察して、佐藤などという苗字は古くから代々伝わってきたものと考える。
平民氏称が許可された当時の戸主は「田向家文書」、「又右ェ門家文書」によると次のとおりであり、こうち佐藤、高橋、鎌田、冨澤、三上、平賀、島等の各氏以外は、明治維新前後に高木村に居を構えた方々であるといわれている。…
(2) 「岩手近代百年史」(注6)より
姓名の自由と階級解放
…しかし実は大部分の民衆は姓を持っていなかったのである。
政府は明治4年戸籍法を定め、国民は姓名を自由につけることが公認された。…
…しかし大半の村民が文字を読めないのに新たに姓名をつけることを認めるといわれても、そう簡単につけられるものではなかった。日本人の姓に難解なものが多いのは有名だが、その多くはこの新戸籍法によって姓を届出なければならず、しかも無学であることがいろいろな珍名の生ずる原因になったといわれている。…
岩手県の町村の新姓名は屋敷名をとったものが最も多く、その屋敷名は地形からつけた名が最も多い。その地形についた名は「やまと言葉」による場合と、アイヌ語による場合とがあった。一関市山目の屋敷名が姓に採用された事例を拾って見ると
石畑・鹿野・五代・堂谷・冲・堀合・林・関根・中野・…
気仙郡広田村(現陸前高田市)の場合は
船元・上角地・泊・合・田崎・鴬沢・千・長根・岩倉・…
がある。
ことに県南地方は葛西の旧領であり、その没落家臣が土着し、代数ある農家として書上げていた百姓は明治になって葛西家時代の姓に復帰し、千葉・及川・岩淵・小野寺・鈴木・金野・三田・葛西を名乗るものが多く、(和賀氏・稗貫氏の旧領である)和賀・稗貫地方は高橋・八重樫・佐々木・佐藤・多田を名乗る者が多い。海岸通りでは菅・菅野・菅木・熊野・熊江・熊倉など、菅原天神・熊野信仰の一団の移住が考えられるような分布を示している。ところが北上山系の北部にはアイヌ語の地名から出たと思われる姓が見られる。長内(オサナイ)・豊間内・米内(ヨナイ)(ナイは小川の意)・馬別(マベツ)・かくべつ・ほろべつ(ベツは大川の意)・釜石・津軽石・附馬牛・尻石(ウシは物のある場所)・姉帯・腹帯(タイは森林)等が、アイヌ語からの転化とみられる。…
(3) 「苗字と名前の歴史」(注7)より
■庶民も名のった姓と苗字
江戸時代の庶民と苗字
ところで、貴族や武士はともかくとして、一般の庶民は一体、姓や苗字とどうかかわっていたのだろうか。
この点については、読者のみなさんも中学や高校時代の歴史の授業で、「江戸時代の庶民は苗字・帯刀(たいとう)禁止だった」と習った覚えがあるのではないかと思う。そして、明治時代になり、庶民も苗字を名のるよう政府によって強制された時、多くの庶民は村のお坊さんらに頼んで、適当な苗字を決めてもらったといった話も、耳にしたことがあるかもしれない。
確かに、江戸時代において苗字は武士の特権であり、幕府や大名に貢献して特別に許可された者を除くと、領主に提出する公的な書類の中や武士の面前で庶民が苗字を用いることは厳しく禁じられていた。
だが、はたしてそれは、江戸時代の庶民が苗字を持っていなかったことを意味するか。この問いにはじめて真正面から答えたのが洞(ほら)富雄氏である。「江戸時代の一般庶民は果して苗字を持たなかったか」という、そのものズバリの題名の論稿も残されている洞氏は、江戸時代の庶民の名前を精力的に調査し、当時の庶民は武士の前では苗字を使えなかったが、だからといって苗字を持っていなかったわけではなく、下層民や新興の住民らを除くと、村の中や庶民どうしの問では、みな堂々と苗字を名のっていた事実をつきとめられた。
もしそうだとすれば、明治維新のおりにあわてて苗字を作った庶民はそれほど多くはなく、むしろ、これまで内々に用いていた苗字をそのまま届け出た者の方が多数派だったことになろう。
洞氏の仕事が公にされると、さまざまな人々によって同様の事例が相次いで発表されたが、ことに豊田武氏の『苗字の歴史』(注8)が刊行されるに及んで、近世の庶民が苗字を使用していたという見解には、もはや疑問をさしはさむ余地がなくなった。
(4) 「名字の歴史学」(注9)より
■庶民が名字を名乗らなかった理由
名字公称の自粛
古代では、一般の人々をも含めて、「百姓<small>(ひゃくせい)</small>」という言葉があった。すべての人が、なんらかの氏<small>(うじ)</small>に属して姓名を持っていたのである。
『万葉集』には、一般庶民の名前が多く記されている。たとえば生玉部足国(4326)・川原虫麻呂(4340)・…
いずれにしても古代には、全員が姓名か名字かを名乗っていたのである。
ところが中世に入って源平合戦前後の頃、突然情況が一変した。一般庶民たちが、姓名や名字を名乗らなくなったのである。
その原因を示すような史料は、まったく存在しない。…
かわってはじまったのが、名字呼称である。新興の武士にとって名字を名乗るということは、自分が領地を持っている領主であるということを、他に誇示することでもあった。それは反面、領地を持っていない者には、名字を名乗る資格がないということにもなる。こうして所領を持たない庶民層が、名字の公称を遠慮し自粛するようになったのではないだろうか。法律などで禁じたわけではない。…
(武家に仕えているが領地を持たない)雑色(ぞうしき)、農民そして商人など領地を持たないものたちが名字公称を自粛する風は、室町・戦国・江戸の各時代にも続いた。やがて領地を持たないものが名字を名乗るのは、悪事だとみる風も生じてきた。…
一方で同時に「名字」という文字が、しだいに使われなくなる。かわって使われるようになるのは、「苗字」である。
苗字の公称を禁じた法令は皆無で、それでいて一般庶民は苗字公称を自粛し続けたのである。奇妙なことである。
この間の事情について、豊田武は著書『苗字の歴史』で、
《結局、村内上層の農民が、一般農民に苗字の私称を禁じたのであり…〈中略〉…幕府や藩の統制によるよりも、共同体内部の規制によることが多かった。》
と指摘している。
農民たちが苗字を名乗らなくなったのは、一村単位でみれば自主規制だったが、その基礎に(村内の)上層部から下層部に対しての圧迫があったと、豊田は考えたのである。
苗字公称の免許
庶民が苗字を名乗らなくなったのは、結局は自主規制であり自粛だった。しかしそれが長年続くと、権力者の側では、自分たちが制限あるいは禁止したのだと、思い込むようになったと考えられる。…
なお一般庶民の階層にあっても、苗字呼称を自粛しなかった職業、あるいは立場の者があった。そしてこれらも権力者の側では、自分たちが苗字呼称を許可しているのだと、思い込んでいたらしい。江戸時代の文書などでは、苗字呼称が「永代差し許し」となっている。
神社の神主や禰宜(ねぎ)、…歴代が苗字呼称をし続けてきた郷士などがこれにあたる。…
この時代、苗字呼称を免許<small>(許可)</small>する権限は、支配者としての武士にあった。しかし武士のすべてが、その権限を持っていたわけではない。幕府の旗本や諸藩の藩士のうち、知行所を持っている者だけに限られていた。だから武士としてというよりも領主としての権限で、これを行使できるのも自分の知行所においてだけだった。
ちなみに江戸時代も中期を過ぎると、幕府の旗本や諸藩の藩士たちも貧窮化してくる。家禄は上がらないのに物価が上昇したからである。このようなとき、知行所を持っていた旗本や藩士などがとった手が、自分の知行所の富裕な百姓に苗字帯刀を免許することだった。そしてそのかわりに借金を棒引きにさせたり、さら借金を頼んだり、ときには謝礼のかたちで冥加金(みょうがきん)を上納させたりしたのである。…
このようなことが、あまりにも頻繁に行われたので、これに手を焼いた江戸幕府は、享和元年(1801)7月、
《百姓・町人が苗字を相名乗り、ならびに帯刀し候儀、其の所の領主・地頭より差し免し候儀は格別、用向きなど相達し候とて、御領所はもちろん、地頭の者より猥(みだ)りに苗字を名乗らせ、帯刀いたさせ候儀は、これ有るまじきことに候あいだ、かたく無用たるべく候。》
というような御触書(おふれがき)を発している(『徳川禁令考』〉。
この法令は、しばしば百姓・町人の苗字帯刀を禁じたものとされているが、これは違う。むしろ対象は「領主地頭」であって、これらが「猥りに苗字を名乗らせ、帯刀いたさせ」るのを禁じたのである。
[補足]
(注1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(注2) 「矢沢村誌」:矢沢村誌編纂委員会編、S29.3.31 稗貫郡矢沢村発行
(注3) 「花巻市史 第1巻」:花巻市教育委員会編、S56.9.15 国書刊行会発行
(注4) 「岩手県史 第7巻 近代篇第2」:岩手県著、S37.9.10 杜陵印刷発行
(注5) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行
第9章 高木村の近代 / 第3節 明治時代初期の行政 / (2) 高木村の戸籍整備と平民氏称 より
(注6) 「岩手近代百年史」:森嘉兵衛・他著、1974.2 熊谷印刷出版部発行
(注7) 「苗字と名前の歴史」(歴史文化ライブラリー211):坂田 聡著、2006.3.1 吉川弘文館発行
(注8) 「苗字の歴史」(読みなおす日本史):豊田 武著、2012.7.1 吉川弘文館発行
(注9) 「名字の歴史学」:奥富敬之著、2004.3.20 角川選書
(2018.12記)